最終話

恵比寿駅の長い動く歩道『スカイウォーク』を降りると、夕闇の向こうに美しい城が浮かび上がる。都会の真ん中に完璧なバランスで立つその姿は、これから始 まる夜の魔法のような時間の舞台にこれ以上なく相応しい場所だとマヤは思う。

約束の時間は午後七時。
少し早めについたつもりだったが、エントランスロビーのソファーには真澄がすでに待っていた。
クロークにコートを預けるだけでも、これ以上ないほどに丁重にスタッフに扱われ、こういったサービスに慣れていないマヤはドギマギするばかりだ。

「ただいまお席にご案内いたします。こちらでお掛けになってお待ち下さいませ」

そう言われ、真澄の隣に案内される。大理石の空間が贅沢に広がるロビー。天井には煌びやかなシャンデリアが眩い光を放っている。

「今日は一階のラターブルを予約した。本来ジョエル・ロブションと言えば、ロブションが世界中で展開するレストランの中でも最高峰に位置づけられる、二階 のガストロノミーの事を指すのだが、今日は一階を君に見せたくてね」

そう言って真澄はいたずらっぽく笑う。この建物が一つのレストランだと思っていたマヤは、階層によってレストランも格も違うと聞いて、ただただ驚く。ちな みに三階は個室だけのフロアだそうだ。

「一階は何が特別なんですか?」

「見れば分かるさ。きっと君は気に入る」

勿体ぶった真澄のその言葉に、もう少しだけヒントを求めようとした瞬間、

「お待たせいたしました」

準備の整ったスタッフにそう呼ばれ、二人はラターブルへの扉をくぐった。

「あっ……!」

思わずマヤの短い歓声がこぼれ落ちる。
扉の向こうのその場所は、一面紫の壁に彩られた、世にも美しい空間だったのだ。絨毯やクロス、テーブルフラワーなどの小物類、その全てが紫の絶妙なグラ デーションでコーディネートされている。

「凄い……。紫のお部屋なんて、初めて見ました」

満足げに真澄が笑う。

「速水様、こちらでございます」

支配人とおぼしき男性スタッフが親しげに真澄に話しかける。サロンの奥の一角、ビロードの紫色のカーテンが開けられると、そこが今宵、二人のためだけ に用意された空間だった。

「素敵……」

例えて言うのであれば、まるで紫の薔薇のような溜息がマヤの口から零れ落ちる。

「お気に召して頂けて、嬉しいよ」

そうしてマヤの二十二回目の誕生日の夜が、まるで芳醇な香りを放ちながら夜陰に咲く薔薇のように、ゆっくりと花開いていく。







メニューの文章は何一つ理解出来な かったし、実際口にしてみても、いったいどういった行程を経るとこういった味や形になるのか、マヤには見当もつかなかったが、プレートをキャンバスに見立 てた、その芸術的な美の表現と、奥深い味わいの数々に圧倒される。

「信じられないぐらい美味しい」

その言葉ばかりを何度も繰り返したが、その度に真澄は穏やかにそっと微笑んでくれた。
もう一生、こんな素敵な夜は自分には回ってこないかもしれないけれど、それでもいい。そうまで思わせる、圧倒的な夜だった。


最後の一皿が下げられると、ふと目の前の真澄の視線を強く感じた。

「次はチビちゃんお待ちかねのデザートだ」

またからかわれたのかと、マヤは片頬をわずかに膨らませて抗議する。

「私の事、とんでもない食い気虫の底無し胃袋だと思っていますよね、速水さん。だいたい速水さんって──」

突然、個室の灯りが消え、マヤの抗議の声が遮られる。
次の瞬間、目の前に現れたそれにマヤは声を失う。
バースデーケーキの上には揺れるローソクの炎。

「誕生日おめでとう」

穏やかな低い声がそう告げる。

「知って……た……の?」

「心外だな。知らないとでも思ってたのか?」

「だ、だ、だ、だって──」

「ほら、ローソクがケーキに垂れる。消しなさい。消したら目を瞑って、願い事を唱えるんだ」

ロウが伝い始めた様子を見て、マヤは慌てて真澄の言う通りに火を吹き消す。そっと両手の手のひらを合わせ、人差し指を唇に押し当てる。

願い事──?
想定外のタイミング過ぎて、何も浮かばない。

(どんな形でもいいので、速水さんのそばに居られますように)

