第5話




『どうしてあしながおじさんみたいに、本当の姿を見せてくれないの?』

マヤの口から立った今放たれたその言葉が、まるで呪文であるかのように、二人の間の空気が止まる。お互いが言うべき言葉は時のくぼみの中で死んだように動かない。
硬直した時間と意識が細かい砂となって、きつく閉じた指の間から落ちていく。壊れた砂の城のように。

壊してしまった。
そんな権利は自分にはなかったはずなのに。
女優という立場で、必要とされ、役に立ち、ほめられて、そういう幸せを大切にしていくはずだったのに。

「ご、ごめんなさい」

低い声で慌ててそう呟くと、足元のタオルを拾い上げる。
なんでもなかったふりをするには、行き過ぎてしまっていたことはわかっていたが、それ以上は耐えられなかった。

「忘れて下さい。今のなしです。――失礼しますっ!」

間違った積み重ね方をした積み木が崩れる前に、マヤは逃げ出す。舞台の向こうに駆けだすマヤに真澄は咄嗟に叫ぶ。

「待て、マヤっ!!」

追いかけようとする真澄を引き留めるかのように、胸元の携帯が鳴る。液晶画面に映る発信元である有能な秘書が言う言葉は、聞かなくても分かっていた。約束の時間がきている。

「真澄様、お時間です。鷹通の皆様がお揃いです」

苛立ちと興奮を、こぶしで握りつぶすかのように乱暴に押し込める。体のどこか、探せばすぐにみつかるような浅い場所に。

――まずは、こちらが先だ。

脱いでいた上着をつかむと、マヤとは逆の方向に歩きだす。
意識を集中させる。失敗は許されない。

生まれて初めて望んだ自由を手に入れるために、生まれて初めて求めた幸せを手に入れるために、自分にはするべきことがある。
長く続いた不毛で陰鬱な世界の終りが欲しければ、世界の縁まで行かなければならないのだ。




数時間後、大都グループと鷹通グループの両陣営の取締役が出席のもと開かれた会合の席で両者の事業提携の決裂が決まる。
そしてその夜、速水真澄と鷹宮紫織の婚約が正式に破棄された。




長く続いた自分の中での一つの時代の終りを感じる。
欺き、騙し、罠を仕掛け、出し抜くことだけで実績を重ねてきた日々。
最後の書類をまとめ、深いため息をひとつつくと、胸元の携帯が図ったように鳴る。
あまりに意外な人物の名前を液晶画面に認めると、嫌な仕事相手に出す声とは全く違う声音で応対する。

「これはこれは、珍しい方からのお電話ですね。お久しぶりです、黒沼監督」






季節はずれのおでんの屋台。もしかしたらここのオヤジは、黒沼のためだけにこの店を開けているのではと疑いたくもなる。
以前にもここで黒沼と飲んだことがある。あの頃の自分は、紅天女に向けて策略に充ち溢れていた。そんなことを今となっては懐かしくさえ思う。

