ファインダーの外側


 
 美しいパリの石畳を歩く後ろ姿。
 カフェで物思いに耽る様子をガラス越しに捉えた一枚。
 日本とは全く違う間取りのアパルトマンの一室、カッシーナのソファーの上でくつろぐ姿。
 
そして鑑賞に耐えうる美しさを 誇る、横顔のアップ。

 ハミルと生活をともにするようになった亜弓がパリに居を移して一年が経つ。
亜弓の日常を不定期に綴る、パリからのインスタグラムは日 本でも大人気だ。そう頻繁に更新 する訳ではないが、逆にそれが姫川亜弓という女優のブランド価値を損ねる事もなく、憧れと羨望だけが人々の間では高まり、日本を離れていても誰も彼女の事 を忘れたりしない。
 
 マヤは久しぶりに見た亜弓のインスタグラムのページを覗きながら、忙しく指でスワイプさせていると、

「何を見ているんだ?」

真澄の声に驚いて思わずビクリと反応してしまう。真澄と居る時にスマホを開いたりなど、いつもなら絶対にしない。ただ、仕事の電話が掛かってきた真澄に離 席され、ポツンと残されたレストランの個室で、どうにもこうにも手持ち無沙汰でついスマホを開いてしまったのだ。

「あ、亜弓さんのインスタです」

 そう言って、まるでオシャレな写真集の並びのような画面を真澄に見せる。

「ごめんなさい、食事中なのにスマホ開いて。ただ速水さんいない間にメッセージの着信があって、亜弓さんからだったのでついつい開いちゃって、そしたら 『お誕生日おめでとう』って、わざわざ私の誕生日覚えててくれて……。嬉しくってつい返信してたら、そういえば亜弓さんのインスタ、って気になって開い ちゃったんです」

「別に咎めている訳じゃない。むしろせっかくの誕生日の席なのに、仕事の電話で席を外した俺のほうがナンセンスだった。すまない」

「いえ……、それは全然っ!!」

 慌ててマヤは胸の前で手を振る。多忙な真澄が自分なぞの誕生日の為に時間を作り、こうして一緒に過ごしてくれている事のほうがマヤにとってはとんでもな い事だ。真澄とつきあうようになって、もう一年以上が経っているはずだが、未だに信じられない気持ちと、どこか申し訳ない気持ちでいっぱいになる。
 席を外されたとしても少しも気にする事などなく、妄想に耽るか、芝居の事を考えるのが今までの自分だったが、疎いマヤの生活にもじわじわとスマホや SNSは入り込み、知らず知らずのうちにすっかり取り込まれてしまっている。僅かな空き時間で無意識に指が動いてしまう程度には……。
 インスタグラムのアカウントも持ってはいるが、女優・北島マヤとしてのオフィシャルなものではなく、好きな俳優や劇団、それから行きつけの弁当屋の日替 わり弁当の内容が知りたくてフォローしていたりする、閲覧専用の全くの個人的なアカウントだ。北島マヤと結びつくようなプロフィールや投稿もないし、上 がっている写真もテストであげた食べかけのラーメンの画像が一枚。すぐに消そうと思ったが消し方が分からなくて結局そのままだ。その後も特にこれと言って 発信したい事なぞある訳もなく、そのまま放置している。
つまりは亜弓のような映えるアカ ウントとは全くの対局にある、どうでもいいアカウントという事だ。

「亜弓さんのアカウント、めちゃめちゃオシャレだし大人気ですよね。フォロワー数も凄い増えてるし。速水さんも見てます?」

「一応彼女の日本での所属はうちだからな。仕事の資料として何回かチェックはした」

 スマートな動作で向かいの席に再び着いてナプキンを広げると、本当に仕事の案件にでも返事をするように真澄は答えた。真澄自身がインスタグラムに興味を 持つような事は、きっと百年経ってもありえないだろうとマヤはこっそりと笑う。

「私もインスタとかやったほうがいいですか?」

 思い切って、ずっと気になっていた事を口にする。真澄は一瞬真顔になった後、ありえないとでも言うように笑った。激しく咳込んで水まで飲むという、オー バーリアクションまでご丁寧に添えて。

