「今、真澄様をお呼びする からここで待っていて頂戴ね」

 にこやかな調子で水城にそう言われ、言われるままに秘書室のソファーに腰を下ろす。就業時間も大分過ぎているためか、社内の人影もまばらで日中にこ こを訪れた時のような気ぜわしさは無かった。

 不意に予想外の話し声が耳に飛び込んで来る。オフィスで耳にするには違和感を感じる、大分砕けたトーンのおしゃべりは、おそらくここにマヤが居る事を想 定していないもので、秘書室から続く茶色の扉の向こうから聞こえてきた。あそこは確か、水城を初めとした女性秘書達のロッカールームだったような──。

「えー!じゃぁ、今年は速水社長にチョコあげなかったの?」

「うん、だってハッキリ言ってたもの。貰っても困るだけだって」

「なんで? 凄い数だから? お返しが大変とか?」

「お返しって言ったって、どうせ私達が買って用意して送る訳だし、別に社長は大変でも何でもないじゃん。むしろ大変なのは私たちで……。そういう事じゃな くて、単純にアホらしいと思ってるみたいよ、ヴァレンタインそのものも、それに騒ぐ世間も、女子もぜーんぶ。こんなにモテて凄いですねー、って言ったら、 すっごい怖い顔で
、むしろ業務に 支障が出て迷惑だ、まで言ってたもの。前々から冷めた方だなーとは思ってたけど、今回の件で確信 した。ほんっとに冷たいよ、速水社長は!」

 聞くつもりはなくとも、他愛もないそのやりとりは、容赦なく扉を突き抜けてマヤの耳に突き刺さって来る。

「でもそこがいいんじゃん。チョコいっぱい貰って、モテモテでも浮かれたり調子乗ったりしないとこがさー」

「じゃぁ、あげれば? まぁ、義理チョコ扱いで秘書課でお返しも買う羽目になるから、自分で自分に返す事になるけど、それでも良ければ」

 呆れたように、一人が言う。

「義理じゃなかったら? 本命だったら、どうなるの?」

 本命──。
 その言葉に向って、マヤの心臓がギュッと縮む。そして手元の小さな紙袋の持ち手を握る手にも力が入る。

「本命? 何それ本気で言ってるの? 速水社長がそんなの相手にする訳ないじゃない。あの鷹宮のお嬢様だってダメだったんだよ? 社内恋愛なんて絶対しな い。女優やタレントにも手は出さない。日本有数のお嬢様でもダメ。もう速水社長のお相手になれるのなんて、宇宙人ぐらいしかこの世にいないよ」

 大きな笑い声にせき立てられるように席を立つと、マヤは逃げるように秘書室を後にする。膝に乗せていた紙袋が
、慌てた拍子に床に落ちてグシャリと潰れたが、もはや用の無くなったそれ を乱暴に掴むと、廊下に飛び出した。
 次の瞬間、秘書室奥のロッカールームの扉が開く。

「……あれ? 誰かいたの?」

 応接テーブルの上に残された飲みかけのティーカップと開け放たれたドアを見て、ロッカールームから出て来た秘書達の訝しげな声だけが、気の抜けたサイ ダー 水のように秘書室に取り残された。
 








 良かった、良かった、良かった──。
 馬鹿な事をしなくて、本当に良かった。

 内側からうるさく誰かが心臓を叩くように、ドクドクと強く血の流れる音がする。全速力で駆け抜け過ぎて、苦しくて心臓が今にも壊れそうだ。それでも出来 るだけ早足で出来るだけ遠くへと、マヤは駆け続ける。どこに向って駆けているのか、見当もつかなかったが、ここではないどこかであればどこでも良かった。
 しばらくそうして、地下鉄一駅分も来たところでようやく足を止める。無理して履いて来たヒールで足首の部分をおかしくしたようで、まともに歩けなくなっ ていた。

