08 境界
"白い境界 2"
written by チカチカ
「マヤ…」

 後ずさりしたマヤを追うように、真澄が一歩踏み出し、言葉を投げた。

「マヤ…、それは、君の心は俺には一度もなかったということなのか…」

 ーー君の心は俺には一度もなかったということなのか…

 その言葉と共に、自分の脳裏に、梅の谷でのあの苦しい雨の一夜が蘇ってくるのを、マヤは絶望的な気分で凝視めつづける。

「…そう…です」

 口から出た言葉は、素っ気無すぎて、その素っ気無さがマヤの心をも突き刺した。

「一度も、ありません…」

 言った瞬間に、心を突き刺した刃が傷を深くえぐった。鮮血がほとばしる。傷口がぽっかりと穴を開けて血を流滴らせる…。

「そうか…」

 真澄のいらえは、氷のように冷たかった。たった今マヤに囁いた、あの甘い声の響きは幻だったのかと錯覚するほどに。

「すまない…手荒なことをして」

 真澄のマヤを見つめる瞳は、どこまでも深く暗い深淵を思わせた。

「披露宴はぜひ楽しんでいったくれたまえ」

「あ、ありがとうございます…」

 マヤはやっとの思いで言葉を探し当てると、か細い声でつぶやいた。

「速水さんも、どうぞお幸せに…」

「ありがとう、今度の公演はぜひ妻と観に行かせてもらうよ」

 その時、ふいに真澄の後ろで、部屋に備え付けられた電話が鳴り出した。

「じゃ、チビちゃん…」

 それが、別れの合図だった。

 マヤに背を向けてくるりと踵を返すと、真澄は、部屋の入り口のちょうど向かい側の壁にかけてある電話をとった。

「ああ、俺だ。そうか…その件はあちらの社長の都合が…」

 事務的な声が、部屋全体に響き渡る。

 マヤはのろのろと入り口の方に向かうと、ドアのノブに手をかけようとして、もう一度真澄を振り向いた。
 部屋中に飾られた純白の薔薇の花々が、むせかえるような香りを漂わせている。
 白い薔薇の中に、黒いタキシードに包まれた真澄の広い背中が滲んでみえた。

(神様、ごめんなさい…今だけ…許してください…)

 マヤの震える唇が、真澄の背中に向けられ、まるで発声練習でもするかのごとく、はっきりと、そしてゆっくりと形を作っていく…


「 ― あ ー い ー し ー  て ー ま ー す ー 」


 あいしてます…あいしてます…

 唇の動きを見ただけで、すべてが悟られてしまうほど、マヤは幾度もその声なき叫びをあげる。

 唇だけで語られた愛の言葉。

 決して声には出せない想い。

(この想いを墓場まで持っていくのは私のほうだ…)

.  マヤは零れ落ちる涙をぬぐうこともせず、自分の視界に映る白と黒のコントラストがぼやけていくのを見つめていた。

 急いでここから立ち去ろう。

 気持ちを断ち切るように。

 何事もなかったかのように。

 背を向けた。








 夜道を影がゆらゆら歩いていく。

 弱い街灯に照らし出された影法師は、闇に紛れてしまいそうなほど薄い。現れたかと思うと消え、消えたかと思うとひょいと現れる。
 まるで、できそこないの透明人間のように。

 マヤはだたその影に、力なく乗っかっているだけだった。
 ひどく疲れていた。 もう何時間、こうやって歩き続けていただろうか。
 歩きながらもう幾度となく繰り返した回想の中では、切り取られた映像が、繰り返し再生される。

 真澄の指、真澄の胸、真澄の声…

 望めば、すぐにでも手が届きそうだったそれらの記憶の断片が、マヤの胸を鋭く貫く。

(速水さん、ごめんなさい…)

 あの後、部屋を出たマヤは、結局真澄の披露宴には出席しなかった。
 いや、正確に言えば、できなかった。

 あの時のマヤにとっては、真澄から逃げ出すことしかできなかった。
 泣きながら駆け出すマヤに、水城が何か声をかけたような気がするが、何も耳に入らない。

(逃げちゃって、ごめんなさい…)

 逃げ出した…その事実が胸にのしかかる…
 あんなに覚悟を決めて、出席を決めたはずだったのに。
 笑って二人を祝福するはずだったのに。

 なのにーー

 情けなくて、影でない自分本体も透明人間になってしまいたいと思った。

 溜息をつく。
 舗道の影がすいっと伸びた。

 行く先も決めず、あてどもなく歩き回ったマヤの足はアパートに向かったが、その足どりはひどく重い。

  (披露宴も、もう終わっちゃっただろうな…)

