第1話



 
 大それた事や特別な事は何も望ん でいなかった。
 謙遜でも遠慮でもなく、本当に心の底から何も望んでいなかった。何かを望むには過ぎた相手だとずっと思っていたし、望んだところで叶わなかった時のダ メージを想像するほうが、はるかに堪える。
 そんな恋愛においては超絶後ろ向き思考全開の自分が、義理チョコを装って何とか真澄にバレンタインのチョコを渡した時の一言も、全くもってありえ ないものだった。

「お返しとかいらないんで」

 自分自身ですら予期せず、咄嗟に出た一言はとんでもなく雑に響いた。その一言に至るまでには、

(トラック一台分チョコ貰うとか聞いたから、お返しなんて申し訳ない)
(どうせ速水さん、甘いものなんて食べないだろうから、食べもしなかったものに対してお返し貰うなんて悪いし)
(十倍返し目当てとか思われたら恥ずかしい)
(どうせ水城さんに用意させるんだろうから、お仕事増やしたりしたら申し訳ない)

という長い長い葛藤があっての事だったが、そんな短い一言でそれが伝わるはずもなく……。
 しばらく呆気にとられたような表情で見つめられた後、

「何をそんなに今から警戒してるんだ」

と笑われた。

「別にチョコを貰ったぐらいで、勘違いして君を取って食ったりしない」

 加えてそんな事を言われ、逆に自分が、相当自意識過剰全開な様子に真澄の目には映った事に気づき、恥ずかしくなる。

「え……、だって、お返しとか大変じゃないですか。速水さん凄い沢山貰うだろうし。お返しが欲しくて、とかそんなんじゃないですし。お世話になってるの で、 ほら……形だけでもちゃんとしないとって。ほ、ほんとにただの義理チョコですからっ!!」

 言えば言うほどドツボにはまる。

「形だけでもとか、義理だと連発してみたり、君は本当にさっきから酷い事ばかり言うな。さては俺に何か貰うのが怖いんだな」

 まったくもってスマートに振る舞えない自分の様子を、真澄はクスクスと笑いながら更にからかってくる。

「こ、怖くなんかないですっ! ただ悪いなって……」

「そんな事を言ったら俺だって同じだぞ。十一も年下の若い可愛い女優からチョコを貰ったのに、お返しもせずスルーを決め込むなんて普通はありえない。常識 を疑われる! まし てや、君はまだ大都に所属して二ヶ月。初任給だってやっと出たばかりじゃないか。そんな君がこの俺にチョコを用意してくれた。それを無視しろと君は言うの か?」

 早口で一気に捲し立てられ、マヤは唖然とする。速水真澄ともあろうものが、自分ごときの義理チョコにこんなにこだわるなど夢にも思っていなかった訳で、 まともな返しが出来ず、言葉に詰まる。おそらく、きっとからかわれているのだろうと、脳裏のどこかでは思いながら……。

「じゃ、じゃぁ、どうしたら──」

「そんなに俺から何かを貰うのが嫌だったら、食事にでも付き合え」

 明後日の方向から聞こえてきたありえない提案に、マヤはヒッと変な音を立てて息を呑む。

「食べて消えてなくなるものだったら、君もそこまで怖くないだろう」

 本気で言っているのかとまじまじとマヤは真澄の顔を見る。真澄と食事をするなど、どれだけハイカロリーな事案だか、全く分かっていないのだろうか。素直 に深く考えずに受け取ったかもしれないホワイトチョコやキャンディーの数百倍のカロリーはありそうだというのに。

「日にちは三月十四日でいいな」

 黙っていたら承諾と取られたのか、勝手に日時まで決められそうになる。

「い、いいですっ!ホワイトデー当日は本命の日で悪いからいいですっ! 出来たら別の日で──」

 真澄が深い溜息を吐く。あからさまに機嫌を損ねてしまった事が分かる。

「えっと……、あのもし可能なら、来週の木曜とかどうですか?二月二十日なんですけど……」

 ありえない会話を重ねる中で、ついそんな事を口走ってしまう。

 もしも……、
 もしも真澄と一緒に食事をして過ごせるならば、自分の誕生日の夜がいい──。

 そう思ってしまったのは、魔が差したというか、煩悩に支配されたというか……。とにかく普段の自分だったら到底口に出来ないような望みをマヤは瞬時に口 にしてしまった。
 突然提示された具体的な日時に真澄は一瞬驚いたような表情を見せるが、すぐにふわりと柔らかく笑う。