「必要ない。女優というのは普段どういう生活をしているのか分からないぐらいにしておいたほうがいいんだ。役の邪魔になる事もある」

「でも、亜弓さん──」

「あれは別格だ。撮っているのもほとんどがハミル氏だ。言ってみればプロが撮った作品集のようなものだ。何でもないふうに見えるが、構図や採光など、やは りプロが撮るものはたとえiPhoneで撮っていても違う。加えて彼女の感性と美意識で切り取った、パリの日常の美しい一コマたちだ。人気が出ない訳がな い。さり気なさを装いながら、実に周到に計算され尽くしている。それに日本でもないから、個人情報や位置情報が即座にばれる可能性も極めて低い」

 真澄らしい分析にマヤは絶句する。すなわち、自分なぞが手を出せる分野では本当になかったという事だ。

「もっとも君の場合、いわゆる”映え”とは違う意味で人気になりそうな要素は確かにあるが、同じぐらいの高確率で炎上するのも目に見えている。やらないほ うが無難だ」

 そう言われ、ただただ納得するしかない。反論する気にもならない。元々やりたかった訳でもない。
 ただ……、同じ女優としてしたほうがいいのではないかと思っただけで、そんな事を思う事自体恥ずかしい事だったのだとマヤは赤面する。

「そ、そうですよねー。亜弓さんと私とじゃ、土台も違うし。あたしなんて、食べかけのラーメンとかアップしちゃいそうで」

(──すでにしてるし)

 そう言って笑いながら、あの食べかけラーメンの画像を必死に脳裏の隅に追いやった。
 笑いながら心のどこかでは、こんな自分が真澄と付き合っていて本当にいいのだろうかと、チクチクとした違和感が残る。今に始まった事ではないけれ ど……。

 ずっと……、
 いつだって思っている。

 ──こんな自分で真澄はいいのだろうか?

 誕生日の夜でさえ、どこからともなく際限なく湧いてくる劣等感が、体のあちこちにシミのように広がっていく。


 ふいに個室の照明が落ち、静かに開いた扉の向こうからロウソクの炎が灯されたデザートプレートがゆっくりと運び込まれる。炎が消えないよう、手のひら で覆いながら、まるで王様への献上品を差し出すような恭しい態度でウェイターがプレートをそっとマヤの前へ置く。

「誕生日おめでとう」

 ロウソクの向こう側で真澄が穏やかに笑う。先程までの後ろ向きな思考回路の続きで、自分ごときがこんな事をして貰っていいのかと、驚きと申し訳なさで身 動きも取れなくなる。

「撮ろうか?」

 そう言って真澄が手を差し出す。スマホを持ったまま固まってしまっていたので、それを寄越せと言っているのだと気づく。

「あっ、はい……、お願いします」

 マヤが真澄にスマホを手渡すと、慣れた手付きでウェイターがプレートの向きをカメラ側に変える。

 ピースはさすがにやめた。もう、子供ではないのだから。 
 かと言ってどうしたらいいのかも分からず、膝の上に置いた手をつい強く握りこぶしにしてしまい、肩が怒り肩のように前に出たのが自分でも分かる。誰に見 られているという訳でもないのに、いや、真澄だけが自分を見ているからこそ、上手く笑う事が出来ない。

「いくつになったんだ?」

 ふいにそんな事を聞かれ、引きつっていた頬の緊張が緩む。

「え? 23ですけど……」

「もう、チビちゃんじゃないな」

 その瞬間、真澄がシャッターを押したのが分かった。満面の笑みとまではいかないが、自分でも少し笑っていたのが分かる。”チビちゃん”という言葉に向 かって、つい脊髄反射してしまったかのように。
 悔しいけれど、真澄はこういった演出が上手いし、それをそうだとは感じさせないように、いつだってスマートにそうしてくれる。
 スマホを返され確認すると、亜弓レベルには勿論遠く及ばないが、自然に微笑む自分が居て、バースデープレートという誕生日の特別感もプラスされ、いい写 真に見えた。

