八月の蝉









 蝉が鳴く。鼓膜の奥と外とで絶え間なく。
 もしも八月に蝉が鳴かなくなったら、この暑さの体感温度は、三度は下がるのではないかとマヤは思う。そしてこの肌をジリジリと焦がすのは、八月の太陽だ けでなく、八月の蝉の声にも自分は灼かれているとすら思う。一日中、一瞬の休みもなく鳴き続ける蝉は、一体何の為に鳴いているのだろうか。
 暑さのせいで、普段考えた事もない事に思考が及ぶ。何年も暗い土の中でひっそりと耐えるように過ごし、ようやく地上に這い上がり羽化したかと思えば、僅 か一週間かそこらで死んでしまうという、その生態を知った時、だからあんなに鳴き続けるのだろうかと思った。たった一週間の命と分かっているからこそ激し く鳴き、この地上に、命あるものとしての証明を残そうとしているのでは、と。

 止まる事なく流れ出る汗を拭おうと、源造から借りた大きな麦わら帽子を外し、首もとのタオルで額から首筋を拭う。下を向いて作業をしすぎたせいだろう か、目眩のようなふらつきを感じた。夏野菜を刈り取った畑に、今日は人参とジャガイモの植え付けを行っていた。同じ動作の繰り返しだった為、黙々と作業に 専念してしまい、心はいつしか蝉の気持ちなぞに寄り添う始末だ。暑さのせいで、何もかもおかしくなっていた。

 梅の里の夏が、こんなに暑いとは思っていなかった。東京の夏も、年々酷くなっているが、どこかこの秘境のようなこの地は、そういった茹だるような暑さからも隔てられているような勝手なイメージを持っていた。
 とんでもない。
 大きく息を吐いて、もう一度汗を拭う。先程よりも大きなふらつきが再び襲って来る。今度はみぞおちの下あたりから、奇妙なむかつきもついて来た。
 何かがおかしい。そう思った時はもう遅かった。鼓膜の奥の蝉の声が一層大きくなると、頭上に落ちて来た太陽が白く脳内を染め抜く。蝉の鳴き声に、全てが呑み込まれる一瞬前、

「マヤさんっ!」

源造が激しく自分を呼ぶ声が聞こえた。けれどもその声を最後に意識を手放し、重心を失ったマヤの体はそのまま畑の真ん中で倒れていった。





 どれくらいの時間が経ったのか、意識が戻りかけた際、無意識に測ろうとする本能。横たわったままの姿勢でゆっくりと瞬きを数回して見回すと、母屋の中で 一番風通しの良い、縁側のある部屋に寝かされていた。辺りはすでに夕刻の薄紫色に包まれている。ひぐらしの鳴く声が遠くにも近くにも聞こえた。額に置かれ たタオルはすっかりぬるくなっている。風を感じて、縁側のほうに首を向けると、そのすっかりぬるくなった額のタオルが、ぼとりと畳に落ちた。

「は、速水さんっ?!」

 幻覚としか思えない、今この場所にはありえないその存在に、マヤは飛び起きる。

「ど、どうしてここにっ?!」

 縁側に立って、夕焼けを眺めていた真澄が振り返る。

「家出の次は、熱中症か。君は俺を心配させるのが趣味なのか?」

 言葉は嫌味だが、本物の棘はないと分かる、いつもの真澄の声だった。

「家出じゃないです。ちゃんとお盆休みを頂きますって、水城さんにも言ってから来ました」
「女優に盆休みがあると本気で思っていたのか? 勝手な事をするな」

「そりゃ私だって、舞台や稽古の最中だったら逃げ出したりなんてしません。でもファッション誌の取材とか、よくわからない密着番組のロケとか、そんなのばっかりだったじゃないですか。もうああいうの入れないで下さい、って私お願いしてるのに」