    鉛を入れたように重い足を引きずりながら、アパートの前まで帰ってくると、何とはなしに空を見上げた。

 暗い夜空の中空に、月が白い姿を見せていた。
 満月のような。
 しかしよく見れば、ほとんどまどかだがどこか足りない十三夜。

「もうちょっとで、満月なのにね」
 もう少しで叶いそうだった自分の想いを重ね合わせると、マヤは月に向かってつぶやいた。

 その時、マヤのバッグの中で、ブルルルと小さな音がした。

 携帯電話だった。
 今まで何回も鳴っていたが、気づかなかったらしい。あわてて電話を取り出し発信先も見ずに、耳にあてる。

 ーーマヤちゃん、今どこにいるの!

 少しかん高い声が、苛立ちを隠さずに流れてくる。

「桜小路くん…」

 −ーもう、君、ずっと携帯、音切ってただろう?何回電話しても出てくれないし…

「ごめんなさい…」

 ーー第一、マヤちゃん、約束した時間になっても来ないから、心配したよ。

  「ごめん…なさい…」

 ーーそれよりさ、大変なことが起こったんだ!

 桜小路の声が突然跳ね上った。

 ーー速水社長の結婚式さ、中止になったんだ。

  「え?」

 一瞬耳を疑う。中止…?

 桜小路が、興奮をかくしきれない様子で、言葉を続ける。

 −ー驚いたよ。一向に披露宴が始まらないからさあ、どうしたのかと思ったらさあ…

 その時、だった。

 視界が、ぐらり、と揺れた。

   目の前に、信じられないものを見た。
 アパートの建物の影から、そこにいるはずのない人物が、ゆっくりと歩みでてきた。

 …真澄だった。

 黒いタキシードに包まれた真澄の端正な顔が、淡い月の光に照らされて、マヤをみつめていた。
 マヤの目が、これ以上はないほど見開かれ、全身が震え出す。

 −ーなんとさあ、速水社長が結婚式すっぽかしたんだって。今どこにいるかわからないらしいんだ…

 桜小路の声が、マヤの耳をすりぬける。

 ーーみんな大騒ぎでさ…ねえ、マヤちゃん、きいてる?マヤちゃ……

 マヤの手から力がぬける…

 力を失った右手はだらりと下がり、支えを失った携帯電話は、地面に勢いよく放りだされる。

 ガチャン。

 マヤは凍りついたまま、その場に立ち尽くしていた。
 まるで、魔物の姿を見たもの全部が、その場で石に変えられた、神話の中の人物のように。

「どうした?幽霊でもみたような顔をして」

 美しい魔物が、その口を開いた。

「どこへ行ってたんだ…待ったぞ」

 息もつけないほど驚いたまま、硬直したマヤの眼前に、魔物は静やかに降り立つ。

  「…ど、どうして、こんなとこに…いるんですか?…」

 マヤは、やっとの思いで声を絞り出した。

「…結婚式は、どうしたんですか?…」

  「出席するといっときながら、きみも披露宴すっぽかしただろう。」

 真澄が、唇をゆがめて薄く笑った。

「俺も、チビちゃんと同じことをしたまでだが」

 いつもの口調。マヤへの軽口。
 その態度にマヤは戸惑う。

「な、何いってるんですか!私と同じなわけないでしょう。からかわないでください!一体どうするんですか、結婚式。延期するんですか」

「延期などしない」

 その口調の強さが、マヤを圧倒する。

「結婚は、しない」

「え?だってさっき私が挨拶にいったときは結婚するって…」

 ぼやけた真澄の背中と、息苦しいほどの白薔薇の香りが、マヤを包み込む。

「確かめるまでは、結婚できない」

「た、確かめる?なんのことですか……」

「きみの心だ」

「え?だって、私はさっき自分の気持ち、言いましたよ…」

 マヤは混乱する。あの瞬間の真澄の暗い目が脳裏をよぎり、心の傷口がじくじくと痛み出す。

「速水さんのこと…なんとも思ってませんって…言ったじゃ…ないですか…」

 声の震えを、懸命に押し隠す。

 真澄は、煙草を一本取り出すと火をつけ、ゆっくりと口に咥えた。

「それは、果たしてきみの本心なのか?」

   「本心に決まってるじゃないですか!」

 マヤは大きく声をあげた。

「今さら、どうしてそんなこと、いうんですか!」

 真澄は、煙草の煙を大きく吐き出すと、静かに言葉を紡ぐ。

    「チビちゃん、俺のかけた電話の隣に、鏡があったんだが…知っていたか?」

「え?…」

 …鏡?…

  「君の姿は、鏡に映っていたんだが…」

 …映って…いた?

