第一話 |
その日は水城に大都芸能本社へと呼び出されていた。 次回の出演候補作の台本や資料の受け取りと言われていたが、その程度の事で水城直々に呼び出された事をマヤは少しだけ訝しく思う。 紅天女の上演権を継承後、マヤはためらう事なく真澄の居る大都芸能を選んだ。周囲には驚かれたが、自分の中ではもう随分前から決めていた事で極めて自然 な流れだった。 所属にあたり、マヤが出した条件はただ一つ、 「前みたいにはしないで下さい」 それだけだった。 前みたい──、とはあの徒に駆け上がってしまった、スターと言われる周囲が望む存在への階段の事だ。 「私がしたいのはお芝居だけなので」 そうも付け加えると、真澄は同じように胸の奥に残る古傷を思い出したのか、鈍痛を紛らわせるかのように苦笑する。 「そうだな……、君には芝居だけが出来る環境を用意すると約束する。昔のような事には絶対ならない。それに……」 そこまで言って、今度は茶化すように付け加える。 「君ももうアイドルという年でもないしな。地味に堅実に売っていく」 そうまで言われると、今度は逆に、自分にだって男の子のファンもいる、ファンレターを貰う事もある、出待ちされた事もある、などとぎゃーぎゃー騒いでマ ヤは不服そうに対抗してみせるが、それはもう様式美のようなもので、実際は全てそれで良かった。それ、とは、そう、何もかも真澄が思う通りで良かったの だ。 あの当時とは違って、込み入った事情を知る水城がマネージャーに就くなどという必要性もなく、マネジメント部の有能なマネージャーがマヤにも就けられ た。業務連絡は全てマネージャーを介して行われ、特段それについて不都合を感じる事など勿論なく、極めて事務的に合理的に物事は進んでいく。そう、ともす れば真澄の顔など一度も見ることなく、大都でマヤは仕事をしていると言っても過言ではない。そんな一抹の寂しさにも慣れ始めていたというのに、こうして水 城に呼び出された。 「台本は全部で三本。それだけオファーがあったという事よ。よく読んでやってみたいと思ったものを教えて頂戴」 「え、自分で選んでいいんですか? 絶対速水さんがもう決めてるのかと思ってました」 前のような事は絶対にさせないと約束する一方で、仕事の采配に関しては社長である真澄自身に任せて欲しいと真澄は言っていた。異論はなかったが、だから こそ選択肢が与えられた事にマヤは戸惑う。 「そうね、実はもう目星はついているの、真澄様の中では。でもあなたが何を選ぶのか興味があるみたい。気が合えばいいわね」 そう言ってクスリと笑った。真澄らしいやり方だと納得したようにマヤは頷くと、手元の資料をパラパラと捲る。取材を受けた雑誌のインタビューなども混 ざっていた。 資料越しにチラリと目線を上げると、奥の社長室へと続く重厚な扉が、ずっと視界の向こうに存在している。開く気配は全くない。そもそもその扉の向こうに 真澄が居るのかもよく分からない。マヤがこの秘書室に通された時からその扉は閉まっていたし、その重厚なマホガニー色の扉が中の音を外に漏らす事はなかっ た。 もうやることはない。 台本も資料も、受け取るべき物は全て受け取った。世間話にも限界がある。自分がするべき事はゆっくり立ち上がって、あの扉に背を向け、この部屋を後にす る事ぐらいだ。チラチラと扉に視線を送っている事に気づかれたのだろうか、水城が笑った。 「今、真澄様は海外とテレビ会議中なの。もうすぐ終わるわ」 「えっ、ええっ?! そんな、あたし、速水さん待ってたりとか会いたいとか全然そんなんじゃないですよっ!」 恥ずかしさから思わず叫んでしまう。それこそあの扉を突き抜けてしまうくらいの大声で。 そんなに自分の願望は顔に表れていたのだろうか。水城は笑いながら、空になったマヤのティーカップを下げる。