22 ふたり
"あなたのいない場所で"
written by YOYO
どうしても紫織のいる家に今日は帰りたくなかった。仕事が残っているから…とかなんとか適当な言い訳をして彼女だけ迎えの車に乗せた。馴染みのバーで苦い酔えない酒を飲んで、気が付いたらマヤのマンションの近くまで歩いてきてしまった…。

夜の公園に浮かぶ白い影…。
天女が舞い降りたのかと一瞬錯覚してしまうほどの美しさ…。
天女は泣いていた。ブランコに座ってただ前を向いて、その大きな瞳から涙をぽろぽろと零していた。まるで羽衣を無くして悲しんでいる飛天のように。

振り向いたマヤは、俺のよく知っているマヤだった。困ったように微笑んで「だめだよ…」と言う。ひさしぶりに彼女に会ったような気がしてくる。

「でも…来てしまった…。まさか君に本当に会えるとは思わなかったが、でも来ないではいられなかった…。」

「帰らなくちゃ…、おうちに帰らなくちゃ…速水さん…。」

「今は、ここにいたいんだよ…。迷惑か?」

…そんなことを言うなんてずるい。もう、二人とも別々の道を歩いているのに…。
あたしはブランコから立ち上がり、近くのベンチに腰掛けた。そして、無理矢理涙を拭うと、半ば強引に仮面をつけた…。

「迷惑…です。速水さんがこんな時間にここにいるなんて、あっちゃいけないことです…。」
速水さんはあたしの顔をじっと見て、小さく微笑んだ。

「ちびちゃん…。仮面の隙間から素顔が見えてる…。」

-ちびちゃんー

…この言葉にすぐに反応して怒るだけだった、あたしはもういない…。この言葉に込められた速水さんの優しさや照れ隠しや…愛情を、あたしはひしひしと感じることができてしまう…。ずいぶんと久しぶりに聞いてしまったこの言葉が、仮面を融かしてしまう…。胸の中が暖かくなるのと同時に瞳から暖かな涙が溢れてくるのを感じた。そんな涙と素顔を見られてしまうのを恐れて地面に顔を向けた。
速水さんは、あたしの隣に静かに座り、私の表情を伺うようにこちらを見る。

「君をこんなに泣かせているのは…俺か?」

「…違います。違うんです…。相変わらずの自信家ですね…、速水さん。あたしは勝手に泣いてるだけです…。誰のせいでもないんです。」

「・・・・」

勝手に泣いている…と言ってうつむく横顔には、もうこれ以上聞いて欲しくないと書いてあるような気がして、次の言葉をかけるのを躊躇った。今、自分の気持ちをこの子にぶつけたらどうなるのだろう…。言わずにロンドンに送り出したことは本当に正解だったのだろうか…。あのとき、本気で伝えようと思ったらいくらでも伝えられたはずだ…。言えば何か変わっただろうか…。俺の手の中にいたと思ったマヤは、本当に飛び立っていったのだろうか…。もう、本当に帰ってくることはないのだろうか…。


しばらくの沈黙の後、突然、速水さんの右手があたしの頬に触れ、強引に自分の方に顔を向けさせた。あたしは、瞬間的に両目をぎゅっと閉じた。

「君を見ていると苦しい…。君が愛おしくて苦しい…。」

「速水さん…。」
「こんなに近くにいながら、君に触れられないのは苦しいんだ…。」

そう言って、私を抱き締めようとする…。あたしは、それに身を任せず、両腕で速水さんの胸に手をつき体を離そうと藻掻いた。速水さんの左の薬指にはプラチナのリングが光っていた。

「速水…さん…。速水さんは、もう紫織さんと結婚しているのに…。今日だって、紫織さんはあんなに幸せそうな顔をしていたのに…。」

だけど、そんな抵抗は彼の力強い腕にはとても叶わない。あっという間にあたしの体は速水さんの大きな胸の中に閉じ込められて…しまった。

「…彼女に愛情を感じたことはない…。この先も愛することはないだろう…。」

「・・・・・」
「俺が愛しているのは君だけだ…。」

ああ…死ぬほどまでに夢見たこの言葉!!

だけど、あたしはこの言葉を拒否して彼の手の中から飛び立った。それなのに結局、こうして胸の中でこの言葉を…「愛している」という甘い囁きを聞いている。

このままこの腕に抱かれたらどんなに幸せだろう…。
これが私の求める姿だったらどんなに幸せだろう…。

あたしは、速水さんの温もりに包まれながらも、月影先生の言葉を必死で思い出す。

『自分の運命の扉を開くのは自分だけ…。』
『ほんとうに大切なのは魂と魂が結ばれること。たとえ表面上の恋が実らなくてもね…。』

がんばれ…あたし…。
自分で選んだ道をちゃんと歩かなくちゃ…。

「速水さん…。あたしの話も聞いてもらえますか?」

そう言って、涙がこぼれないように上を向いて視線を真っ直ぐ自分に向けているマヤの顔は、犯しがたい気高さに満ちていた。マヤを閉じ込めていた腕を緩ませると、彼女は俺の正面に立ち大きく一つ深呼吸をすると、ゆっくり語り出した。