 目が覚めて早々に、また喧嘩になってしまった。こんな所まで来てくれた事に対して、申し訳ないという想いと、それでも嬉しかったという想い、そのどちらも伝えるタイミングを失ってしまった。

「君がああいう取材が苦手なのは分かる。でもこれも紅天女のためだ。秋になれば待ったなしで多くのライバルとなる舞台も始まる。いまのうちにプロモーションをかけておかなければ──」

「分かってます! そんなこと速水さんに言われなくたって分かってます。でも、初盆ぐらいちゃんと先生の事、迎えてあげたいじゃないですか。紅天女だった唯ひとりの人なんですよ。速水さんこそ、そんな失礼な態度取って、バチが当たったって知らないんだから」

 深い溜め息が聞こえた。言いたい事は言ったつもりだが、いささか子供染みた言い方になってしまったのは否定できない。自分がたった今放った、最後の言葉の幼稚さの余韻が嫌でも居心地を悪くする。
 縁側に佇んでいた真澄がゆっくりとこちらに来る。美しい夕焼けの向こうから。こんな時でも嫌になるほど美しい男だと、マヤはしみじみと思わされる。

「分かってる。だから俺もこうして来たんじゃないか」

 大きな手のひらが、そっと頭を撫でる。

「大丈夫か?」

 すっかり大人の落ち着いた声を出す真澄に対して、幼稚すぎた自分の振る舞いの恥ずかしさから声も出せずに、コクリと首だけでマヤは頷く。

「炎天下の下、源造さんが止めるのも聞かずに延々農作業か。まったく、君はいくつになってもなんて無茶な子なんだ」

 どこか懐かしい穏やかな声で、そう言って真澄は笑った。





 源造が用意してくれた晩ご飯を三人で食べた。千草の仏壇にも同じものが供えられる。
 静かな夜だった。元々寡黙な源造ではあるが、初盆ともなると胸に去来する多くの事があるのだろう。想い出を一つ、二つ、語り合うと

「それではわたくしはこれで……」

そう言って、自室へと下がってしまった。

「あれは君が作ったのか?」

 真澄の目線が、今朝、裏の畑で収穫したナスとキュウリで作った精霊馬に向けられる。

「そうですけど……」

 何か嫌な予感がした。

「どうりでバランスが悪い」

 予感は的中する。

「はっ? な、何言ってるんですか? こ、こんなのにバランスも何もある訳ないじゃないですかっ!」

 噛み付かずにはいられない。

「君はキュウリとナス、それぞれの意味を知っているのか?」

「え?キュウリが馬で、ナスが牛でしょ?」

「そうか、てっきり俺は君が逆で覚えていたのかと思ったよ。馬の足が短すぎて、牛の足が長過ぎると思わないか?」

 堪えきれないと言った様子で、真澄がクスクスと笑う。言われてみれば確かに、キュウリに刺した割り箸は異様に短く、ナスの刺した割り箸は異様に長かった。

「い、いいじゃないですかっ! ちゃんと分かりますよ、先生だって! 私が作ったんですから、これはこれで味があっていいって言ってくれます」

 都合のいい勝手な言い訳だと、自分でも笑い出しそうになる。

「あの世から戻って来る時は少しでも早く、馬に乗って来て下さい。そしてあの世に戻る時は、少しでもゆっくり、それから沢山お土産も持って帰れるよう、牛に乗って帰ってください。意味は間違って覚えてませんから」

 ドヤ顔で言い返すと、今度は真澄もからかう事なく黙って頷いたので、少し拍子抜けしてしまった。

「私も長い事作っていなかったんです。東京にいると、本当にそういうのって通り過ぎちゃう。でも幼い頃に父を亡くしたので、母と一緒に子供の頃は毎年作っ ていたんです。いくつになってもそういうのは忘れないもんですね。作り方、ちゃんと覚えてました。まぁ……、ちょっとバランスは変ですけど……」