「それじゃ、ま、新しい大都と若旦那の前途多難な幸せを祈って」

黒沼のその言葉に真澄は苦笑しながら、杯を合わせた。

「大都でどうやらお家騒動が勃発してるらしいってことは、疎い俺の耳にも入ってきたさ。ま、結果的に若旦那が納得いく形で収めたっていうなら、何よりだ」

「ええ、でも鷹通の後盾を失った代償は大きいと、これからしばらくは責められ続けるでしょうね」

「それにしちゃ清々しい顔をしてるじゃねぇか。それはおまえさんの望んだことなんだろ?」

「ええ、まぁ……」

柔らかい肯定の笑みを浮かべると、真澄は杯を空けた。

「これでやっと自分のやりたいことが出来ます」

それは何よりだと、黒沼もそれに同調するよう頷きながら杯を空けた。

「自分の幸せについてなぞ、人生で一度も考えたこともありませんでしたが、生まれて初めて考えてみましたよ。北島に幸せの条件の話をされましたね」

「ああ……」

旨そうに酒を飲みこみながら、黒沼は2、3度頭を縦に振って頷く。

「必要とされること、役に立つこと、ほめられること……、自分のこれまでの人生と自分自身を振り返りながら考えてみましたよ」

杯をあげていた黒沼の手が止まる。

「なんだあいつ、4つ目は話してないのか」

「4つ目?」

今度は真澄の手が止まる。

「幸せの条件は4つだよ、若旦那。
幸せのシンボルのクローバーの葉っぱだって4枚だろ。だから4枚目の葉っぱがなけりゃ、ただの普通のクローバーだ」

二人の間にシンとした空気が広がる。

「4つ目の条件とは……」

「愛されることだ」

あまりにも意外な言葉を聞いてしまったような気がして、真澄は上手く反応が出来ない。

「なぜ……、なぜ彼女はそれを僕に言わなかったんでしょう」

やれやれと、黒沼は信じられないという表情を浮かべながら、大きく首を横に振ると、まるで出来の悪い動物に話しかけるように続ける。

「先々週だったかな、久しぶりに北島に会ったら『監督、4つ目は難しいです』ってショゲてやがった。3つ目までは頑張ればなんとかなったが、4つ目は難しいと。だから俺は言ってやったんだよ。
『愛されることを求める前に、愛してやれ』と。それから目に見えるようなわかりやすい愛の形に惑わされるな、と。分からないようにそいつを支えてやったり、力になってやるのも立派な愛の形だとな」

相変わらず微動だにしない出来の悪い動物に、黒沼はさらりとなんでもないふうに言う。

「間違った方向に暴走してキスまでしてもらったが、それでもダメだったなんてショゲてて、まぁちょっと可哀想ではあったなぁ」

真澄の体内に確実なパンチを喰らわせたことを黒沼は横眼で確認すると、ふたたび酒を注ぐ。

「しゃべりすぎたな。ま、若旦那、今日の俺は少し酔いが回ってたということで、あんたも少しぐらい酔ったほうがいいんだ。酔って少しはそのカタブツをなんとかしろや」

そう言って真澄の杯に同じようになみなみと酒を注ぐが、急に真澄は立ち上がる。出来の悪い動物に、急に電気が通ったように。小さな杯がカウンターの上でひっくり返った。

「急用を思い出しました。黒沼監督、ありがとうございました!!」

そう言って真澄は深々と一礼すると、お会計はこれで、と多すぎる万札を無造作にカウンターに置いて飛び出していく。
その様子を見送った黒沼は、一人笑いを堪えきれない。

「さすが黒沼監督だ。アカデミー賞ものの演出だな」

旨い酒をぐびりと飲む。

「オヤジィ!これな、今度さっきの若旦那ともう一人、連れを連れてくるから、そん時までつけておいてくれ。結婚の祝い酒になるかも知れないからな!上等のとびっきりのいい酒を入れておいてくれ!頼んだぞっ!」

店主は呆れた様子で酔っ払いのその言葉に頷くと、3回分は祝い酒が振舞える額のそれをしまった。






向かう場所は決まっていた。こんな深夜にとの思いが一瞬、脳裏をかすめたがもう一分たりとも、すれ違ってはいられない状況だった。
何より自分はやっと自由を手に入れた。
自らを引き留めるものは、もう何もないはずだ。

マヤのアパートの前でタクシーを降りる。
少し迷ったあと 携帯を取り出す。呼び出し音を5コール数えてから、それはその人へと繋がる。

「俺だ」

仕事以外の用事で電話をかけたこともないので、そこで言葉が詰まってしまう。できるだけ落ち着いた声を出そうと試みる。

「君がくれた四つ葉のクローバー、よく効いたよ。さすが本物の四つ葉だ」

電話の向こうの緊張がふわりと和らぐのが、漏れた息でわかった。

「でしょ?」

クスクスと笑う声。

「じゃぁ、会議は上手くいったんですか?」

「いった。だから電話した」

小さな沈黙から、電話の向こうの主がどう対応したらいいのか困っているのがわかり、真澄の中にふと暖かな気持ちがこみ上げる。今、確かに自分とマヤは繋がっているのだと感触として感じる。

