29 おかえり
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" 帰る場所 2" written by まゆ |
「いいのよ。何でも希望を言って頂戴。できないことはできないって言うから、最初から遠慮する必要はないわ」 マヤの向かいで、水城が革張りの厚いシステム手帳を開いていた。 「あなたのスケジュールと真澄さまのご都合とを合わせると、海外挙式は無理だわ。国内、できれば都内にしてね。横浜くらいなら なんとかなるかもしれないけど。お式はやっぱり教会がいいのかしら。白無垢で神式も悪くないわね。最近は人前結婚式というのも 多いそうよ。披露宴はまあ、あまり派手にするのもイヤかもしれないけど、真澄さまのお仕事関係ではずせない人も多いし、あなたの方も スタッフや共演者の方、お友達、いろいろ呼びたい人もいるでしょうから、そこそこの規模は覚悟してね。そうね、時期は、今から準備 するとなると、半年くらいは時間がほしいし、早く結婚したいでしょうけど、秋まで待ってもらえると助かるんだけど、それでいい?」 矢継ぎ早に話し出した水城に、相槌をはさむこともできず、マヤはアイスティーのグラスを握りしめたまま固まっていた。 「あら、マヤちゃん!もう、あなた自身のことなんだから、もうちょっとしっかりしてちょうだいね」 「ご、ごめんなさい・・・」 「別に謝ることでもないけど。で、式のご希望は?」 「あ、あの、速水さんはなんて?」 「マヤちゃんの希望に任せるとおっしゃっていたわ」 「そう、ですか・・・」 「どうしたの?なんだかあんまり乗り気じゃないみたいよ、マヤちゃん」 水城の眼鏡の奥の目が鋭く光ったように感じられて、マヤは思わず背筋を震わせた。 「あ、ち、違うんです!なんだか、まだピンとこなくて・・・だって、あの、私なんかが速水さんみたいな人と結婚、なんて、 いいのかなあ、とか思っちゃうし、嬉しいんだけど、でもなんだか・・・」 「戸惑ってしまう、ということかしら」 自分の気持ちを的確に表す言葉を見つけられずにいるマヤに水城が助け舟を出した。 「でも、いつまでもこの状態ではマスコミにもよけいな憶測をされるだけだし、形をきちんとするのは大切なことだと思うわ」 「はい・・・」 速水とマヤの交際は一応「公然の秘密」だ。マスコミも大都芸能の社長という大物を相手に手を出しかねていて、おおっぴらに 興味本位の報道がされているわけではないが、しかし記事にするチャンスを虎視眈々と狙われているのは間違いない。ここで婚約、結婚を 正式に発表してしまう方がマスコミ対策としては上策だと水城が考えるのは当然だろう。そして当然、それは速水の考えでもある。 「まあ、そういうことは別にしても、真澄さまがお急ぎになりたい気持ちもわかって差し上げてね」 水城は自分のコーヒーを飲み干すとパタンと手帳を閉じた。 「マヤちゃん、また改めて話をする時間を取るから、それまでもう少し考えて、自分の希望を固めておいて頂戴。一生に一度の ことですもの。じゃあ、今日はここまでにしましょう」 テーブルの上の伝票を手に水城は席を立つと、じゃあお先に、とレジへと行ってしまった。 ひとりその場に残された格好のマヤは、氷が溶けて薄まったアイスティーに口をつけながら、水城の言葉を反芻した。 (形をきちんとする、かあ・・・) マヤは、速水マヤになる、ということの重さが肩の上にずんとのしかかったように感じて、深く吐息した。 (このままでいたい、なんて言ったら、速水さん、怒るだろうな・・・でも「結婚」なんて、私には重過ぎるよ・・・) 隣のテーブルで笑い合う高校生のカップルの無邪気な姿が目に痛くて、マヤはそっと目を伏せたままでストローに口をつけた。 