「痛っ……!」

 くるぶしの辺りを擦るように手をやった拍子に、そのまま歩道脇の植え込みの低くなった手すり部分に腰掛けた。

 ──義理のふりでもすれば、どさくさに紛れてチョコの一つぐらい渡せるかもしれない。

 そんなふうに安易に考えていた。
 世間には本命、義理だけではなく、今や、友チョコ、ファンチョコ、ファミチョコなどと、いつのまにやら膨大な種類のバレンタインチョコのカテゴリーがあ るらしい。本当かどうか知らないけれど。
 さやかが家でチョコを作るというから、一緒に作ったのだ。自分一人ではとてもここまで漕ぎ着けられなかったが、趣味のお菓子作りが高じてプロ並みの技術 を持つ程になった友人のおかげで、とてもマヤが作ったとは思えないレベルの極上ビタースイートのチョコが奇跡的に出来上がったから、ついいい気になってし まった。渡してもいい気がしたし、渡したいと思ったし、これなら食べて欲しいと本気で思ってしまった。

 ──貰っても困る。
 ──むしろ迷惑だ。
 ──そんなの相手にする訳ない。

 つい今しがた聞いた言葉の断片が、何度も脳裏を駆け回り、叫び出したい衝動に駆られる。

「恥ずかしい事しなくて、ほんっと良かった……」

 改めての大きな溜息が、また一つ零れ落ちた。


 真澄との付き合いはそれなりに長い。出会いは十三歳の頃だから、もう十年近くになる。それだけ長い付き合いの中でも、バレンタインにチョコを渡した事は 一度もない。昔はただただ険悪な関係だったし、そんなものを渡すなんて義理でも思いつかなかった。
 恋心を自覚してからも、婚約者の居る身の人においそれと渡せる状況ではなかった。
 そんな真澄が去年、紫織との婚約を解消し、正真正銘のフリーになったのだ。そしてやってきた初めてのバレンタイン。それならば渡しても迷惑にならないの では、などと思ったが、そもそもバレンタインにチョコを貰うこと自体が迷惑だなどとは考えもしなかった。

 目の前の表参道の街路樹の下を、沢山の恋人達が通り過ぎて行く。こんな日のこんな時間にこんな場所で、いらなくなったチョコを抱えて、
たった一人で動けなくなっている自分の滑稽さに涙が出そうになる。

 浮かれていた分だけ、凹む。
 真澄の事を考えて用意するのが楽しかった分だけ、落ち込む。
 少しばかり上手にチョコが作れたからと言って、真澄に渡して喜んで貰おうだなんて、浮かれて舞い上がって、馬鹿みたい──。

 自分を傷つける言葉は、次から次へといくらでも浮かんではマヤの胸の奥へと消えていった。
 






 大都芸能社長室──。

「こちらが明日の会議資料、こちらが契約書原案の第一稿です。どちらも社外秘ですのでお取り扱いにご注意下さい。それから、こちらが本日分届きましたチョ コレート及びリストです。なんでしょうね……、例年にも増して、今年は凄い数ですわね……」

 若干、水城すらも引いている様子で、部屋の中に運び込まれた段ボールの山を横目で見る。

「破談の見舞いのつもりかもしれないな。そんなに俺は憐れに見えるのか、水城君」

 自嘲的に真澄はそう言うと、積み上げられたチョコレートの山の糖分を想像して、食傷気味な深い溜息を吐いた。

「それからこちらが女優の米倉玲子様から個別の贈り物で、ワインとチョコレートです。メッセージは”今度一緒に開けませんか?”となっております」

「勘弁してくれ……」

 破談が公になってから、やたらとグイグイ押して来るタレントや女優が増えた。何を考えているのかさっぱり分からない。

「それからJ事務所を退社された飯沼女史からも個別でお届けものが。シャンパンとマカロンです。メッセージは”今度ゆっくりお話したいわ”だそうです」

「怖いからやめてくれ」
 
 昨年、もっとも世間を騒がせた人気アイドルグループの独立問題に伴う覇権争いに巻き込まれるつもりはない。他愛もない義理チョコならまだしも、そこに 幾重にも思惑を込めて送り付けられる物ほど怖いものはない。真澄はうんざりしたように更に深い溜息を吐いた。

