第2話



 
「伊豆……って、よく行かれるんですか?」

 約束通り、マヤのマンションまで迎えに来た真澄の車は、東名高速に乗ると一気に加速していく。

「そうだな……。一人になりたい時、考え事がある時、いつも行く場所だ」

「遠くないんですか?」

 考え事をする為だけに、往復三百キロもの距離を移動するなど、マヤには考えられない事だ。

「平日の夜なら道も空いている。二時間少し走らせれば着く。考え事をするにはむしろちょうどいい距離だ」

 何でもないふうにそう言う横顔に対して、一人が似合う大人の男なのだとマヤは思う。誰にも邪魔される事なく、自分だけのこの空間で、自分の為だけの場所 へと夜陰を切り裂くようにまっすぐに走り抜ける様子は、どこか孤独で、それでいて自分などが簡単に触れてはいけない疎外感も感じさせる。

「速水さんの秘密の場所……なんですよね?」

「そうだな……、俺が唯一、本音になれる場所だ。本当の俺自身に戻れる。そこに誰かを招いた事は一度もない」

 一瞬、息を呑む。本当に自分などが行っていいのだろうか、と。

「そんな大切な場所に……、すみません、あたしなんかがお邪魔して──」

 新型ウィルスの騒動がなければ、勿論、提案もされなかった話だ。言葉では「やっぱりいいです」と断りつつも、本当は会いたい、物凄く会いたい、という自 分の気持ちはもしかしたらしっかりダダ漏れていて、だからこそこうやって真澄に無理をさせてしまっているのでは思うと、急に申し訳なさがこみ上げてくる。

「君は本当になんでも後ろ向きに考えるんだな」

 真澄はそう言ってクスリと笑う。

「逆だ」

「え?」

 驚いてマヤは真澄の顔を見返す。端的に言って、意味がよく分からない。

「君だから連れていく。君に本当の俺の姿を見せたくなった」

 あまりの言葉に、どう反応していいのか分からず絶句していると、

「……という風には考えられないのか?」

からかうようにそう言われ、どちらが本音なのかもう分からなくなる。大人の男は本音と冗談の織り交ぜ方が本当に上手い。これもまた一つ、新しく学んだ事だ。
 結局、自分ごときが、真澄が本当の所で何を考えているかなど分かる訳ないのだ。

「考えられる訳ないじゃないですかっ! むしろ、速水さんの秘密のお城に不法侵入する招かれざる客感、めっちゃ溢れ出てます」

 そんなマヤの様子に真澄はクスクスと笑う。

「大丈夫だ、歓迎するよ」

 そう言って頭をくしゃりと撫でられる。不意打ちでこういう事をするから、またまた油断ならない。どう言い返したらいいのか分からず、都合、片側だけ頬をふくらませると、人差し指の第二関節でその頬をなぜられた。

「あ、あのっ、ご飯っ! 晩ご飯どうするんですかっ?」

 真澄の方向に傾き過ぎる空気に耐えきれなくなったマヤは、思わず斜め上の方角を狙ったような叫び声を上げる。こういう所が子供なのだと重々分かっている が致し方ない。耐えられないものは、耐えられないのだ。それに実際、晩ごはんの事は少し気になっていた。真澄は誰にも会わないと断言していたが、そんな事 は可能なのだろうか、と。

「ディズニー映画の『美女と野獣』は観た事あるか?」

 唐突な真澄のその言葉にマヤは目を見開く。一瞬、自分の質問はくだらなすぎて無視されたのかと思った。

「あ、ありますけど……、さやかがディズニー大好きなんで、一緒に観ました」

「あの城では食事が勝手に用意されるが、うちの別荘でもそのスタイルを採用している。君が着く頃には美味しいディナーが用意されている。心配するな」

 真顔でそう言い切ったので、思わず「へぇ、そうなんですね〜」などとこちらも真顔で答えてしまいそうになる。

 そんな訳あるか──。

 そう言いかけてやめた。真澄がそう言うのであれば、きっとそうなのだろう。そこにどんなカラクリや仕組みがあるのか、自分なぞが分かるはずがない。けれども真澄が言うのだから、それはきっと間違いないのだ。

「ローソクのルミエールが踊ってくれるの、楽しみにしてますからっ」

「そこまでの再現性はない」

「えー、じゃぁポット夫人とぼうやのチップは?」

「さぁ……、ティーポットとカップはあるが踊るかどうかの保証はない」

 そんなやりとりを延々と続けた。時々耐えきれずに目尻から涙をこぼして笑ったりしながら。

 ふと、とんでもない事にマヤは気づく。
 深い森の奥にその城はある。重厚な鉄の扉の向こう、荒れ果てた城の中には魔法をかけられ醜い野獣の姿にされた王子と、そして一輪の薔薇……。
 マヤの脳裏にガラスのドームに覆われた一輪の薔薇の姿が鮮明に蘇る。映画で観た薔薇は真紅のそれだったが、マヤの脳裏には紫の薔薇が映し出される。