「いつだったか君に聞かれたな。俺は幸せなのかと」

笑い声が止む。

「ずっとそのことを考えていた。俺は幸せなのか、確かめるのにつきあってくれないか?」

「ど、どうやって?」

「返事をしてくれるだけでいい」

戸惑うマヤをよそに、真澄は目を閉じて一度だけ深呼吸をすると、静かな穏やかな声で問いかける。

「俺は君の役に立っているか?」

「あ、当たり前です!私にお仕事をくれるのは、速水さんなんですから。速水さんがいなかったら、私、女優でいられませんよ」

それは本当の気持ちだったから、マヤの口からもすらすらと出た。

「君は俺が必要か?」

今度は少し沈黙ができる。言葉に詰まる沈黙というよりも、大切なことを言う前に少しだけ呼吸を整えるための時間のような沈黙が。

「必要です。とても。私があの日会議室に怒鳴りこんだの、覚えているでしょ?」

「そうだな……」

マヤの部屋を見上げる。橙色の光が窓から漏れている。

「君は俺をほめてくれるか?」

「ほめるの?私が?」

驚いたふうに間の抜けた声をあげたが、それは拒否しているわけではないというこはすぐに分かった。

「基本的に口が悪くて、意地悪で、無駄にかっこよくて、足と顔も長くて」

「おい、それはほめてるっていうのか」

「これからほめるからちょっと待っててくださいよ」

「私を元気にさせる魔法をいっぱい持っていて、私を笑わせてくれて、時々泣かせたりもするけど、それも含めて人として私を成長させてくれて、だめな時はだめって叱ってくれて、舞台はかかさず見てくれて、感想も正直で、時に厳しくて――」

いくらでもそんなものは出てきそうだった。際限なく出てきてしまうから、自分で終わりの言葉を探す。

「とても尊敬してます。ほんとに、心から」

尊敬――、その言葉はマヤが探していたくぼみにぴたりとはまる。

「ありがとう……」

真澄のそれも、とても穏やかにそのくぼみにかぶさるようにそっとふたをした。

「今日、黒沼監督に会ったよ」

脈略もなく発せられたような真澄のその言葉に、マヤが息をのんだのが電話越しに伝わる。

「監督に言われたよ。三つじゃ四つ葉にならないって」

「え?」

「幸せの条件は、三つじゃなくて四つだそうだ」

今度は本物の沈黙が広がる。真澄にも計り知れない知れない種類の沈黙。
もう一度、目を瞑る。そして覚悟を決めて見開く。

「君は俺を愛してくれるか?
俺は君に愛されるにふさわしい男か?」

今まででもっとも深い沈黙。けれどもそれは、深く暗く秘密を抱き合ったような過去に自らが背負い続けてきた種類の沈黙ではなく、時間とともに鮮やかさを増す沈黙であると、真澄は祈るように信じる。

「もしも答えがYESなら、この扉をあけて欲しい」

二人の前に立ちはだかる最後の扉。なんの変哲もない、その古ぼけた扉を真澄がゆっくりと二度ノックする。
それを合図に、長く長く追い求めてきたその存在がはじかれたように飛び出してくる。
まっすぐに腕に飛び込んできたその存在を、抱きとめると強く強く、その胸にかき抱く。

生まれて初めて、本当に欲しかったものを手に入れた。

「”おかしなこと”ではないキスをしよう」

そういって今にも泣き出しそうな顔でこちらを見上げるマヤの頬を両手で包むと、世界が沈黙するほどの熱いキスを交わす。
長いキスのあとにお互いの額をつけると、体に記憶されていたこれまでのすべての苦しみを吐きだすように言う。

「君を愛していた。ずっと、紫の影として」

そしてその額に新しい始まりを刻むように、柔らかで優しい口づけをもう一つ。

「君を愛している。今ある俺のすべてをかけて――」



幸せであるために、人が求めてやまないこと。

それは、

必要とされること
役に立つこと
ほめられること


そして、


愛し、愛されること。







6.10.2009





<FIN>









なんと3年ぶりの連載でした。自分がもう一度ガラパロを書く日が来るなど、全く思っていませんでした。 まさにアンビリーバボーー!!

ことの発端は、ある日ぼんやり見ていたテレビで、障害者の方を雇用して50年というある会社の社長さんのインタビューでこの幸せの条件を知りました。今よりもずっと法も社会も整備されていないその時代、障害者の方を雇用することに戸惑った社長さんがあるお坊さんに相談して、言われた言葉がこの4条件だったそうです。働くことでしか得られない幸せがある、と。
そのお話にもとてもとても感銘を受けましたが、この4条件を胸の中で繰り返すうちに、あふれるようにお話が広がってしまいました。 はい、例の”なんでもパロ直結脳内”です。昔は毎日がこんなふうでした。(遠い目)
というわけで、リハビリ作らしい穏やか〜なお話になりましたが、最後まで温かく見守ってくださった皆様に心からの感謝を。
どうしても書きたかったお話を書いてしまっただけなので、特に次回作の予定はなく、これで最後になるかもしれません。
久しぶりにこんなことをしてしまってよかったのか、今も自信がないのですが、感想など少しでもお聞かせいただければ、何より嬉しく思います。

ありがとうございました。








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