咄嗟に出て来た願いはそれだけだった。
ゆっくりと瞳を開ける。
目の前に差し出されたものに、息が止まりそうになる。

「これ……」

見間違えるはずがない。つい数日前に見た、HARRY WINSTONのジュエリーケースだ。

「誕生日おめでとう」

それが間違いなく自分への贈り物なのだと、言い含めるような真澄の穏やかな低い声がもう一度響く。
震える指先でジュエリーケースを開けると、あの美しいダイヤモンドの蝶がそっと息をひそめて待っていた。

「つけていいですか?」

真澄は無言のまま、ただ静かに頷く。
首の後ろで三回も留め具を開けたり閉めたりして、ようやくマヤはそれを装着する。鎖骨の少し下、その場所に蝶は帰って来た。

「ネックレス以外のプレゼントも車に置いてある。全て君へのプレゼントだ」

信じられない、とマヤは言葉もなく頭を左右に振る。

「私へのプレゼントだったなんて……。それならそうと言ってくれれば良かったのに……」

「君へのプレゼントだと言ったら君は遠慮して選んでくれなかった。そうだろ?」

マヤは曖昧に言葉を濁す。おそらくまぁ、そうであっただろうという事は間違いない。

「それにしても少しも気付かなかったのか? 普通気付くだろ」

そう言って、真澄は笑う。

「全然……、気付きませんでした」

「自分の誕生日が迫っていても?」

「忘れてました」

明らかに嘘を吐いたと思われる沈黙が横たわる。その沈黙に耐えきれなくなったマヤはついに観念する。

「嘘です。忘れてなんかないですけど、そんなの速水さんが知ってるなんて夢にも思わなかったし、そうやって思い出しても貰えないものを、自分で言うのも恥 ずかしくて言えなかった。ていうか、なんで私の誕生日なんて知ってるんですかっ?!」

気恥ずかしさも手伝って、ついつい抗議するような尖った声をあげてしまう。きっと真澄の目には、よく吠える小型犬のように映っているのだろう。

「タレント年鑑ってものがあるだろう。所属女優のプロフィールぐらい覚えている」

思ったよりも非ロマンチックな事を言われ、マヤは苦笑する。

「お仕事熱心な社長さんですこと」

「嘘だよ。君の誕生日しか知らない。覚える気もない」

明らかに今までのトーンとは違う、一段低い階層から聞こえてきたその声に、マヤは意識を掴まれる。

「今までずっと、いつも勝手な俺の好みを押し付けて来た。一度ぐらい、君が本当に気に入ったものをあげてみたくなったんだ」

「……今まで? いつも……?」

速水真澄からは何も貰った事はないはずで、その言葉の持つ意味にマヤは俄に震え出す。速水真澄としては貰っていない。けれども──。

「俺が紫のバラの人だ」

ついに差し出される紫のバラの花束。まるでこの紫の間でたった今咲き誇ったような、見事な美しい大輪のそれの登場に、マヤはいよいよ心臓が止まりそうにな る。

「最初は純粋に君の演技に心打たれた。ずっと見ていたい、ただそれだけの気持ちだった。偽りだらけの俺の人生の中で、君のひたむきな姿を見ると救われる思いがした。 ずっと見ていたかったんだ」

初めて触れる、紫のバラの人としての真澄の想い。その全てを受け止め、その全てを失いたくないとマヤは切に思う。

「だが、もう紫のバラの人としての贈り物はこれで最後にしたいと思う」

「え?」

思ってもみない場所とタイミングで、後頭部に鈍器を振り下ろされたような衝撃がマヤを襲う。

「君をずっと見ていたいという気持ち、いつしかそれは愛情に変っていった。十一も年下である事や、商品として見るべき女優であること、そして春さんの事……。いくらでも 君を諦めるべき理由はあったが、それでも俺は君を諦める事はできなかった。婚約もようやく解消でき、こうしてやっと一人の男として君の前に堂々と立てる」

そう言って真澄は立ち上がると、マヤの方へとゆっくりと歩み寄る。そっと身を屈め、俯くばかりのマヤの顔を覗き込むようにして語りかける。差し出された手 のひらには、一体いつ取り出したのか、もう一つのビロードのジュエリーケースがまるで魔法のように置かれていた。