 そう最後に認め、マヤは真澄に笑いかける。同じ様に笑ってくれると思った真澄の表情は、予想外に哀しげだった。春の話をしてしまったからかもしれない、 そう気づいたけれどもう遅かった。春の話が僅かにでも出るたびに、自分は深く、真澄の傷を抉っている。その自覚はあるけれど、かといってそれをどうしたら いいのかも分からなかった。表層をなぞるだけの言葉でやり過ごすこともできず、かといってその奥深くに分け入って話し合う勇気もなく。時間だけが過ぎ行く ままに、ここまで来てしまった。





 夜の散歩に出かける。満天の星が見えるあの場所へ。この梅の里でしか見ることの出来ない、あの星たち。二人を繋ぐ、数少ない想い出。幸い夜空は雲一つなく澄み渡っている。まるで星を見る為にあるような夜だった。
 昼間の灼熱の暑さが嘘のように、山の夜は冷える。マヤがクシャミを一つすると、真澄の上着がそっとかけられるのもあの日と同じだった。
 あの日と同じ場所、満天の星空の下、二人は草原に横になる。まるで世界は二人だけになってしまったような、いや、もともと世界は二人しか居なかったような、そんな不思議な気持ちになる。

「やっぱり奇麗ですね、ここの星」

「そうだな、プラネタリウムとは比べ物にならない。本物にはいつだって敵わないな」

 言葉はいらない、そう思わせる空間。同じ物を見、同じ時を感じ、同じ美しさに圧倒される。確かに今この瞬間は、言葉はなくとも大切なものを共有してい る、そう信じられる。けれども、二人はいつだって満天の星空の下で生きているわけではない。星明かりの届かない場所で、その暗闇の中、どれだけ目を凝らし ても見えないものもある。そうして見失っていくものすらある。
 だから言葉にしなければいけないのだ。出来る限り、生きている限り。

「星って、今見ているのは何年も、何十年も、星によっては何百年も前の光なんですよね」

「そうだな」

 大切な事を伝えようと、ゆっくりと言葉を選ぶ。その気配に真澄は気づいたのか、まだ気づいていないのか、分からなかったけれど、その穏やかな低い相槌は、自分が一番好きな高さで響いた。

「子供の頃、死んだ父さんはお空の星になったんだって、母さんがよく言ってたんですけど、その意味が最近やっと分かった気がします」

 相槌の声は聞こえなかったけれど、真澄が全身で耳を傾けてくれているのが伝わってきた。

「私からは会いには行けないけれど、いつも全てが見える場所から見ててくれて。天気が悪かったりとか、色々な事情でその姿が見えない日もあるけれど、それ は見えないだけで、やっぱり変わらず同じ場所でずっとこちらを見ててくれて。でも、その星が自分のために光っている事に気づくのは、いつもずっと後になっ てからのことで。亡くなってから、何年もたってから、やっとある日気付くんです。その存在に。それは光がここまで届くのに、それだけ時間が掛かったからな んだろうなって」

 半身を起こした真澄がこちらを見ている。大切な言葉の行き先を見定めるかのように。

「母さんも星になった気がします」

 その言葉は何光年も遠くから、迷いなく真っ直ぐに響いた。その言葉によって二人の間の空気が、浄化される。まるで星明かりによって全てが清められたかのように。

「母さんの光が、やっと私の所まで届きました」

 そう言ってマヤは、満天の星空の光を浴びるように夜空を見上げる。閉じた瞼の裏で、春の穏やかな笑顔が浮かんだ。その笑顔を確かに見定めると、マヤは ゆっくりと真澄の方を向く。星明かりの助けを借りて、その表情が少しでも明るく、一切の濁りのないものとして真澄の瞳に映ればいいと願う。
 ふと思いがけず、瞳から涙が零れ落ちた。自分でも泣くとは思っていなかったので驚いて頬に手をやる。透明な雫が、その指先に触れた。
 次の瞬間、真澄に強く抱きしめられる。真澄も泣いていた。