マヤは心が晴れないままだったが仕事は待ってくれない。だが、ドラマの撮影のためにテレビ局入りしたものの、メイク室へ向かう 足取りも心なしか重くなる。そんなマヤに気付いて、親しくしているADが声をかけてきた。 「マヤちゃん、おはよう!なんか元気ないなあ。どうかしたの?」 「あ、おはようございます。そんなことないですよ。元気、元気!」 慌ててマヤは笑顔を作った。 「そう?それならいいけど。あ、そうそう、もう聞いた?メイクの絵理ちゃん、婚約したんだって!もうとろけそうな顔 してるわよ。私より年下なのに、許せん!って感じよね」 こぶしを振り上げるポーズを取っておどけてみせたADにマヤも思わず顔をほころばせた。気さくで親しみやすい絵理とは マヤもメイクをしてもらいながらよく話をする間柄だが、婚約とは初耳だった。 「あの、絵理さん、どなたと?」 「あら、知らなかった?ほら、美術スタッフの岡くん!ちょっといいオトコだと思ってたのに、売約済みだったなんて ショックよねえ」 「岡さんと。そうだったんだ。私そういうことうとくて全然知らなかったです」 「マヤちゃんらしいわ。絵理ちゃんが岡さんと結婚すると、『おかえり』って名前になるのね、ってさっきもみんなでさんざん ひやかしたところよ」 「え?」 「あ、ごめんなさい、向こうでチーフが呼んでるわ。じゃ、またあとでね」 今行きます、と大きな声で返事をして、そのADはスタジオの奥へ駆けていってしまった。 「おか、えり・・・か」 マヤは今聞いた名前を口の中で小さく呟いた。「オオバカナコ」ほどのインパクトはないかもしれないが、それでも自分も よく知る仕事仲間のことだけに胸の底にずんと重く響いた。 田中絵理さんに「岡絵理」となることを決意させたものは何だったのだろうか。本人に聞いてみたい。絵理が待つメイク室 へ向けた足が自然と速くなった。 「絵理さん、婚約されたって聞きましたよ。おめでとうございます」 マヤは鏡に映る絵理に話しかけた。 「あら、もうマヤちゃんまで知ってるの?やだぁ」 やだぁ、と言いつつ、絵理は嬉しそうな表情を隠さない。 「絵理さん、幸せそう・・・」 「ふふ。だって幸せだもの」 「そ、そうですよね」 「さっきもADさんや他のスタッフの方にも責められちゃった。年下なのに先に結婚するなんてずるいぞ、って」 マヤの顔にドーランを伸ばしながら絵理は楽しげに話し続ける。手の動きに合わせて小さく鼻歌まで出てくるほどだ。 「・・・・・・あの、絵理さん。ひとつ聞いても、いいですか・・・・・・」 絵理がアイシャドウの色を選び始めたところで、マヤは恐る恐る声をかけた。 「何?」 絵理は目線は手元に落としたままでマヤに返事をする。 「あの、こんな聞き方してごめんなさい。絵理さんが『岡』って苗字になるの、嫌じゃなかったですか・・・」 間髪いれずにマヤは「ごめんなさいっ!」ともう一度繰り返した。 「なんだ、マヤちゃんも同じこと聞くのねぇ。誰に話してもみんな同じ反応なの」 はい、ちょっと目を閉じて、とマヤの瞼に色を差しながら、絵理は声をたてて笑った。 「まあ、確かにちょっと変わった名前かもしれないけど、でもね、好きになった相手がそういう苗字だった、ってだけなのよ。 田中絵理という名前に愛着もあるけど、でも、私は岡くんが好きだから、岡くんと家族になりたい、って思ったから、岡絵理になるの。 それだけなのよ」 「あ・・・」 マヤが何か言おうとしたのを、絵理の手の紅筆が押しとどめた。 「はい、できあがり!マヤちゃん、キレイ。