「これは、速水真澄から君への最初の贈り物だ。時間は掛かったが、これが俺が本当にしたかったことだ」

最初の贈り物──。
その言葉が、先程の 『最後の贈り物』という言葉によって受けた衝撃を、対になるように癒す。

「君の小さな嘘を可愛いと思う。そうやって自分の誕生日を忘れたと言い、苦労して用意したチョコレートを、さっきそこで買ったなどと言って、わざとぞんざ いに渡す。君のその可愛い嘘に、俺は少しは期待したくなる。君こそが俺の特別な人だ。受け取ってくれるか?」

──指輪は特別な人にしか贈りたくない。

ヴァレンタインの日に、真澄を月の裏側ほどに遠く感じたあの台詞が脳裏に蘇る。

ジュエリーケースの中のダイヤの蝶がキラリと光る。まるで飛び立つ準備をするかのように。

「はい……。下さい……」

下さい、などと言う人がどこにいるだろうか。感動して取り乱すあまりに無骨な心の欠片がそのまま零れ落ちてしまった事に、マヤは酷く後悔するが、真澄は嬉 しそうに笑っていた。
促されて差し出した左手の薬指に、ゆっくりと蝶が移動する。まるで幸せのシンボルである青い蝶がそこを安住の地としたかのように、その薬指の一番奥でピタ リと蝶は動かなくなる。

「やっと手に入れた……」

そう言って、蝶を纏ったその指先に真澄がそっと口づける。

「愛している。今日が君と俺の新しい始まりの日だ」

そう言って今度はその唇に熱く口づけた。











< epilogue >


帰り道の車中で、思い出したように真澄に確認される。

「ところで君に貰ったヴァレンタインのチョコレートだが、あれは義理なのか本命なのか?」

「えええっ? 今、それ聞きます?!」

「大事な事だ。義理だったら倍返し、本命だったら三倍返しが妥当だと聞いた。どっちがいい?」

「ええっと、あの……、じゃぁ三倍返しでっ」


一ヶ月後のホワイトデー。
真澄から、まるで義理チョコのお礼のような軽さで渡されたそれを開けて、マヤは悲鳴をあげる。

中には三たびのHARRY WINSTONのジュエリーケース。
鎮座するのは、お揃いの二羽の蝶のピアス。

「は、は、速水さんっ! これ三倍返し違う! 百倍返し、ううん、千倍返しじゃないですかっ!!」

「本命は本命でも、奥さんになる人は大本命だから、そのぐらいしてもいいと思ったんだが」

涼しい顔でそう言われ、ホワイトチョコよりも甘い口付けを、また一つ落とされた。




2015.2.20





< FIN >








春コミ原稿の締め切 りも迫った、2月某日。原稿はまだ真っ白だっていうのに、私の脳内に

・義理チョコだったら渡せるかもしれない、の切ないマ ヤちゃんのモノローグから始まり、三倍返しお願いしますよー、の強がりか〜ら〜の〜、100倍返しをされちゃうヴァレンタイン→ホワイトデーの話



・他人へのプレゼント選びに付き合って欲しいというマ スの嘘の頼みに乗って、まんまと自分へのプレゼントを選ばされてしまう誕生日バナ

という二つのネタが降臨しました。

時間がない時ほど、ネタが降臨する、の法則。
くっそーーー!時間よ止まれ!!状態でしたが、もう萌えは止まらないので、必死で体内時計を止めて書きました。(死ぬよ)
2つ書くのはどう考えも無理、と思い、ドッキングという力技で一本に仕立て、無事妄想出力。間に合ってよかったー。

つい先日、ロブション ラターブルに行った時の脳内大爆発の妄想も大いに盛り込みました。(Blog参照 → 
ロブション行ってなかったらこのお話を書く事はなかっただろうから、行って良かった。元は取った。笑

突発的な連載でしたが、最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。こうして大好きなマヤちゃんのお誕生日を御祝いできて、本当に嬉しいです。

マヤちゃん、お誕生日おめでとう!!
幸せになるんだぞーーー!!(近所のおっさんの絶叫レベル)




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