「それから──」

「まだあるのかっ?!」

 思わず食い気味に水城のそれを大きな声で遮ると、図ったかのようにすました顔で水城が答える。

「いえ、贈り物は以上です」

「そうか、それは何よりだ」

「ただ、先程から真澄様をお待ちの方がおられます。どうしても真澄様に本日お渡ししたいものがあるとの事で、先程からあちらでお待ちです」

 平然と言い放つ水城の言葉に驚いて、正気なのかと確かめるように真澄は書類から顔を上げる。

「言ったはずだ。今年は個別で受け取るような事はしないと。誰であろうと一切通すなと念を押したはずだ。それを──」

「ええ、でもどうしても直接お渡ししたいと仰るので」

「そこをどうにかするのが君の役割じゃないのか? 一人受け取れば、他の断った人間に角が立つ。来年以降の事もある。誰であろうと一律に断ってしまうのが 一番──」

「御言葉ですが、彼女の場合、そういう事にはならないと断言出来ます。それにもし彼女に対して居留守を使って、貰うものだけ貰って追い返しでもしたら、あ とで激怒なさるのは間違いなく真澄様のほうかと」

 そこまで言われて、真澄の中に嫌な予感が走る。
 知り過ぎた秘書が勿体つけて、こうまで言う相手は真澄が知る限りこの世に一人しかいない。けれども今日という日にその人がこの場所へ自分に会いに来るな ど、それこそ天地がひっくり返ってもありえない事のはずだった。

「もう今日のお仕事は終わりのはずです。どうぞあちらへ。これ以上女の子を待たせるのは失礼ですわよ、真澄様」

 涼しい口調でそう言うと、サングラス越しの瞳が意味深に微笑する。
 急に電気が通ったロボットのように、真澄は足早に社長室を横切ると、秘書室へと続くドアへ手を掛ける。ガチャリと勢いよくドアノブを回したその先の部屋 には、


──果たして誰も居なかった。

 
「水城君、これはどういう冗談だ?」

「え?」
 
 慌てて、真澄の背後から秘書室へと回って来た水城は一瞬絶句すると、

「もう、どうして待っていられないの、あの子っていう子は──」

明らかに取り乱した口調で、口の中で何かを噛み殺すかのようにごちるとすぐさま携帯を取り出す。中々、繋がらないのか、水城の苛立が膨れ上がっているのが 傍目にも分かる。

「ちょっと、マヤちゃん! あなたどこに行ったの?」

 果たして秘書は、やはりその名を呼んだ。

「え? 急用を思い出したって……、こっちの用はどうするのよ。え? もう、いい? いいって、ちょっと──、もしもし? もしもしっ?」

 
水城は携帯を耳元から外すと、お手上げだとでもいうように、相手 不在となったそれを宙に浮かせるようなジェスチャーをした。

「申し訳ありません……」

 訳の分からない事態となった事に対する釈明なのか、水城が頭を下げる。

「君のせいじゃない。それに、追いかけっこは嫌いじゃない。殊にあの子の事となると、俺は燃える質なんでね。
問題ない

 そう言って余裕の笑みを一つこぼすと、真澄はコートに腕を通す。窓から逃げ出した子猫を捕まえるなら、一分でも早く追いかけなければとでも言うように。

「明日の会議の件は了解した。契約書の内容もこのまま進めて貰って問題ない。それから──」

 手早く仕事の資料を片付けながら、真澄は指示を出す。

「この件は今晩中に解決する。心配しなくていい」

 そう言って、颯爽と部屋を後にする。
 その後ろ姿をじっと見送った水城は、慌ただしく消えていった真澄が残した余韻を確かめるように、去り際に見せた少し高揚した真澄の表情を思い出す。大き な商 談や折衝の折、勝てる勝負に出る時には、いつも見て来た表情だった。