まるで全てはお見通しと言われたかのように、美しい水色を湛えた新しい紅茶が注がれた薔薇模様の繊細な ティーカップが、再度コトリとマヤの前に置かれた。 「あらそう? 真澄様は会いたがっていらしたわ。最近会ってないでしょ?」 しれっとそんな風に言われ、マヤは立ち上がりかけた腰を再び応接セットのソファーに下ろす。 「そうですね……、ここ一ヶ月以上、お会いしてないと思います」 ティーカップの薄い縁にそっと唇を寄せる。自然と瞼を閉じると、真澄の顔を思い出すようにして紅茶を口にした。 大都に所属すれば、単純にもっと会えると思っていた。自分が采配を振るうなどと言っていたぐらいだから、もっと頻繁に会ったり、話し合いの場が持たれた り、というのを漠然と想像していたが、実際そんなものはほとんど無かった。仕事は間違いなく順調に円滑に進められており、そこにはたとえマヤの目には見え なくとも真澄の采配なるものが無論存在していて、だからこそ自分は何のストレスも苦労もなく安心して役者の仕事が出来ている。 そこには何の疑問も異論もないのだが、ただ……、真澄だけが居なかった。 「ここのところ、本当に忙しくしてらして……。ほら……、鷹宮との破談以降、会長との関係も悪化したし、破談がもたらした大都への損害も小さくはなくて、 社内の風当たりも正直厳しくてね……、正念場だったのよ」 あの鷹宮紫織との破談の衝撃は勿論マヤの耳にも入っていた。詳しい事など知る由もないが、偶然とは言え、婚約披露の場にまで居合わせたマヤからすれば、 破談は信じられない事だった。 「あんなにお似合いの二人だったのに、何がダメだったんでしょうね……」 自分には到底分からない答えを探すように、ティーカップに注がれた紅茶の表面をマヤは覗く。勿論そんなところに答えはない。 「聞いてみるといいわ、真澄様本人に」 まるで好きな食べ物でも聞いてこいとでも言うような気軽さで水城が笑う。 「えええっ?! き、聞けませんよ、そんな事速水さん本人になんてっ!」 「そう? だって噂話は当てにならないわ。特にこういった醜聞やスキャンダルは尾ひれも背びれもついて酷い話に行き着くものよ。だったら本人から聞くのが 一番」 「いやいやいやいや……」 本当にそんな事をこんな自分が真澄に聞こうものなら、眉間に皺を寄せて露骨に嫌な表情を隠しもせず、 「は? 君には関係ないだろ」 などと言われるぐらいしか全く想像出来ないのだが。 「ほら、ちょうどいいわ、出ていらした。聞いてごらんなさい」 水城のその声に慌てて社長室のドアの方へと視線を移すと、ガチャリとドアを開けた真澄が確かにそこに立っていた。 少し痩せただろうか──。 ドア枠に手首のあたりを軽くついて、からかうような涼しい顔でこちらを見ている真澄の輪郭をマヤは辿る。写真など持っていないから、思い出す時はいつも 記憶だけだった。探せばきっとインターネット上に大都芸能のトップとしての写真など幾らでも出てくるのだろうが、それは自分とは全く関係ない場所で撮られ た、自分とは関係ない真澄である気がしてそれを保存してどうこう、などという気にはならなかった。 記憶の中で何度も思い出した笑顔に目の前の人のそれを重ねる。 「俺に何を聞きたいんだ?」 聞こえたのであろう、最後の水城の言葉尻だけ真澄が拾う。 「な、な、何でもないですっ!」 プライベートゾーンど真ん中にいきなり頭から突っ込んでいく人間がどこにいるのか。水城のありえない無茶振りにマヤは狼狽えながら、両手を胸の前で激し く振る。 「ゆっくり問い詰めて、君が聞きたかった事が何かを探り出して、そして答えてやりたい気持ちは山々なんだが、生憎これから会食の為出かけなければならな い。もしよければ今度──」 そこまで真澄が言うと、遮るように水城が声を上げる。 「その会食の予定でしたら、先方から連絡があり、先程キャンセルとなりました」 驚いた表情で真澄が動きを止める。