第2話 |
メニューについてあれこれ聞かれたが、全て 「おまかせします」 の一点張りで押し通し、値段の書いていないメニューはマヤの手元から下げられた。 嫌いな食べ物は一つもない、何でもよく食べる、食べた事がないものでも絶対食べるので大丈夫、と力強く訴えると、 「頼もしいな。それでこそチビちゃんだ」 と笑われた。 全てのメニューが下げられたタイミングで、ソムリエが一本のワインを携え入室する。 「速水様、こちら水城様より承っております」 意外な名前を告げられ、お互い顔を見合わせる。 「メッセージカードもお預かりしております」 そう言ってソムリエから真澄に一枚のカードが手渡される。カードを開いて目を通した真澄の表情が崩れ、やられたとでも言うように笑い出す。 「これは水城君にしてやられたな。仕事ばかりしている上司に誕生日プレゼントだそうだ」 「えぇっ?!」 驚いて身を乗り出すと、真澄がカードをこちらに向けて見せてくれた。 ”真澄様、 誕生日の夜ぐらい、仕事の事は忘れ、 それらしく過ごして下さいませ。
あなたの秘書より”
「た、誕生日だったんですかっ?! 今日」 とんでもない事になったとマヤは狼狽える。 そんな事は知るよしもなかった訳でプレゼントの用意も勿論ないし、何よりそんな大切な夜を過ごす相手としてあまりに自分では不適切だ。 「ああ、そうだ。すっかり自分でも忘れてたが、彼女には毎年お祝いを言われていたな。いつも仕事ばかりして誕生日も忘れて過ごす上司を哀れに思って、今年 はこんなサプライズをしてくれたんだろう」 いかにも水城のやりそうな事だと真澄は笑う。 「じゃ、じゃぁ、会食の予定って言うのも……」 「おそらく、そもそも最初から存在してなかったのだろう。そう言えば彼女から『先方から再三、三日でなければダメだと言われている。絶対に空けておくよう に』と何度も念押しされたな」 「そんな……、そんな大事な日のディナーの相手が私だなんて申し訳なさ過ぎます。たまたま用があって社長室に居ただけなのに……」 心底申し訳なくなって、マヤは思わず俯く。居た堪れないとはこういう状況の事を言うのだろう。 「あの、今からでも他の誰かを呼んで──」 そう言って席を立ちかけると、たしなめるように真澄の手がマヤの手をテーブルの上で繋ぎ止める。 「いや、君でいい。君がいいんだ」 短いけれど、有無を言わせぬ調子でそう言い切られ、マヤは思わずまた席についてしまう。 「なんか……すみません。私じゃ分不相応ですよね、せっかくのお誕生日なのに」 「そうだな……、ただ食事をするだけじゃつまらない。恋人として祝ってくれないか?」 明後日の方から聞こえてきたのではないかと思うほど、流れからしてもありえない事を真澄が言い放った気がして、処理能力をオーバーしたロボットのように マヤは一瞬固まると、間の抜けたタイミングで叫び声を上げる。 「はぁっ?!」 「そう言えば恋人と誕生日を過ごした事がない。仕事ばかりしてきたせいだな。そんな甘い思い出は一つもない。せっかくこんな夜に偶然とは言え、君と二人き りで過ごせる事になったんだ。誕生日の余興だと思って、今夜は俺の恋人になってくれないか?」 真澄はまだワインを口にはしていない。しかし言っている事は酔っ払いの戯論にしか思えず、正気なのかとマヤはまじまじと真澄の顔を見る。 「本気で言ってます?」 「勿論、本気だ」 「こ、恋人として祝うって、具体的にどんな事をすればいいんですか?」 あっさり受け入れたらとんでもない事になりそうで、マヤは往生際悪く、そう食い下がる。 そんなマヤの様子を見て、真澄は堪えかねたようにクスクスと笑う。 「そんなに警戒するな。いきなり君を取って食ったりしない。ちゃんと生きたままこの部屋から出してやる」 そう言って狡猾な笑みを瞳に浮かべて笑ってみせる。その余裕が逆に怖くてマヤの背中がゾクリと震えた。生きたまま──、などという言葉を日常会話に使う 事自体が信じられない。逆に言えば、命以外は全て奪われるという事ではないかと、俄かにマヤの体に緊張が走る。 「そうだな……、誕生日に恋人とどんな事をしたいかなど考えてみた事もないから分からないな。……普通でいい。君が俺の目の前で、ただ笑ってくれていれば それで充分だ」 「笑ってるだけでいいんですか?」 それだけで真澄の恋人になれるとは思えなかった。たとえ今宵、一夜だけの仮初の恋人だとしてもだ。不安と疑いが交差する眼差しでマヤは真澄を見つめる。 こんな自分が冗談でも真澄の恋人役が務まるとはとても思えないのだ。 「出来れば美味しそうに食べては欲しいな」 真澄のその言葉にマヤの肩の力がガクリと抜ける。 「それだけは自信あるので大丈夫です」 秒でそう答えると真澄が満足そうに笑う。 「それは承諾の返事と取っていいのか?」 「嫌だって言ったって、もうこの部屋からは出してくれないくせに」 緊張のピークを超えると今度はスラスラと軽口が幾らでも口をついて出てきた。 「その通り、よく分かってる」 「付き合い、そろそろ長いですからね」 その言葉に真澄は頷くと、恋人の時間の始まりを告げるようにワイングラスを掲げる。 「君と過ごす特別な夜に……、乾杯」 「えっと、あの……お誕生日おめでとうございます!」 