まるで女優さんみたいよ」 いたずらっぽい笑みをこぼして、絵理はマヤの肩のケープをはずした。 「撮影がんばってね、マヤちゃん!」 ぽん、と肩を叩かれて、マヤは立ち上がった。 体の中に垂れ込めていた霧がさあっと晴れていくような心地だった。目の前を覆っていた霞が消えて、視界が明るくなる。目に 映るもの全てに輪郭と色が取り戻されていく。 「好きだから」 難しい理屈も、悲壮な覚悟も何もいらない。ただ相手を思う気持ちがあればいいのだ、と絵理の笑顔が語っていた。 (大場加奈子さんだって、ただ大場さんが好きだった、きっとそれだけだったんだろう・・・) 考えてみれば、最初から麗はそう言っていた。それほどに相手が好きだったんだろう、と。それを自分の中の漠然とした不安や 自信のなさに勝手に結びつけて、ややこしく回り道をして、自分をどんどん迷路の奥へ奥へと追い込んでしまったのだ。 マヤは大声で叫び出したかった。 ――― 速水さんが好き。大好き。速水さんと家族になりたい。一緒に生きていきたい。 速水を思う気持ちがどんどん大きくふくらんで、もう自分の中に押しとどめておけなくなっていた。 今日、撮影が終わったら、速水さんに会いに行こう。 昨日のこと、ちゃんと謝らなきゃ。 心配かけてごめんなさい。 ひとりで悩んでごめんなさい。 それから、今の私の気持ち、速水さんに聞いてもらうんだ・・・。 マヤは両腕を交差させると、足元から急激に駆け上ってくる熱い思いごと自分で自分をぎゅっと抱きしめた。 「真澄さま、もう一度、マヤちゃんとじっくり話をされた方がよろしいのではありませんか」 マヤと別れて戻ってきた水城は、開口一番、速水にそう詰め寄った。 「マヤちゃん、お式や披露宴の希望を聞いても、なんだか心ここにあらずでしたわ。戸惑っている、とは言っていましたけど」 軽いため息をひとつはさんでから、水城は彼女のボスの顔を正面から見据えた。 「真澄さまのお気持ちはわかります。お急ぎになりたい事情もごもっともですわ。でも、マヤちゃんはまだ若いし、結婚 そのものに対しての不安や、真澄さまが背負われているものへの気後れが先に立って、無邪気に準備の話をするような気持ちには なれないのではないでしょうか」 水城の言葉が、速水に昨夜のマヤのうつろな表情を思い起こさせた。水城の言う通り、自分ひとりが意気込んで、急ぎすぎて いたのかもしれない。 「水城くん、キャピタルテレビの大原常務が会いたいと言っていたな。これからお訪ねしたいと伝えてくれ」 キャピタルテレビでマヤがドラマの撮影中だと知る水城は、かしこまりました、とだけ言ってその場を下がった。 「カット!OK、マヤちゃん。今の、頂くよ」 ディレクターの声にスタジオにみなぎる緊張感が解ける。一刻も早く速水のもとへ行きたい一心からか、マヤはいつも以上の 冴えを見せ、今日の撮影は快調にスケジュールを消化していた。 「30分休憩します。その後、シーン34から再開です」 ADの声を背に、マヤはそっとスタジオを出た。この休憩中にもう一度、役の気持ちを作り直しておきたかった。 「お疲れさま、マヤ」 突然、聞き覚えのある涼やかな声が背後から降り注いで、マヤは足を止めた。 「休憩か?」 速水を思うあまり聞いた幻かと思った声が、もう一度間違いなく聞こえた。マヤはゆっくりと振り返った。 「速水さん!」 目の前に、会いたくてたまらなかった人が立っていた。 「仕事で局に来たんで、ちょっと顔を見に寄ったんだが・・・その・・・」 テレビ局の廊下で立ったまま、何かのついでのように話すことではないと知りつつも、速水は胸をふさぐ不安を吐き出して しまいたくて、水城に言われたことをこの場で切り出そうとした。 