ありえない、とでも言うように。 「本当か? どうしても今日のアポがいいと言い張ったのは先方じゃなかったのか? それを当日キャンセル?」 「ええ、本当に何を考えているんでしょうね。当日キャンセル……、それも予約の三十分前になってのドタキャンはレストランにも迷惑ですので、真澄様、行っ て頂けますね?」 「行く? レストランに?」 意味がわからないという表情で真澄が水城を見る。 「ええ、あそこのレストランはこれからも懇意にしたいですし、フルコースの予約を三十分前にキャンセルは常識的に考えて出来ませんわ。中々予約が取れない 事でも有名な秘書泣かせなレストランですし、せっかくですから、そう、たとえば──」 そう言って急に水城が振り返る。 「マヤちゃん、あなた暇ね?」 「はぁっ?! あたしっ?!」 ありえない本日最大級のとどめの無茶振りにマヤは素っ頓狂な叫び声を上げる。 「今日の予定はこれだけよね。ちょうどいいわ。たまには美味しいものでも真澄様にご馳走になってきなさい」 そこから先の事はよく覚えてない。 「ムリです、ムリです、ムリです」 「こんな変な服じゃ、そんな凄いレストラン入れて貰えません」 「速水さんだって、こんなチンチクリンと行きたくなんかないに決まってますっ!」 ありとあらゆる事を叫んで全力で拒否してみたが、 「いや、俺は君と行きたいね」 そんな涼しい一言とともに、真澄はマヤの荷物をいとも簡単に奪うと、社長室を後に廊下を歩き始める。凄まじい騒々しさでその後を追いかけたが、気づけば真 澄とともに迎えの車の後部座席に押し込まれていた。 「楽しい夜になりそうだな」 先程までの、突然の会食ドタキャンの困惑はどこへ行ったのか、この上なく楽しそうな声で真澄はそう言って笑った。 思った通り、そこは門構えだけでもマヤを二歩も三歩も後ずさりさせるような豪華さだった。 中々予約が取れないというのもきっと嘘ではないだろうし、外にコースメニューの値段の手がかりになるような物も一切ない。とんでもなく場違いな場所に放 り込まれた事はもう間違いない。 「あの……、あたしこんな普通な格好なんですけど、大丈夫ですかね?」 シンプルなネイビーのツインニットにマスタードカラーのミモレ丈のフレアスカート。一応、真澄の居る大都に出向くのだから、と稽古着でもないしGパンで もない、それなりに小綺麗な格好ではあったけれど、だからといって特別な服でも勿論ない。アクセサリーだって何もつけていない。バッグだって──。 どこまでも後ろ向きに後ずさりする思考を掴まえるように、うつむくマヤの顔を真澄は覗き込む。 「心配ない。個室を押さえてある。二人きりだ。誰にも見られない。君と俺だけだ」 「そう……なんですね、それなら安心──」 そう言いかけて、マヤは再びぎょっとする。個室ということはほとんどの時間を真澄と二人きりで、その密室の中で過ごすという事だ。真澄の言葉通り、誰に も見られず二人だけ……。 自分が着ている服の冴えなさなど一瞬で吹っ飛ぶようなその状況に、マヤの心臓は急に高鳴り始める。 真澄と密室で二人きり──。 それだけで出てくるコース料理の何よりもハイカロリーな圧を感じる。まるでフォアグラとキャビアとトリュフを無理矢理、一皿の上に乗せたような。 レストランの瀟洒な扉の前で思わず怯んでいると、ガラス窓の向こうで敬々しくお辞儀をした店員が内側からドアを開ける。真澄の右手がマヤの肩に触れ、強 引ではない強さでそっと前へといざなう。 予期せぬ魔法のようなタイミングで扉は開き、マヤの体はためらいもなく吸い込まれていく。 特別な夜が始まるのだと、胸の高鳴りが間違いなく、そう告げていた……。 2019 . 11 . 3 励みになります!
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