「まさか……ね」

 思わずそんな独り言がこぼれ落ちると、訝しげにこちらを見る真澄と目が合う。

「な、何でもないです。早くつかないかなっ! お腹すいちゃった」

 そう言ってマヤは子供のように車窓の枠にしがみつき、外の景色に興味があるフリをする。
 ほとんど誰もいない高速道路を駆け抜けるメルセデスの車窓には、夜の東京の景色が流れるように通り過ぎていく。ボヤけたフィルム写真の残像のよう に、視界に不確かな情報だけを残して夜景は消えていく。ずっと後ろに切り離された都会の喧騒が、二人のいる世界に追いつく事はもうなかった……。









 夕方には東京を出たが、伊豆に着く頃には辺りはすっかり夜陰に包まれていた。

 ずっと海沿いの国道を走ってきたが、途中から街灯もない私有地の林の中へと車は入っていった。どうやらここは国道から外れた、岬の先端に位置するのだろう。
車を降りると、波の音が耳に届く。真澄以外訪れる人間がいないというのも頷ける静けさの闇の中に、建物の輪郭が浮かび上がる。
 玄関のポーチは灯されていて、その灯りを頼りに二人は歩いていく。

「中に誰か居るんですか?」

 灯りが点いていることをマヤは気にする。

「言っただろ。誰もいない。俺と君だけだ」

 これ以上聞いても無駄だともう分かる。到着する直前、真澄はどこかに電話を入れていた。きっとそこで全ての手はずは整っていたのだろう。勿論、ローソクの給仕係や置き時計の執事が居る可能性も、僅かだが残ってはいたが……。

 真澄に促され、別荘へと足を踏み入れたマヤは、思わず歓声を上げる。ダイニングテーブルには本物のローソクが燭台に灯され、柔らかな灯りが揺らいでい る。その灯りが照らし出すのは、真っ白なテーブルクロスの上に整えられた二人分のディナーセット。そして中央には一輪の薔薇──。
 息を止めてマヤは近寄る。
 近くまで来て、その色が紫であることを知る。

「気をつけろ、その燭台は踊りだすかもしれないぞ」

 呆然と立ち尽くすマヤに、真澄はそう言って笑いかける。

「むしろ大歓迎です」

 そう言ってマヤは真澄に笑い返す。問いかけるのは今ではない。
 今はただ……、真澄が用意してくれたこの時と空間に全てを委ねたい想いにマヤは包まれる。夜はまだ、始まったばかりなのだから……。









 キッチンには幾つもの料理が用意されていた。どれも少しだけ温め直せば食べられるように誂えられている。メインのローストポークに至ってはオーブンに セットされていて、四十分焼けば出来たてが食べられるという絶妙さだ。前菜だけは、すでに美しく彩り良くプレートに盛り付けられ、ゲストが座るのを待って いる。
 どう考えてもプロの仕業としか思えないクオリティで整えられたそれらに、マヤはただただ感嘆する。誰にも会わなければいいと言い切った真澄のあの態度から察するに、きっと全ては滞りなく用意されているのだろうとは思っていたが、ここまで完璧だとは思っていなかった。
 手際よく真澄がそれらにもう一度火を通すと、次々とテーブルの上へと料理が並べられていく。二人きりで食べる事を想定したのか、コース料理と言うよりは、二人分の大皿料理が幾つも華やかにテーブルに並ぶといった様子だ。
 
 真澄に促され、しっかりと手を洗い、うがいをしに行く。バスルームから戻ってくると、更に真澄が照明を調節したのか、より雰囲気のある灯りによって、ダ イニングテーブルの輪郭が室内に浮かび上がっていた。ローソクの燭台が早くこちらへいらっしゃいと、まるで誘うかのように……。

 真澄が選んでくれたシャンパンの栓が抜ける、ポンっという小気味の良い音が響く。溢れ出る細かな泡を纏った美しい液体が、細長いグラスへと注がれる。この世界の始まりは、いつだってこうして何かが溢れ出て始まったかのように。
 液面の縁とグラスの間に細かな気泡が連なり、まるで繊細な白い首飾りのようにグラスの内側を飾る。シュワシュワと泡が弾ける心地よい音と、グラスから漂う華やかな香りに、シャンパンの事など何も分からなくても、これが素晴らしい物なのだとさすがのマヤにも分かった。

「二十二歳の君に乾杯、誕生日おめでとう」

 グラスの向こうで穏やかに笑う真澄の声が、魔法のような夜の始まりを告げる。
 
 夜は一段と深くなり、寄せては返す波の音だけが二人を包む。

 この場所にたどり着くまでの道中、少しずつ街灯の数が減っていき、辺りから人の気配が消えていった事をマヤは思い出す。林の中へと確信を持って車は迷い込み、やがて森の最奥へと二人はたどりつく。
 断崖絶壁の岬の先端に佇む別荘の向こうには、そこがまるで世界の最果てであるかのように海が広がり、波は白く波頭を砕け散らしながら、何度も岸壁に打ち付ける。

 この夜は、二人だけ……。
 果てしなく、どこまでも二人だけ……。

 始まったばかりの漆黒の深い夜の闇が、確かにそう告げていた。









2020 . 2 . 26








…to be continued















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