「わかった……、二十日だな。空けておく」
 
 あっさりそう承諾すると、真澄は何かを素早く手帳に書き込んだ。無造作に手帳をデスクへと置いた真澄と目が合う。

「君は書かなくていいのか?」

 真澄がからかうように笑っている。

「な、何をですか?」

「デートの約束を手帳に書き込んでおかなくていいのかと聞いているんだ」

 瞬時に真っ赤になってマヤは噛み付く。

「大丈夫ですっ! 若いんでっ! 速水さんと違って、記憶力いいんで!」

 そんなマヤの様子を見て真澄はますます笑い声を大きくしたが、ふいに何かを越えたかのようにその笑い声はどこかに吸い込まれ、代わりに穏やかな視線がマ ヤを捉える。

「こ、今度は何ですかっ?」

 次はどんな事を言われるのかとマヤは身構える。

「君も成長したんだな、と急に感慨深く思っていたところだ」

 突然何を言い出すのだと、マヤは訝しげに表情だけで聞き返す。

「会うたびにゲジゲジだ嫌味虫だと罵られていたというのに、義理とはいえ、こうしてバレンタインにチョコまで貰えるとは、数年前には考えられなかった事 だ。俺がゴキブリから出世したのか、それとも君が優しい大人の女に成長したのか──」

「いや、だから……、その……、そういうのはもう時効って事で……」
 
 すれ違う度に拳を突き上げ悪態をついていた過去を思い出し、あまりの恥ずかしさに居たたまれなくなる。
 
「冗談だ。からかって悪かった。単純に君からチョコを貰えて浮かれている男の独り言だ」

 そう言って真澄はうつむくマヤの頭をくしゃりと撫でる。

 そろそろこの部屋を出ていかなければいけない。水城の話だと、今日もこの後商談やら会議やらが目白押しで続いているらしい。ほんの僅かな隙間時間を貰っ て、こうして自分は運良く社長室へと通して貰ったのだ。

「えっと、あの……、じゃぁ、そろそろ行きますね。お仕事の邪魔してすみませんでした。それから来週二十日、楽しみにしてます」

 真澄がデートなどとさっき言ったので、それが尾を引いて、猛烈な照れが襲ってくる。こんな別れ際は、まるで恋人同士のそれみたいではないかと馬鹿なツッ コミばかりが浮かんでくる。

「ああ、俺も楽しみにしている。店の事は任せてくれ。場所は追って連絡する」

 そう言って、ごく自然な調子で促されるようにさりげなく、腰の辺りに僅かに真澄の手が触れる。会社の社長室でこんなにスマートにエスコートする大人の 男は、本当の夜のデートとなったらどんな技を繰り出してくるのだろうかとマヤは一瞬で途方に暮れる。思わず黙りこくって下を向いていると、美しい指先がふ いにマヤの前髪に触れる。

「心配するな。楽しい夜を約束する」

 浮かれたり沈んだり、まるで一秒ごとにアップダウンを繰り返すシーソーのようなマヤの心の動きを読んだかのごとく、真澄はそう言って笑う。
 自分だけに向けられたその柔らかな笑顔に、自分は物凄くこの人の事が好きなのだ、と今更ながら目眩のようにマヤは実感した……。






 紅天女の後継者となって半年。
 マヤの住む世界は大きく変わった。

 大都芸能にも所属し、二年先まで舞台の予定が決まる。一つ一つオーディションに足を運んで役を掴んでいた頃が嘘のように、今は役を選ぶ立場にある。勿 論、仕事の采配を振るうのは真澄を始めとした大都の優秀なスタッフな訳で、役を選んでいるような実感はマヤ自身にはまるでないけれど。
 一度はすべてを失った自分は、誰からも相手にされず、暗闇の中から「紅天女」への道をひとり模索してきた訳だが、「紅天女」という光が当たってからは、 一気に明るい場所に引きずり出されたような戸惑いも覚えた。
 セキュリティーの整った都内のタワーマンションへの引っ越しも余儀なくされ、家賃が払えるかどうか、うっかり電気や水道が止まったりしないか、などの心 配は無縁になったが、そのおしゃれなデザイナーズマンションの内側で暮らす自分は何も変わらず、ひたすら地味だった。

 そして、何より一番変化を望んで、そして一番変化が訪れなかった事は、間違いなく真澄との関係だ。
 所属の女優ぐらいなれば、少しは接点が出来て会えたりするのではと勝手な想像をしていたが、それは本当に勝手な想像であり妄想だった。

 鷹宮家との婚約が破談になって以来、真澄の多忙さは留まる所を知らない、と水城が嘆く通り、生じた損害を補填する為に異常な仕事の仕方をしているとの もっぱらの噂だった。
 個人的な時間を持つ事など夢のまた夢で、偶然廊下ですれ違う、などという事すらドラマや漫画では当たり前に起こる事なのに、自分の身には全く起こらな かった。