そう言ってスマートとは到底言えないぎこちなさで、マヤはグラスを合わせる。芳醇な赤ワインを抱いた大きなクリスタルグラスの向こうで真澄が穏やかに笑 う。 その笑顔にマヤは密かな目眩を感じる。 ただ、笑ってくれればいいと真澄は言った。同じ事をマヤは真澄に対して思う。自分に対して、こんなにも穏やかに笑いかけてくれるだけで、それだけで幸せ な気持ちになる。昔から時折見せるこの人のこの穏やかで優しい笑顔に、もっと若い頃はただ戸惑っていた。その意味も、真意も、そしてなぜ自分の心までざわ つくのかさえも分からなかった。 今なら分かる。 好きな人だからだ。 好きな人に笑いかけられるだけで、それだけで満たされる瞬間が存在するのだ。 「凄い……、大人の味がします。なんていうか今まで一度も飲んだ事のない味です」 幾重にも複雑な層を重ね合わせたようなワインの味わいと奥行きにマヤは感嘆の声を上げる。 「水城君が俺の生まれ年に合わせて選んでくれたヴィンテージワインだ。彼女らしい完璧な仕事ぶりだな」 そう言って、ワイングラスのステムを少しだけ回すようにして、真澄はその美しい赤色の表面の揺れ動きを、目を伏せ、堪能している。長いまつげが美しい印 影をその顔に作る。 大人の男だとふいに思う。 無駄に喋らない、沈黙の瞬間を纏う事も出来る大人の男。 こういった店での立ち居振る舞いを見ていると、嫌でも真澄が通ってきた道と自分が通ってきた道の違いを感じさせられる。単に年齢の問題だけではないはず だ。 「大人になったな」 思考を覗かれたかのようなタイミングで、真澄がそう口にした。 「チビちゃんとワインを飲んでる」 感慨深そうにそう言って、真澄はグラスを傾ける。 「私は逆の事思ってました」 真澄の顔が訝しげに揺れる。 「もう大人だ、大人だって騒いで、子供扱いするなっていつも言ってましたけど、こういうお店に来て、こんな高級なワインを目の前にすると、どうしたらいの かも分からなくて、あまりにも経験値がない自分が恥ずかしくなります」 個室だからだろうか。それともこの芳醇なヴィンテージワインの魔法だろうか。思った事をそのまま素直に口に出来て、マヤは自分でも驚く。 「そんな事は大した事じゃない。これから幾らでもいいワインを口にする機会も、こういった店に連れて来られる機会も増えるだろう。君は紅天女だ。世間が 放っておく訳がない。必要な経験は必要な時に与えられる。今までの君の人生は芝居が全てだった。芝居に全てを打ち込んできたんだろう? そのほうがよっぽ ど価値がある。君がワインの味や大人の遊びを覚えるのはこれからだ」 そう肯定され、締め付けられた胸を優しく包まれたような気持ちにマヤはなる。その言葉すらやっぱり大人で、上手に言葉を選んでたしなめられたのだと分か るからだ。 「そのままの君で俺は十分だと思うけどな。十分魅力的だし、かわいいと思ってる」 突然、真澄の口から飛び出した「かわいい」などと言う言葉にマヤはぎょっとする。 「流れるように口説くの止めて下さい」 ついそんな生意気な事を言うと、 「今夜はそういう日だろ?」 そう言って笑われた。 「本気で大人になりたいのか?」 ふいに真澄が冗談の合間に本気のカードを挟んでくる。カードを受け取れば、おそらくそのゲームが始まる。 「な……りたいです。速水さんから本気で口説かれるぐらいの大人の女になりたいです」 その言葉に一瞬真澄は虚を突かれたかのように動きを止めたが、すぐに余裕の笑みを取り戻す。 「それなら遠慮なく口説かせて貰うよ。いいか、恋人として笑ってくれていればいいと俺は言ったのに、本気で口説いて欲しいと言い出したのは君だ。後悔して も知らないからな」 そう言って、真澄はテーブルの上のマヤの手を取ると、甲にそっと口づける。芝居以外でそんな事をする男をマヤは初めて見た。唇を奪われた訳でもないの に、それ以上の衝撃が手の甲から全身へと伝わる。 そのタイミングで二皿目の前菜が運ばれてくる。 「こちらソローニュ産のキャビアを乗せた、甲殻類のジュレでございます。なめらかに仕立てましたカリフラワーのクレームと一緒にお召し上がり下さい」 右から左へと魔法の呪文のような言葉が流れていく。 きっと今宵の時間もこうやって滑らかに、舌触り良く流れていくだろう。真澄が浴びせるシャンパンの泡のように心地の良い言葉と、フォアグラのテリーヌの ようなねっとりとした濃厚な甘い言葉を耳元でいくつも囁かれながら。 それでいいとマヤは思う。 人生に一度くらい、こうして流されるような夜があってもいいではないか。全てがシャンパンの泡のように消えてなくなり、一瞬を彩る為だけに整えられた芸 術的に美しいプレートの数々も跡形もなく消えていったとして、それでも自分には真澄の誕生日を共に過ごしたというかけがえのない思い出が残るはずだ。 自分が望める精一杯の贅沢だとマヤは思う。 マヤにとってもっとも贅沢な、ベルベットのような手触りの夜が、すぐそこまできていた……。 2019 . 11 . 4 励みになります!
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