「すまない。どれだけ謝っても取り返しのつかない事をした。君を天涯孤独の身にしてしまったのは、この俺だ」

 触れてしまった真澄の涙、そして悔恨の塊に抱きしめられ、この人も一体どれだけの孤独の中に居たのかと、思い知らされる。どんな星の光も届かないような、仄暗い海の底に己の本心と孤独と寂寥を隠してきたのだろう。

「天涯孤独じゃないですよ。速水さんがいるじゃないですか」

 その言葉の真意を探るように、真澄は強く抱きしめていた体を離すと、じっとマヤの瞳の奥を見つめる。

「ずっと応えられなかったあの返事、今してもいいですか?」

 そしてマヤは微笑む。全ての想いが体中から集まって凝縮され、自然と口角を引っ張る。星明かりに照らされたその笑顔が、自分の中で一番美しいものであって欲しいとマヤは祈る。

「あなたと一緒に私も歩いていきたいです。結婚してください」

 自分なぞが真澄のプロポーズを受けていいのか、迷うあまりに何度も答をはぐらかしてきた。幸せになる事を、咎め続けた心のわだかまりが、まるで雲が晴れるように消えていき、星は一層の輝きを増す。
 誓いのキスのように重なる唇。真澄と何度もキスをしてきたけれど、繋がった唇から、心が重なったように穏やかな気持ちが全身に広がっていき、ようやく自分はこの人と一つになれるのだと、初めて実感として思った。

「月影先生の星の光が届く頃、私、紅天女の後継者として一人前になれてるかな」

「大丈夫だ。俺が見ている。君の事は今までも、そしてこれからも、ずっと見ている。星のように……」


 頭上には万もの星が光り輝いている。都会のスモッグで見えない日も、厚い雲に阻まれて見えない日も、誰もが星を見上げる事を忘れた日でも、それでも星は 光っている。大切な何かを、何年も前からまるで信号のようにそっと送っている。永遠に得られなかったものや、永遠に失ったもの。それらもきっと等しく星に なって、地上に残された者たちの行く道を、僅かにでも照らしている。

 この道を行きなさい。
 この道を生きなさい。

 そんなふうに。
 きっと明日も朝から蝉は鳴くだろう。地平線から太陽が登るよりも一瞬早く、鳴き始めるだろう。そして死ぬ事が分かっていても、死ぬまで鳴き続ける。それがきっと蝉に生まれた、蝉の性なのであるから。

 自分は真澄とこの道を歩いていく。二人で選んだその道を、星が明るく照らしてくれている。
 星の一生に比べれば、瞬きのような儚い人の一生。けれどもいつか自分の、その瞬きのようなほんの一瞬の人生を振り返る時、迷いながらも立って来たいくつ もの舞台、演じてきた幾人もの生き様、その全てが点々とでも誰かの記憶に、自分が生きた足跡のように残っていたらいいと思う。それは女優・北島マヤとして 名を残すという意味ではなく、自分の名前も姿も人の記憶からいつか消え去ったとしても、あの日あの時、舞台の上でほんの一瞬光った自らの情熱と命の輝きだ けは、星が生まれてから死ぬまでのように、永遠に近い一瞬であって欲しいと。
 そしてその足跡の隣には、等間隔で真澄の大きな足跡がついているだろう。死が二人を別つまで。
 いや、死が二人を一つのものに戻すまで……。



2014.8.16







■あとがき■

夏コミは毎年、お盆の頃に開催されるので、その季節にリンクしたお話をと 思って書き下ろしたものです。

大切な家族や恋人を亡くした友人に対して、今はどんな言葉をかけても傷つけてしまうだけの気がして、言葉に出来なかった想いをせめて形にして自分の中で残しておきたいという思いで書きました。

星になる、
という言葉の持つ深さと優しさに、そっと寄り添えるようなお話になっていればいいなぁ、と。




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