「…長い間、紫の薔薇を私に贈ってくださってありがとうございました。おかげで、こうして紅天女になることができました。そして、これからも女優として生きて行くことができます。どんな感謝の言葉を言っても足りないくらいです。本当にありがとうございました。」

そう言って、マヤは深々と頭を下げた。突然の告白に言葉もでない…。ずっと秘密を守ってきたと思ってきたが、いつのまに気が付いていたのか…。そして、君はそれを俺に追求することもせずに今まで過ごしてきたのか…。

「…でも、もう紫の薔薇はいりません…。自分の足でちゃんと歩いていきたいから…、薔薇が無くてもちゃんと前を向いていきたいから…。」

たった二つの俺たちを繋ぐもの…。その大事な繋がりの一つを自らの手で切ろうというのか…マヤ…君は。

「それから…。」

「あたしも…あなたを愛しています…。あなたを愛することで、愛することの幸福感と苦しさを知りました…。」

「君が…?俺を…?」

すぐには信じられないその言葉…。次々とマヤが語る告白が、俺を混乱させる…。
何度その言葉を聞きたいと願ったことだろう…。だが、それは俺が勝手に想像していたような光景ではなく、ただ淡々と語られただけの告白だった。一方的な愛ではなかったというならば、なぜ、俺の手の中から飛び立っていってしまったんだ…。

「それなら…なぜ…?あの時なら、まだ間に合ったのかもしれないのに…。」

間に合わないと諦めていたのは自分だったはずなのに…。

「…自分が、自分らしく生きていくために…。速水さんがあたしに長い時間を掛けてプレゼントしてくれた女優として生きていく自分に、全身全霊を掛けるために…。」

華奢な外見の中に潜む強靱な精神力。そして内に秘めた熱い情熱。自分らしく生きていく…そんなマヤに俺はどうしようもないほどの憧れと愛しさを感じてきたのではなかったか…。今、目の前にいるマヤは、大きな瞳をさらに大きく開き、背筋をピンと伸ばし、前を向いて自分の信じる道を歩もうとしている。…そして、俺はただ運命に従ったふりをして、自分らしく生きていくこととは何か…を考えることすら放棄して、死んだように生きている。


速水さんはあたしの言葉を聞くと、しばらくの間、あたしの顔を見詰めていた…。そしてゆっくり立ち上がると、あっという間にあたしをまたその長い腕に閉じ込めた。速水さんの胸の鼓動が頬に静かに伝わってくる…。大きな手であたしの髪を何度も撫でながら、耳元で囁くように話す…。

「マヤ…。君はやっぱり、俺が生涯ただ一人愛する人だ…。これまでも…、これからも…。」

「速水さん…。」

ちょっと体を離して、あたしの両腕に手を添え、顔を覗き込んだ。

「だから…、俺も君に恥じない生き方をするよ…。結局今まで俺は一度も自分の運命の扉を自分の意志で開けたことは無かったことになるな…。」

「恥じない生き方って…?」

「まだ教えない…。」

にっこり微笑んだその顔は、あたしが大好きな大好きな速水さん。ちょっと自信過剰で、余裕があって、切れ者で、優しい眼差しの速水さん…。

「あたしが本当に愛するのも、生涯ただ一人…速水さんだけです…。これまでも…、これからも…。」






それから、あたしは二ヶ月にも及ぶ紅天女の公演を無事に終えて、またロンドンに渡った。前回のロンドンでの公演を高く評価してくれた演出家からのラブコールに応えた形で、前回と同じシェークスピア劇と、あたしのために書き下ろしてくれた舞台と二つの舞台に立つことを約束した。
演じる事は、あたしにとって生きること。
北島マヤという役者を待っていてくれる人がいるかぎり、あたしは生涯演じていく。

速水さんが、あれからどうしたかは、詳しくは分からない。あの夜、公園で別れてから次に会ったのは紅天女の楽日だけ。その時も紫織さんと一緒に観劇していた。打ち上げパーティの時も、挨拶を交わしたぐらいだった。あれからもう1年以上が経っている。
あたしには、あの温かい腕の中を振り切った決断が正しかったのかどうか、まだ、わからない…。きっともっと時間が経ったらわかる…のかな…。相変わらず、寂しくて一人で泣く夜もたくさんあるけれど、でも、あたしは、あたしなりに精一杯生きている…。速水さんも、きっと「恥じない生き方」(それが何なのか私にはわからないけど)をしているのだと信じてる。

