彼岸の紅い恋
彼岸を前に、うだるような残暑が、訪れた台風によって唐突に持ち去られれ、一気に気温が10度以上も下がった。墓地の階段には、台風の強風に煽られて散った、湿った枯葉が貼り付いている。
踏んでも音のしないその黄色い葉を踏みしめながら、灰色の石段を登る。
風が冷たい。
線を引いたように季節がある日を境に変わることなどないはずなのに、間違いなく今日は”秋の訪れ”を感じさせる、そんな冷たい風だった。

墓参りをしたのは何年ぶりだろう。
3年、4年、いやあれは5年前だったかもしれない。自分以外、おそらく誰も訪れることのないその墓石を前に、聖は曖昧な記憶を辿る。
石に刻まれたその名前を見ていると、辿っていく記憶は嫌でも一番古い記憶にまでたどり着いてしまう。
思い出すことも、ましてや悔いることも拒否したはずのその場所に。

――だから、ここには来なかったのだ。

油断した心の隙間から湧き上がってきた、自分には不似合いな感傷的な気持ちを一括するように、胸で呟く。

――もう、過去のことだ。

そう、思い切り、振り向きもしないと決めたはずの過去に、こうして向き合うのは、重く苦しく、時間の歪みさえ感じ、気が滅入る。分かっていてきたのだ。

聖家之墓

そう刻まれた墓石の裏には、自らの名前さえ刻まれている。
もう、この世には存在しない自分。生きてはいない自分。

静かに手を合わせる。亡くなった母と妹のために。
そして、もう生きてはいない、自分と父のために……。






景色がどれだけ左右の窓から後ろに流れても、なぜか今日は心の落ち着きを取り戻すことが出来なかった。郊外の墓地から都心に戻る、黒いジャガーの中で、グルグルと回る気持ちを聖は持て余す。
いつの間にか長く伸びきって、今にも崩れ落ちそうになったタバコの灰に気を取られた瞬間、激しく対向車にクラクションを鳴らされる。ジャガーは車線を大きくはみ出していた。
慌ててハンドルを切ると、大きなため息が全身からこぼれる。
こんな日は、きっと何をやっても駄目なのだろう。
自嘲的に苦笑いを浮かべると、小さく頭を左右に振った。

外苑前の並木道が見えてきたところで、聖は車を止める。
時刻はまだ2時を回ったばかりだ。
真澄から仕事の件で電話がかかってくるのは恐らく夜。呼び出されるのも恐らく深夜になるだろう。
道を急ぐ理由もない。ならば、気持ちが落ち着くまで、舞って行く枯葉の行方を見守るのも悪くはないだろう、と確かに秋の気配に変わった並木道を歩き始める。

この前、ここを歩いたときは、そういえば真夏だった。

――杏樹の誕生日。

ふと、あの日の甘い想いが蘇り、胸を熱くする。

生まれて初めて、誰かが生まれたことを心から祝った。生まれて初めて、その存在を神に感謝した。
ゆっくりと、甘い記憶を辿るという、時間の逆走行の至福の中で、杏樹の言葉が耳を刺す。

『207年前にね、あたし、25で死んだのよ』

『あたしね、その日結婚するはずだったの』

目の前を一枚の、まだ枯葉にもなりきっていない蒼い葉が、ひらひらと舞う。
天使として生まれついたわけではなく、かつては人間だったという杏樹。そして愛する男と結ばれる日に、その命を奪われた杏樹。
聖の中で、胸の一部がカサカサと乾いた音を立てる。