「速水さん、ごめんなさい!」 だが、速水が言葉を継ぐよりもマヤが叫ぶ方が早かった。 「昨日はごめんなさい!暗い顔しててごめんなさい。心配かけてごめんなさい・・・」 「ごめんなさい」の連発に速水はどう返答したものかと言葉に詰まっているうちに、マヤが体ごと速水の腕の中に飛び込んできた。 「私、速水マヤになりたい。ううん、もし速水さんが速水さんじゃなくて、別の苗字なら、その別の苗字になる! 私、速水さんが好きなの・・・」 マヤは速水の目をじっと見上げて、思いのたけを一気に投げかけた。 それは、迷子になっていたマヤの気持ちが、帰るべき場所にたどり着いた瞬間だった。 突然の展開の経緯がよく飲み込めない速水だったが、腕の中のぬくもりを抱きとめながら、マヤの言葉が血管を駆け抜け、全身に 広がっていくのを噛み締めていた。 「速水さん、大好き・・・」 速水の胸の上で、マヤの唇がもう一度小さく動いた。 「ああ、よく知ってるよ、マヤ」 背中には廊下を行く人々の視線が突き刺さっているような気がしたし、日ごろから鍛えられたマヤの声はきっと遠くまで響いて たくさんの人の耳に届いたことだろう。事務所の社長としては、所属女優の突然の“結婚宣言”にどう対処するかを考えなければならない ところだ。いやその前に、今この場をどう収拾するかも難問だ。だが彼は、社長としてではなく、ひとりの男としてマヤに囁きかけた。 「マヤ、いっしょにゆっくり歩いて行こうな」 彼の腕の中のマヤの黒い頭が大きく縦に動いた。触れ合った肌から直接、速水の思いがマヤの中に流れ込んでいく。 ――― ただ好きでいてくれればいい。 迷いさすらってやっと見つけた答えに、一番大切な人から大きな花丸をつけてもらえたようで、マヤはもう一度大きく頷くと、 雨上がりの青空のような澄んだ瞳で速水に笑いかけたのだった。 6.10.2003 □まゆさんより□ 最初はもっとバカバカしい「小話」になるはずだったこのお題。 「大庭カメ」さんという名前を聞いたマヤちゃんが、そいうえば友達の絵理ちゃんは「岡絵理」になるのがイヤで恋人と別れた、 という話を思い出し、でも自分だったら、たとえばもし速水さんが「高志」という苗字だとして、結婚したら「タカシマヤ」になって しまうのでも構わないから結婚したいけどなあ、なんて呟く、それだけの話だったんです、実は・・・(^^; でも、杏子さんの「妄想菌培養マニュアル」を読んだおかげで、少なくとも量的には大きく増殖できたかと思います。 お題「おかえり」は「岡 絵理」さんの話とプロポーズを受けたものの揺れ動き、さまよったマヤちゃんの気持ちが「帰るべき 場所」にたどり着いてめでたく「おかえり」とのダブルミーニングを狙ったんですが・・・ってあとがきで説明してないで文中で語れ、 ですよね、そんなことは。 皆さま、最後まで読んでくださってありがとうございました。 そしてそして。大好きな杏子さんに愛をこめてお贈りします! □杏子より□ "おかえり”で岡絵里さん!いやぁぁぁぁ、またまた一本取られました。すごいね、ヒトサマの発想ってホントに思ってもいないところに 行くのね、感嘆、驚愕、顎はずれ!の杏子です。 途中結婚を前にして揺れ動くマヤちゃんの乙女心も切なく、そして、ちゃんと速水さんのもとに、 ”おかえり”したマヤちゃん、ゲロ甘度も最高潮かと。 しかし、”速水マヤ”ってなんか カワイイなぁ。萌えるなぁ。いいなぁ。。。。 まゆさん、本当に、本当に、いっぱいお世話になりました!! |
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