「ありがとうございます……」

 もしも女優・北島マヤのインスタグラムがあったら、この写真をあげたりするのかな、などとありもしない事を脳裏で考えながら……。

「そうだ、速水さんも撮りましょう」

 そう言って、今度は真澄のほうに、両手で横に構えたスマホをくるりと向ける。

「俺はいい」

 そう言って顔を遮るように真澄は片手を振る。

「なんで?」

「逆になんでだ? 俺は誕生日じゃない」

「え、だって……、速水さんの写真欲しいし……」

 奇妙な間が出来たあと、真澄が吹き出すように笑った。

「だったら一緒に撮ればいいじゃないか」

 そう言ってウェイターを呼ぼうとするから慌ててマヤは更に声を大きくする。

「速水さんのソロショットが欲しいんですっ!」

 今度は顔を覆うように片手で頭を押さえた後、苦笑される。

「一枚だけでいいからっ」

「写真は苦手なんだ」

「知ってます。だから一枚も持ってないんじゃないですか。誕生日のお祝いだと思って、一枚だけっ! お願いっ!」

「ダメだ」「いや、お願いしますっ!」「無理だ」「そこを何とかっ!!」という不毛なやりとりを延々繰り返していると、ついに真澄がお腹を抱えて笑い出 す。

「君のしつこさもそこまでくると一つの芸だな」

 そう言って、諦めたように椅子の背もたれに体を投げ、口を拭ったナプキンを無造作にテーブルの上に置く。さぁ、どうぞ、とでもいうように両手を広げる ジェスチャーをして、こちらを見据えて静止した。

「やった!」

 そう言って、改めてスマホを構えて撮影ボタンを押したが、なぜかシャッターが作動せずパニックになる。いざ構えると上手くいかない”あるある”だ。

「ちょっと待って。もう一回、もう一回ちゃんと撮りますから」

 すでに体制を崩そうとしていた真澄をなだめて、もう一枚。今度は上手に撮れた。どう撮ったって、イケメンはイケメンだ。

「カッコイイ……」

 液晶画面を見ながら、思わず心の声がそのままダダ漏れると、呆れたように真澄が笑ってワイングラスを口にした。


 きっと真澄には分からない。
 女優だというのに、好きな人の前では上手な作り笑いも出来ないということも。自分の写真を見返す事なんて絶対にないけれど、今日撮った真澄のこの写真は きっとこの先何百回と見返すだろう事も。

 つりあっていない。
 それは分かっている。
 それでも自分はこの人が大好きで、凄く好きで、その誰にも負けないほどの強い好きという気持ちと、だからこそ自分なんかでいいのだろうかと不安に思う気 持ち、 その相反する二つの気持ちの間でずっと揺れている。

 真澄がすべてを犠牲にしてまで自分を選んでくれたあの日から……。







 真澄のマンションに一緒に戻った後も、つい、なんとはなしに亜弓のインスタグラムを見続けてしまった。ソファーの後ろに立った真澄が背後から画面を覗き 込む。

「また見てるのか?」

「えっ……、あ、はい……。つい止まらなくて……」

 マヤのスマホを上からそっと取り上げた真澄はソファーの前のローテーブルの上に置くと、

「少し話をしようか」

そう言って、隣に座った。
 ソファーの背もたれに肘を付いて、じっとこちらの顔を見つめられる。何を言われるのかと急に不安になるが、目を合わせない訳にはいかない。スマホという 武器も取り上げられ、丸腰になってしまった面持ちで、マヤはゆっくりと真澄に視線を合わせた。

「君が亜弓さんのような人に対して気後れしているのは分からないでもない」

 やはりそのことか、と見透かされたようでマヤは思わず俯く。

「でも彼女のインスタの写真達は単に”映えた”瞬間であって、彼女の人生はむしろそれ以外だ。例えば紅天女を手に入れる事ができなかった、それも彼女の人 生だ」

 ハッとしてマヤは顔を上げる。そんなふうに考えた事は一度もなかった。

「彼女はどこまでもプロとして徹底している女優だ。自分がもっとも美しく見える瞬間というのも熟知しているし、女優としての自分がどうあるべきかも幼い頃 からよく分かっている。そんな彼女の切り取られた一瞬と自分の人生を比べても仕方がない」

 何かにずっと振り回されていた。ずっと不快な機械音がカタカタと音を立てて、マヤを追い立てていた。その音が一瞬で止んだ。

「彼女だけじゃない、他の誰かの見栄え良く切り取られた一瞬と自分の人生を比べてもなんの意味もない。俺が君にSNSをやる必要がないと言ったのはそうい う意味だ」

 自分が思うよりもずっと深い部分で、常に自分の事を考えてくれている真澄の真意にこうして突然触れる事がある。今よりもずっと昔の幼い頃からあった。そ の たびに心が震えて動けなくなる。自分のそれまでの浅はかさと、そして真澄の思いやりの深さを突きつけられたように。

「そしてそれは君にしたって同じ事だ」

 言葉の意味が分からず、マヤは訝しげに顔を歪める。

「いつか誰かが、北島マヤという女優の人生について語る時が来るかもしれない。華やかな経歴、舞台、そしてスクリーンの上に残された君の軌跡は、眩く散り ばめられたアルバムのように一瞬一瞬は美しく残るだろう。でも俺は、それ以外の撮られなかった写真の中に君といたい。つまりは普通の君といる愛すべき普通 の日々だ」