 …すべて、見られていた…
   …あの、唇の動きも…

 そう思った瞬間、足の力がすべてぬけ、マヤはぺたりと地面に座り込んだ。

「本当に気づかなかったのか…まったくおっちょこちょいな天女さまだな…」

    真澄のからかいもまるで耳に届かない、茫然自失といった態のマヤに、真澄は優しく囁いた。

「マヤ、今こそ、確かめさせてくれ。」

 そういうと、真澄は地面に片足をついて、座り込んだマヤの前にひざまずく。

「見た瞬間信じられなかった。幻を見たのかと思った。しかし、俺は自分に最後の賭けをした。きみがほんとうに愛を告げてくれたのか」

 ふいに、真澄の右手の親指が、マヤの唇にきつく押し当てられ、唇の輪郭をゆっくりとなぞっていく…

「マヤ、この唇でもう一度言ってくれないか」

 囁くような、駄々っ子を促すような、底抜けに優しい、優しい言い方だった。

 −ーもう一度言ってくれないか…

 真澄の声が、脳裏で幾度もリフレインを繰り返す。真澄の指でなぞられた唇が、熱をもったように疼きだす。

 もう、限界だった。
 これ以上、隠すことはできない…

 やがて、マヤの唇が、今度は音を伴って、再びその言葉を奏でる…。


「……あい……し…て……ま…………す」


 言葉にした瞬間、マヤの中で、行き場を失い、せきとめられた想いが溢れだす。
 溢れでた流れは、飛沫を上げながら真澄に向かってほとばしる。

「…速水さん…愛してます…愛してます…愛して…」

 マヤの声が途切れた。あっという間に、真澄の腕がマヤの華奢な体を包み込む。

 真澄の匂いがした。 真澄の腕の、そして胸の形があった。

「やっと、言ったな」

 真澄が、マヤの耳に唇を寄せて囁く。

「最後の賭けに勝たせてくれた…な」

 真澄の吐息が、マヤの耳朶に触れ、マヤは微かに震えた。

「これからは、境界線など勝手に引くな。俺との間に境界などない…」

 そういうと、息が止まるほど、きつく、きつく抱きしめられる。

 真澄の指がマヤの顎を掴み、一瞬のうちに顔が眼前に近づく。…そして。


 その唇が重なる一秒前、閉じられた瞼の裏で、二人の境界にそびえたつ白い壁が崩れ去っていくのを、マヤは確かに見た。




 音もなく、ひそやかに、崩れ去るその姿を。




 やがて天の上から二人して耳を傾けているような、そんなかけがえもなく、おごそかな静寂が、二人を包み込む。



 後には、十三夜の月が、満ちる直前のかたちをのこしたまま、二人の頭上で菫(すみれ)色に輝いていた。



2003.07.12



<FIN>














□チカチカさんより□
杏子菌に感染して半年あまり、記念に一度くらいはオハナシを書いてみたいと思って、お題募集に手をあげたのが、一ヶ月以上前でした。
今まで、ろくに書いたこともないので、まさに七転八倒の苦しみ…
リアル生活をすべて投げ打って、やっとこさ完成までたどりつきました。苦しかったけど、オハナシを書く喜びも経験できて、とってもいい思い出になりました。
くじけそうになるワタシを何回も励ましてくださって、杏子さん、本当にありがとうございました。

内容については…深く追求しないでください(笑)
ワタシのアレンジ入りまくりです。
「おいおい、『紫のバラの人』の正体はどうしたんだよ!」
という声がきこえてきそうですが、それはこれからの二人でじっくり話し合ってもらう(笑)ということで…

最後になりましたが、菌にまみれた半年、杏子さんのオハナシを読むことができて、本当に夢のようでした。
ESCAPEに、杏子さんに、めぐり合えたこと、とってもとっても感謝しています。
お礼にはとても替えられないけど、この拙いオハナシを、杏子さんに捧げます。
これからも、杏子さんの一ファンでいられることを心から、願っています…









□杏子より□
『悲恋が好き。アンハッピー落ち、好き』
と伺っていたので、途中、かなりヤキモキさせられましたよ〜〜。あ〜、心臓に悪かった。
普段からBBSで、抱腹絶倒のカキコで楽しませてくださっていたチカチカさんですが、いつ『菌』という文字が文中に出てくるのか、震えて待っておりましたが(ウソよ)、全編超シリアス!で、圧巻でした。新たなる、チカチカさんの魅力発見!
菌が菌を呼ぶ、ということを改めて実感させていただけるご投稿、ありがとうございました。






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