「やっと──」

 それ以上は言葉にならず、マヤが残したティーカップを片付ける指先が不覚にも震える。

「全く、なんて面倒くさい二人なのかしら」

 今度は少し悪態をつくような声を出すと、誰にも知られず小さくそっと笑った。









 
 水城からの電話を最後に、充電が切れたふりをして電源を落としてしまった。これ以上水城に問いつめられても上手く答えられる自信がなかったし、これ以 上煩わせるつもりもなかった。

(明日、もう一度ちゃんと謝ろう)

 そう思って、また空を見上げる。月がとても奇麗だった。

 結局、行く所もなく、カップルで溢れかえった街中から逃れるようにあの場所を後にすると、家の近くの公園に来てしまった。我ながら、この年になっても行 く当てのバリエーションの無さに笑える。
 ブランコは錆び付いた酷い音がするので、余計悲しくなる気がして乗らなかった。代わりに公園の中央にあるタコの滑り台のてっぺんに登る。横浜にも似たよ うな公園があって、そっくりなタコ滑り台があった。所々、赤い部分が剥げ落ちて灰色の下地が見えているところも、丸みを帯びた滑り台部分の淵の石の感触 も、そっくり同じに思えた。きっと日本全国、こんなふうに時代に取り残されたタコが、寂しい夜の公園でひっそりと外灯に照らされ、奇妙なシルエットを映し 出しているのだろう。
 
「何をやってる」

 その時、背後からありえない声が聞こえる。例えお化けに出会ったとしてもここまで驚かないだろうというほどに、マヤは飛び上がる。恐る恐る振り返ると、 お化けよりも信じられない人がそこに立っていた。

「危ないから下りてこい」

「危ないって……、これ子供の滑り台──」

「いいから下りてこい!」

 有無を言わせぬ口調にビクリとなると、言われた通りに降りる。タコの脚の上を滑り下りながら。

「こんな時でも君は滑って下りてくるんだな」

 呆れたような口調でそう言われる。

「え、だって滑り台ですから」

 当たり前の事を当たり前に返したつもりだが、あまりに間抜けなやりとりに真澄が再び諦めたような苦笑を一つこぼした。

 真澄の目の前に立つ。
 状況はよく分からない。
 怒られるのだろうか。
 今日の不可解な行動の一部始終がもうバレていて、追求されるのだろうか。

 色々考えてみたが、わざわざ真澄がそんな事のためにここまで来たとも思えず、やはり状況はよく分からなかった。ただ、何となく気まずい奇妙な空気 が流れている。背後にそびえるタコのせいかもしれない。

「さっき、滑り台の上に立つ君の背中を見ていたら、どこかに行ってしまう気がした。あまりに満月が美しいから、まるで迎えが来たかぐや姫のように……」

 真澄らしくないその台詞にぎょっとして、マヤはまじまじとその顔を見つめ返す。

「あれ、タコですよ」

「いいから!」

 若干、怒りと苛立を孕んだ声で制された。

 また奇妙な間が出来た。けれども先程よりも少し重みが加わって、アンバランスに傾いたような沈黙だった。

「今日、君が俺に会いに来たと聞いた」

 案の定、核心を突かれた。

「いえ、行ってません」

 咄嗟に否定するしか芸が無いのもまた情けない。

「水城君が会ったのは幽霊なのか? 足はあったと聞いてるぞ」

 言い返せずに黙っていると、穏やかに促される。

「用があったんだろ?」

「あったんですけど、なくなりました」

「なんだそれは?!」

 その時ふと思った。
 こうやって、言い返したり、噛み付いたり、怒られたり、呆れられたり、こういうやりとりが自分は好きだった。喧嘩のようにこうやって言い合っていれば、 本当の気持ちだって上手く隠せて、好きだなんて絶対にバレない。そう思い込んでいた。
 