 とても大切な事を言われているのだと分かった。マヤの目をしっかりと捉えて、迷いなく言葉を紡いでいくその瞳は、もう迷子になるなと言っている。

「人生とは美しいアルバムではなく、むしろ撮れなかった写真のほうだ」

 その瞳が静かにそう言い切った。

「芝居ではない君の笑った顔、上手く笑えなかった顔、怒った顔、泣いた顔、全部俺が記憶していきたい。ただの北島マヤとしての君の姿を、死ぬまでずっと」

 死ぬまでずっと──。

 真澄の紡ぐ言葉たちに重さが加わる。全身全霊で受け止めなければならないほどの重さが。

「結婚しよう」

 いつ用意したのだろう。まるで魔法のような仕草で、目の前にヴェルベットの小箱が差し出される。見たこともないほど美しい透明な石が静かに光っている。

「俺の撮れなかった写真と君の撮れなかった写真、2人分合わせればきっと幸せになれる」

 その言葉にマヤの中から抱えきれない想いが溢れ出す。
 自分なんかでいいのだろうか、女優である事以外はあまりに全てが平凡過ぎる自分をどうしたって肯定出来ずにいた。
 でもそのままでいいと真澄は言う。美しい写真に残る事のないほうの自分でいいと。

「はい……、あたしにもかっこよくない時の速水さん、見せて下さい」

 そう言って抱きつくと、何だそれは、と笑われた。

 ファインダーの外側で、お互いだけが知る笑顔がいつまでも広がっていった……。




 

 

 " Epilogue "





 その夜、左手の薬指にはめて貰った指輪が嬉しくて、つい写真を撮りたくなりスマホを手にしたマヤは、カメラロールを辿って叫び声をあげる。

「え、嘘、これっ、写真じゃなくて動画になってたっ!!」

 レストランで真澄のソロショットを撮りたいと押し問答をしていたそのやり取りが全て録画されていたのだ。写真を撮ろうと構えた瞬間、間違えてビデオモー ドでボタンを押してしまっていたのかもしれない。その後写真を撮ろうとして、上手く作動しなかった訳に今頃合点がいく。

 再生した動画では真澄はずっと笑っていた。

「速水さん写真写ってくれないし、全然笑ってくれないけど、でもこれすっごい笑ってる。楽しそうに幸せそうに笑ってる」

 驚くマヤの声に隣から動画を覗き込んだ真澄が、そのこめかみキスを一つ落とす。

「知らなかったのか? 君と居る時、俺はいつだって楽しくて幸せなんだ」






2021 . 2. 20



< FIN >







あとがき、のようなもの



マヤ誕は、とにかく!とにかく!マヤちゃん目線で、マヤちゃんの気持ちに寄り添えるようなお話を、と心がけていつも書いているつもりなのですが、どうしたって 自信がないマヤちゃんを速水さんが優しくやさ〜〜しく包むようなお話になってたら嬉しいです。

写真撮ってたつもりが動画だった、はドジっ子あるある、もしくはオカンあるあるだと思うのですが、マヤちゃんならやりそうだなーとw

食べかけラーメンは、勿論全部載せの味玉がかじってありますw

亜弓さんのインスタのホーム画面とかマジで目に浮かびます。超絶スタイリーッシュ!!ストイックにレッスンに励むレオタード写真は、勿論モノクロでブラ ボーハミルが撮ってるに決まってます。

……そんなどうでもいいディティールを想像するのが好きです。ワラワラといくらでも湧いてきます。(私の頭も常時湧いてます)

すぐそばで生きてる、令和のマスマヤ!!

感が出てたら嬉しいです。








”インスタとかは映えた瞬間であって、人生とはそれ以外 ”

というのは以前見た、川上未映子さんのインタビューで心に残ったもの。美しいもの、素敵なものを見るのは私自身大好きだけれど、忙しすぎて荒んだ生活をし ていると、あまりの今の自分との違いに逆に見るのが辛くなったりして、SNSとの付き合い方に自分自身が疲弊してた事に気づき、凄く楽になった言葉。
それをヒントにこのお話を書きました。



今年も大好きなマヤちゃんのお誕生日をお祝い出来て本当に良かったー。ネタ切れネタ切れの苦しい発作に毎年襲われるけど、いつも土壇場で何かしら出てくる から、やっぱりマスマヤって凄いわ。ラビュ💜






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