コツコツと一定のリズムで心地よい音を立てていた茶色い革靴が、ぴたりと止まる。
まっすぐに見つめた先には、規則的に並んだ美しい街路樹が、秋風にその枝を薄く揺らす。

『風は見えないでしょう?風が見える人間は一人もいないでしょう?でも、風を感じることは誰でも出来る……』

前髪を揺らす、その少し冷たい風を、まつげの先で感じる。


知りたいと思う。
杏樹が息絶えた場所を。
どのように息絶えたのかを……。

人気のない公園のベンチに腰を下ろし、聖はゆっくりと目を閉じる。







「紅茶の似合う季節になりましたっ」

首筋の後ろから、急に缶紅茶が突き出されたかと思うと、その温かいアルミが頬に触れる。あっと、声を上げそうになる1秒前に、頬を離れたアルミ缶が、手の中に落ちてくる。

また、こうして、唐突に、堕ちてきた……。

「秋ってなんか感傷的よね」

缶のプルトップを引きながら、杏樹は聖の隣に腰掛ける。前を無造作にはだけさせた、薄手の丈の短い、トレンチコートは、ミルクティーと同じ色だった。

「また、唐突ですね、あなたは……」

苦笑しながら聖は、両手の手のひらで、缶を転がす。

「会えて嬉しくないの?」

からかっているのか、それとも何かつっかかるつもりがあるのか、図りかねる口調。3秒ほど、その奇妙な間を手のひらの缶のように持て余すと、聖は思い切ってプルトップを引いた。

「これが、また夢なのか、それとも現実なのか、私には分からないから、戸惑っているだけです。夢だと気付くのは、いつも目覚めたあとですから」

「じゃぁ、覚める前にキスしておこう」

立ち込める不安な空気を一掃するような、柔らかい声。唇から花びらがこぼれ落ちるように、フフフっと笑ってみせる。その笑みには敵うはずもなく、言われたとおりに、目の前に近づいてきたその唇にそっと自らのそれを合わせる。
触れたら消えてしまうのではないか、そんな想いに胸を塞がれて、触れるだけの短いキス。
唇が一瞬、触れ合ったあと、顔の距離はそのままで、そっとお互い目を開けて、瞳を覗きあう。
まだ、そこに、目の前にいる、その存在。
その口角が穏やかに上がり、再び微笑む。
二度目のキスは、一度目よりも長く、丁寧に。
三度目からは、もう何も分からなくなった。時間も、感覚も、それが幻なのか現実なのかも……。






「死因はなんだったんですか?」

足元に舞い降りた一枚の葉を人差し指と親指でつまんだまま、クルクルと杏樹はそれを回す。

「もしも、聞いてもよければ……」

躊躇いがちに聖の言葉がそう付け加えられる。

「いいよ、いいけど、でもよく分かんなかったのよ、それが……」

クルクルと手元で回っていた葉がピタリと止まる。予想外の言葉に、聖は息を呑む。

「当時はね、まだ医学とかあんまり発達してなかったし、でも、天使やるようになって、色んな人迎えにいくようになって、なんとなく分かったよ。ほら、あれ、『突然死』ってやつ。ウェディングドレス着てたら、もの凄い胸の辺りが痛くなってそのまんま、逝っちゃったから、心臓発作系だったのは間違いないと思うよ」

淡々と杏樹はそう述べる。痛みを伴って話すには、それはあまりにも遠い昔のことで、まるで他人の話でもするように淡々と……。

「死因調べたくたって、そんな司法解剖なんて普通にやらない時代だし、そのままお墓行ったから、死因は最後まで分からなかったの。棺おけ入る時も、ウェディングドレスよ、ありえないよ、ったく……」

聖は瞑った瞼の裏側で、両手を組んだまま静かに横たわる、白いドレスの杏樹を想い浮かべる。

「綺麗な死に方って言えば、綺麗な死に方かもね。若さも美貌も最高潮のときに、いきなりぶっちんって切れちゃったわけだから。でも、こんなのって、ない、って思ったよ。あたしも、その人も、人生で一番幸せな日になるはずだったのが、一番不幸な日になっちゃうなんてね……」

指の間からこぼれ落ちた葉が、ひらひらと舞い落ちる。

「彼岸花ってさ、血しぶきみたいな花だと思わない?」

杏樹のその言葉は唐突に、あさっての方向から聖に問いかける。

「私も死ぬ時さ、外傷なんてカスリ傷さえなかったけれどね、あの時ね、あの瞬間、きっと心臓は破裂してたんだと思うのよ。もう生きていられなくなる瞬間、誰しも心臓がああやって飛び散る気がするの。その時の血しぶきにあれって似てる」