 でも、それは間違ってた。
 
 好き、が溢れそうになる。
 
 もう、留めていられなくなる。

 胸が震え、手が震えた。

「どうした?」
 
「どうもしません」

「どうかしてるだろ。震えてる」

 戻るなら今だと、どこかで誰かが言ったけれど、それは物凄く遠くでだった。溢れ出した気持ちは、神様でも止められない。

「だって……、だって、困るって──」

 零れ落ちた言葉の欠片の意味を探るように、真澄が訝しげに首をかしげる。何が、困るんだ? そんなふうに。

「速水さん、困ってるって聞いた。チョコなんか沢山貰っても、困るだけだって、秘書の方たちが話してた。毎年、毎年、お店が開けるくらい沢山貰って、速水 さんも辟易してるんだろうなって。うんざりしてるんだろうなって。むしろチョコなんて迷惑でしかないんだなって──」

「困らせてくれないのか?」

「え?」

 遮るように発せられた真澄の意外な言葉に、不意に息を止められる。

「それで君は、俺を困らせてくれないのか?」

「な、何言ってるんですか?」

 目の前のその人の指先が、こめかみの辺りにそっと触れる。

「困らせてみたらどうだ」

 頬の輪郭を辿られただけで、自分を覆い尽くして、雁字搦めにしていた鉄の鎧が外れたような感覚に囚われる。思った以上に素直に次の行動が取れた。
 
「色々あって、クシャクシャになっちゃいましたけど、中身は大丈夫だと思います。あの……、どうぞ」

 そう言って、両腕を伸ばしてチョコの入った小さな紙袋を差し出す。

「ありがとう」

 穏やかな声でそう受け取られ、その優しい笑顔に、頑なに自分を縛って苦しめて来たものが溶け出す。
 
「もう一つ、困らせてもいいですか? ついでだから、うんっと困らせてもいいですか?」

「なんだ?」

 艶のある低めに響くその声が、マヤの体の奥底で固く閉ざしていた扉の鍵を開ける。

「好きです」

 冷たく透き通る二月の星空の下、一度だけ鳴らされた澄んだ鈴の音のように、その一言は夜陰に静かに響いた。

「ずっと好きでした。ずっと言いたくて、でも言えなくて……。速水さんが好き。困らせて……ごめんなさい」
 
 堪えていた涙が溢れそうになったその瞬間、抗えない程の強い力で抱き締められた。柔らかなカシミアのチェスターコートの表面に顔を塞がれ、息も出来なく なる。

「馬鹿だな。困ってなんかない。困る訳ないだろ」
 
 その言葉の真意を辿るように、マヤはコートの淵に添って視線を上げる。

「俺も君が好きだ。ずっと好きだった」

「嘘──」

 条件反射でその言葉が出てしまうのは仕方がないだろう。だって、それはあまりに想定外だ。

「嘘じゃない」

「困ってないの?」

「ああ、全く」

 真澄らしい澄ました口調でそう言われ、ようやく状況が少しだけ理解出来た気がして、それでいて夢ならどうか醒めないでと懇願するように、マヤは強く真澄 に抱き つく。ただひたすらにひたむきに、これまでどれだけこの人の事を自分は好きだったのか、溢れ出る想いをその身に託すような強さでもって。

「本当は俺のほうから言うつもりだったんだが、君から言われるというのも悪くなかったな。バレンタインらしい」

「あ、食べます?」

 バレンタインという言葉に触発されたかの如く、唐突に飛び出したマヤのその言葉に、真澄は虚を突かれたように固まる。

「さやかのおかげで私が作ったとは思えないぐらい、すっごく美味しく出来たんです。だから一緒に食べませんか? ちょっと寒いですけど……。あ、そうだ、 いいものあったんだ!」

 そう言って、マヤがバッグの底から取り出したのはどこか懐かしい赤いチェックの魔法瓶。

「速水さんの口に合うようにってすっごくビターな大人なチョコにしたんです。そしたらこれに合うのは絶対美味しいコーヒーだって、麗がお店の美味しいコー ヒーを丁寧にドリップしてくれてね、ここに入れてくれたんです。まだ温かいですよ。一緒に飲みませんか?」