日本での芸能活動はあの紅天女の舞台だけだった。あたしはどこの事務所にも正式には所属していないので、活動の窓口は劇団つきかげの事務所にお任せしている。紅天女とロンドンでの活動のおかげでたくさんのオファーが入っているらしく、麗からは「その舞台が終わったら、さっさと日本に帰ってくるんだよ。待ってるからね。」と言われている。


今日がロンドンでの舞台の千秋楽。
これが終わったら日本に帰るんだ…。
ものすごく帰りたいような…、でも帰りたくないような…。ちょっと複雑だなぁ…。また、きっと速水さんを見かけることもあるんだろうな…。ものすごく会いたいような…、でも会いたくないような…。
ああ、もう、なにぐずぐずしてるんだろ、あたし。
さっさと着替えなくちゃ…、本番が始まっちゃう…。

楽屋のドアをノックする音。

「どうぞ」

「マヤ、花が届いているよ。ここに置いていいかな。」

着替えながら、振り向かずに返事する。

「ありがとう。」

青い瞳のスタッフが花束を一つ楽屋の鏡前に置いて出て行った。
振り返ったあたしの時が止まる…。

紫の薔薇の花束…!!
カードは?
・・・ないっ!!

楽屋のドアを乱暴に開け、さっきのスタッフを追いかける。

「ねえっ!これは、この花束は、誰からなのっ?」

「えーっと、日本人だったわよ。日本人にしては背の高い男の人だったわ。さっきロビーを通ったときに頼まれたのよ。」

「!!!!」

速水さん!!

あたしは楽屋口のドアを開けて走り出した。スタッフが「ちょっと、もう本番はじまるわよっ!」と叫んでいたような気がするけど、あたしの足は止まらない。迷わず喫煙コーナーに向かう…と、そこには…。

舞台衣装のままロビーを横切って走ってくるあたしを、驚いたような、楽しそうな笑顔で迎えてくれる速水さんがいる…!

どうしてここにいるの?…とか、何があったの?…とか、そんな言葉は何もいらない。ただ、その笑顔を見ただけで、あたしは何かがわかった気がした。
速水さんは、両腕を広げてあたしを抱き留め、きつく抱き締めると耳元で囁いた。

「マヤ…、迎えに来た。全てうまくいく…。」

そう言って、空っぽの左の薬指をひらひらさせてみせた。

「…今、…わかった…。」

「え?」

「速水さんは、あたしが、あたしとして生きていくのに必要な存在…。」

その時のあたしは、きっと宝物を発見した子供みたいな表情だったと思う。速水さんは、あたしの言葉に、ちょっと驚いた顔をしてみせて小さく笑った。

「おかえり…、ちびちゃん。」
「君も、俺が俺らしく生きていくのに絶対に必要な存在だ…。」


そう言って、重ねてきた唇は温かくて、

その温かさにあたしは泣きそうになる。

でも、その涙は

一人の寂しい涙ではなく、二人で幸せになるための涙。









蛇足なお話。


ロビーにいた客は、今日の主役が突然ここで舞台を始めたのかと一瞬静まりかえったけれど、速水さんがあたしにキスをしたら祝福の歓声が上がり、ロビーはたいへんな騒ぎになってしまった。それから、あたしは(たぶん)真っ赤な顔をして、速水さんに一瞬だけの別れを告げて急いで舞台袖に行った。メイクさんに顔を直してもらいスタンバイしていると、グレッグがやってきた。すでにロビーの騒ぎを知っていたようで、「今度はこっちの舞台でも熱演してくれよ。」とウィンクした。

その日のあたしの舞台はこれまでで最高の出来だった…と、英国各紙は報じた。



5.31.2003



<Fin>





□YOYOさんより□
私の理想は、一人でもちゃんと自分らしく生きていける人になること。
でも、二人になるともっと幸せで、もっと自分らしく生きてしまえる二人。
マヤちゃんには、そんな私の理想を背負ってもらいました。
前半戦、悶マス街道まっしぐらだった真澄さんにも、そんなマヤを見て 目を覚ましてもらって、マヤが日本を留守にしている間に秘かにがんばって もらいました(記述無し(笑))
・・・私の書きたかったこと…読んで下さった方に伝わったでしょうか…。 まだまだ精進が足りなそうです。出直してきます…(笑)。







□杏子より□
昔ならいざ知らず、最近の速水氏を見ていると、どうにもこうにもあまりの優柔不断さにハリセンで 叩きたくなることこの上ない杏子ですが、その展開から考えても、マヤちゃんには”演技”っていう何より の生きていく武器があるし、弱いのは速水さんのほうだろうなぁ、と常々思ってました。強くなるマヤちゃん、 成長するマヤちゃん、大好きです。そして、それによってようやく腰をどっこらせ、と動かしてくれる 速水氏も……。
二人でいれば、二人は二人らしくなれる……、じーーんと感じさせていただきました。。
YOYOさんありがとうございました!
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