葉をなくした右手が、手持ち無沙汰に下唇を弄ぶ。

「な〜〜んて、人が死ぬ瞬間、見すぎたかなぁ、あたしも……」

誤魔化すようなその場にそぐわない、無理な明るさが、痛い間となって横たわる。

「戻りたいですか?」

「え?」

聖の穏やかな声に、トクンと心臓が鳴る。

「もう一度、人間に戻って、その当時に戻って、やり直したいですか?」

「……ううん」

杏樹は小さく首を横に振る。

「どうしてですか?幸せだったんでしょう?あなたが、一番幸せだったときでしょう?」

「そうだけど、でも……、唐人はそこには居ない」

風が抜ける。
二人の間を。
過去と現在の間を。
幻と現実の間を……。

「そこには、唐人はいないもの。あるのは、思い出だけ。
私は、今、ここにいて、そして天使で――」

杏樹の細い指先が、風にさらわれた聖の前髪にそっと触れる。

「そして、今のあたしが愛してるのは、唐人だけだもの」

そう言って、杏樹は唐突に聖の手を掴むと、自らの左の胸の膨らみの上に押し付ける。

「ほら、こんなにドキドキしてる。こんなに、唐人のこと好きだから、こんなにドキドキしてる。これが、全部。これが、あたしの全部。
これが、現実かどうか、とか、この心臓が一度は破裂したこととか、一度は他の人を好きだったとか、そういうの全部ひっくるめて、この全部があなたを好きだって言ってる」

ドクドクと手のひらで、普通より速いスピードで脈打つそれを、確かに感じながら聖は、その心臓を愛おしく思う。何よりも、誰よりも。

「いつか結婚式を挙げませんか?」

「えええっ?!」

聖の唐突な問いに、杏樹は大袈裟にのけぞる。

「な、なに?ってか、どうしたの、なんかヤバイよ、唐人!」

クスクスと笑いながら、聖は続ける。

「だって杏樹さん、結局、誰とも結婚できなかったんでしょう?私もこの通り、戸籍のない身ですから、一生結婚なぞ出来ませんし」

「だ、だからって、なんでどうしてそこで、いきなり結婚式になるワケっ?!」

完全にペースを乱され、呼吸も乱され、上手く息継ぎさえできないまま、杏樹はしどろもどろに答える。

「白いドレスを着た、幸せなあなたの笑顔を見たいから。
血しぶきに染まったドレスでなく、あなたの羽根のように真っ白なドレスを着たあなたの笑顔が見たいから……」

穏やかにそう微笑む聖の少し照れたような顔を、杏樹はあっけにとられてたっぷり30秒は見つめる。

「もう……、ヤラレたわ、これは……」

そう言って、同じように速い速度で脈打つ、聖の左の胸に、杏樹はそっと頭を預けた。






一年の中で、昼と夜の長さが同じになるこの日、死んだ者への弔いと、供養を施すとされているこの日、過去に死にきれなかった二人の男と女が、不器用に、けれども生きている証としてそっと寄り添う。
左の胸の鼓動を一つに……。

風が聖の閉じた瞼の、睫の先を揺らす。
ゆっくりと眼を開けると、一人きりであることを静かに確認する。手のひらの缶の紅茶はすっかり冷めてしまっていた。砂糖の甘味だけが、異様に舌に残るその紅茶を飲み干すと、聖は立ち上がる。

と、 つま先にあたった、もう一本の紅茶の缶。穏やかに微笑みながら、聖はそれを拾い上げる。

「ごちそうさまでした」

風にさらわれるほどの小さな声で、そう呟いた……。


2005.04.05



<FIN>









季節感をこよなく愛するはずの杏子ちゃんは、いったい何処に……。
ええ〜い!!いいのだ、いいのだ、どうしても”彼岸で1本”書きたかったのだ!!ていうかですね、書いたのはちゃんと彼岸の頃だったのれすよ〜。あまりに更新できないので、在庫から吐き出してみました。他にも在庫あるのかって?それは、菌断の問です!!

”彼岸”
と聞いて最初に浮かぶのは、まぁ、春さんの墓参りですが、これほど手垢のついたネタもないので、即刻却下でネタを3回半転がして落ちてきたのが、
”自分の墓参りをする聖”
うぉぉぉぉ、萌えぇぇぇぇぇ、っつーわけでH&Aで行ってみました。
また一つ明らかになる杏樹さんの過去。それでも、一つずつ二人がそれを乗り越え、そしてまた近しいものへと近づいてくれれば、と思わずにいられません。

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