 今回こうしてチョコを渡すという一大ビッグイベントも、

「どっからどう見ても義理チョコにしか見えないのは分かってるんですけど、大都に入れて貰って最初のバレンタインをスルーしたら、絶対失礼に当たるから、 一瞬でいいので渡す時間作って頂けますか?」

と、長すぎる前置きと言い訳をして水城にどうにかして貰ったのだ。たかがチョコを渡すだけであれだけ大騒ぎして、そしてテンパった自分からすれば、からか われたとしか思えない真澄とのやりとりの末に、まさかデートの約束を取り付けられるなど、文字通り、夢にも思っていなかったのだ。本当に。

 頬の下のあたりをつねってみる。
 よく漫画で見るアレだ。
 普通に痛い。肉の内側が、確かに痛いからやめろと言っている。
 もう少し強くつねってみる。今度は本当に声が出るほど痛かったので、これ以上馬鹿みたいに夢だなどと思う事はやめた。

 急に足取りが軽くなる。
 スキップしながら家まで帰ってしまいそうだ。いつ会えるかも分からなかった人に、確実に六日後に会えるのだ。それも自分の誕生日に!

 こんな偶然と幸運はもう二度と自分の人生では巡ってこないかもしれないと思うと、踊りだしたくなるほどの高揚感にマヤは包まれる。その一方で次の瞬間に は、頼むからその日に大雪が降って電車が止まったり、大地震が起きたり、マンションが火事になったり、そんな事だけはどうかどうか起こりませんようにと、 余計な心配ば かりが次から次へと浮かんではマヤを眠れなくさせた。



 
 



 
 大雪は降らなかった。むしろ二月にしてはとても暖かく、快晴の一日だった。勿論、大地震だって今の所起きてないし、マンションで火事も発生してない。

 けれども予想もしなかった事態が突然世界を取り巻く。

 一月の末頃から世間を騒がせ始めていた新型ウィルスがあっという間に日本に上陸し、不要不急の外出を控えるよう政府から通達される。
 大勢の人間が集まるイベントはことごとく中止され、レストランは軒並み休業、誕生日だからと言って、とても浮かれて外出できる事態ではなくなってしまっ た。

 散々迷った末に、マヤは約束の日の前日、真澄に電話で中止の連絡を入れる。

「あの……、前日になってすみません。やっぱり明日はちょっと無理かと……」

 電話の向こうにしばしの沈黙が流れる。電話は苦手だ。今、真澄が何を考えているのか、手探りでも分からないから。

「レストランだってもうほとんどのお店やってないですし、何より、今不用意に外出したりして、何かあったら速水さんに申し訳ないです。マネージャーさんか らも 今日、人混みには絶対に行くなって、念入りに外出禁止を言い渡されました」

 沈黙に語りかけるようにマヤは必死で言葉を繋ぐ。
 本当は行きたい。行きたいに決まってる。
 憧れの真澄と夜のデートをしてみたい。いつかではなくて、明日、誕生日の夜だからこそ、それには意味があったし、夢があったのだ。
 でも、そんな我儘はどう考えても今は口に出来ない。

「だったら二人きりなら問題ないな」

 突然、明後日どころか明々後日ぐらいの方向から聞こえてきた声に、マヤは驚いて自らの聞き間違いを疑う。

「はぁっ?!」

 思わず電話に噛み付くような奇声を上げる。

「明日、君のマンションまで車で迎えに行く。俺の車で途中どこにも寄らず、その場所まで行く」

「その場所って?」

 少しだけ間が出来る。とても大切な事を言われる予感がして、マヤは息を止めて、真澄の答えを待つ。

「伊豆の俺の別荘だ。二人きりになれる」

 伊豆──、というその言葉に、ふいに心臓を掴まれ、呼吸の仕方を忘れたようにマヤの胸は一気に苦しくなる。

「周りは全て別荘の私有地だ。周囲数百メートル人もいない。君が俺以外の人間に会う事はない」

思わず息を止めたまま、何も言葉に出来ずにい ると、もう一度確かめるように言われる。

「君と俺と、二人だけしかいない夜に君を連れて行く。いいな」

 それは答えを待たない問いかけだった。真澄という存在が創った世界の、もう決められてしまった当然の審判のように。

「はい……」
 
 何かに導かれるようにマヤの唇が素直にそう呟く。

 真澄が言った「二人だけしかいない夜」へと続く、まるで優雅な城の門となる重厚な鉄の扉が、ゆっくりと開け放たれていく。

 たった二人のゲストしか招き入れる事のない、森の奥にひっそりと佇む秘密の城の扉が……。




2020 . 2 . 20








…to be continued















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