「楽しそうだな。いいアイデアだ」

 固まっていた真澄も、畳み掛けるようなマヤの言葉に一度吹き出すと、あとは穏やかに笑ってそう答えた。


「美味いな。確かに君が作ったとは到底信じられない」

「言い方! 言い方!!」

 公園のベンチに並んで腰掛け、いつものように言い合っても、繋いだ手がいつもとは違うと言っている。

「美味しいけど、私はもうちょっと甘いチョコのほうが好きだな。チョコはやっぱり甘くなくっちゃ」

 そう言って真澄のほうに笑いかけた瞬間、唇を甘く塞がれた。

「そうだな、このぐらい甘いのも悪くない」

 ビタースイートなチョコレートが二人の唇を甘く溶かす。

 二月の満月が生まれたばかりの恋人を見ている。
 アンバランスで、それでいて何もかもがしっくりと来る二人を、月明かりで柔らかくそっと包むように。

「美味しいコーヒーをありがとうと青木君に伝えてくれ。それからこれは来週の月曜返す」

 そう言って真澄がまだ少し中身の残っている魔法瓶を片手で掲げる。唐突に指定された来週の月曜日の意味が分からず、マヤは首をかしげる。

「君の誕生日だろ。今度は俺が君を困らせる番だ。覚悟しておけ」

 そう言って、これ以上ないほどに優しい笑顔で真澄は屈託なく笑った。



 あなたを困らせるはずのビターチョコレートが、ゆっくりと溶けて行く。
 幾重にも重なる複雑なカカオの層の合間に、お互いの固く閉じ込め続けた想いや、隠 し続けた秘めた想いを上手に折り込んで。
 
 極上のビタースイートの香りと余韻を残しながら、今宵二人はきっとどこまでも甘く深く溶けて行く……。


 



2016 . 2 . 15





F I N










え〜、本日は晴天なり、ではなくて2月15日です。
はい、バレンタイン終わってます。相変わらず間抜けな事しててごめんなさい。昨日、バレンタイン当日に思い立って書き始めたのですが、案の定終らず、3時 間ほど過ぎた昨日の真夜中に書き終わりました。こんな所にも老いが……。昔は思い立ったらパロ日で、一日で書けてたんだけどなぁ。


なんでそんな無茶をしたのかと言うと(わたくしただいま、マイコプラズマ肺炎末期療養中)、実はこの

”チョコなんて渡されても困るって聞ききました”
”じゃぁ、困らせて”
”え?”
”困らせてくれないのか?”

というネタを、今書いてる同人誌でも使いましてね、それは中盤辺りのシーンなので、当然そこで話が終る訳にもいかず、まだまだ延々上がったり下がったりし ながらお話は続いているのですが、

”いっそこのまま終らせたい!一気に!畳み掛けるように!”

という私の現実逃避も手伝って、妄想が枝分かれして、さっさと終るバージョンが脳内で一瞬にして完結してしまい、どうせだったら……とこんなことやってる 場合じゃないのに(春コミカウントダウン、始まってまっせー)、やらかしてしまいました。


もうバレンタインのお話も書き過ぎて、そうそうネタはないですし、真新しい事も何もないようなお話ですが、タコ公園と赤いチェックの魔法瓶辺りがツボには ま れば幸いですw


という訳で、6日後に魔法瓶を返すお話も、ビタースイートのチョコがどこまでも甘く溶けていく様子(題して”誘惑ショコラ”←コラコラコラ)も描かれるこ とはありませんが(断言!!!)、今年はこれが気持ちの上での私の中の精一杯のマヤ誕ってことでお許し下さい。



今年も”待ち”の空気プンプンで始まったガラかめですが、一時の現実逃避になれば幸いです。
ありがとうございました!
(さて、新刊へ戻るか……)





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