第3話



「え……、あの──」

眠りの底からこちらの世界に引き戻された目の前の存在は、瞬きを数回して、その先の言葉を飲み込むと、たった今、自分の体に残された感触の正体を探してい る。その細い指先が自らの唇に触れる。それが夢の出来事か現実の出来事か、残された感覚の中に手がかりを探すように。

「い……、今、キスしましたよね?してましたよねっ?!」

現実の出来事と結論づけたようだ。

「チビちゃん──」

そのキスに込めた想いを語ろうと、身を屈めた瞬間、スーツの胸ぐらを掴まれ遮るような剣幕で叫ばれる。

「やだ!こんなのやだっ!」

キレのいい鋭利なカミソリで、瞬時に切り込まれたような鋭い痛みが走る。全くもって容赦がない。落ち着いて聞いて欲しいと言おうとすると、再びマヤの怒鳴 り声がそれを遮る。

「もう一回して下さい!初めてのキスだったんだから、寝ぼけててよく覚えてないとか嫌です。もう一回、ちゃんとして下さいっ!」

あまりに想定外の言葉に、真澄は言うはずだった言葉を忘れる。代わりに酷く無骨な、それでいてあまりに素直な心の声が零れ落ちた。

「いいのか?」

「もうしておいて今更何言ってるんですか?」

もっともだと思えるマヤのその言葉に真澄は小さく吹き出すと、体から緊張が抜け、もう一度その唇に触れる。そっと、優しく……。
先程の寝込みを襲ったキスとは違い、マヤの唇はガチガチに緊張していた。やはりきちんと説明しなければ、そう思い、真澄は唇をゆっくりと離すと、じっとマ ヤの瞳を見つめる。
ソファーに横たわったままだったマヤは、上半身を少しだけ浮かせ目線の高さを真澄にあわせ、同じ様に見つめ返す。
寝覚めのキスで興奮した様子が、徐々に落ち着いていくのが瞳の色から分かる。瞬間的に煮立った鍋のお湯が、火を止めれば静まっていくように。
残ったのは明らかな戸惑いとなぜ?という想い。

「どうして速水さんが私にキスするの?」

「君を起こしたかった」

現実的な意味で言っている訳ではないそれは、果たしてこの少女に伝わるだろうか。案の定、起こすんだったら揺すって起こせ、とでも言いたげな視線がこちら を見ている。

「君が大人になるのを待っていた。君がいつか俺の事を見るのを待っていた。そしていつか君が恋をするのを待っていた」

そうだ自分はずっと待っていた。
報われないと分かっていても、待っても無駄だと分かっていても、あるいは待つ事すら許されないと絶望しても、それでも心の奥底、揺るぎなく流れる深い河の 底で自分はいつも待っていたのだ。

「だが待っているだけでは駄目だと分かった。俺が生きているこの世界で、今こそ君と向き合いたいと思った。だから起こした」

その瞳が深い色を湛えて凪いでいる。今にも溢れ出しそうな何かを抱えて。その何かが零れ落ちる前に言わなければ、と真澄は思う。

「君が好きだ。ずっと好きだった。誰よりも何よりも大切に思っている」

「う……そ……」

言葉になるかならないか、呆然とするあまり、緩く開いたマヤの唇から僅かな音が零れ落ちる。言葉としてはさして意味を持たない、心の戸惑いの欠片が。

「嘘じゃない。夢でもない。現実の世界で、速水真澄が君を好きだと言っている」

「じゃぁ、もう一度キスして下さい」

またしてもマヤから飛び出す、唐突で斜め上を行く言葉に、真澄の戸惑いが眉間に現れる。

「私、起きたから、もう一度ちゃんとキスして下さい」

起きたと言い張る目の前の存在が、甚く真剣な眼差しでこちらを見ている。
起きた、とはそういう事なのか。
その磁力のような強い眼差しに抗う事は適わず、真澄は再びゆっくりとその場所へと口づける。先程の強ばった緊張は消え、ただ素直に受け入れようとしてい る、そういういじらしさが伝わって来る。
まるで10数秒、じっと何かを確認しあうような、もしくは大切な何かを交換しあうような、とても優しいキスをした。
再びゆっくりと唇が離れると、花が綻ぶようにマヤが笑った。

「うん、夢じゃない」

閉ざされていたはずの世界の扉がゆっくりと開く。

「私も速水さんが好き。ずっと好きでした」

ようやく眠りから覚めたそのかけがえのないその存在を、神様からの
生まれて初めての贈り物のように真澄は抱きしめた。










「ところで君、ここで何をしていた んだ?」

しばらくそうして居た後、ふと真澄は本来の疑問を口にする。

「何って……、あーーーーーーっ!!今何時っ?!」

奪う様に真澄の左手首を掴み、時計を見る。

「11時!まだ間に合う。ちょっと待ってて下さい!速水さんはソファーに座ってて!!」

そう叫んで社長室を飛び出して行ったかと思うと、隣の部屋からドタバタと音がした。ほどなくして突然部屋の灯りが落ちたかと思うと、扉の向こうに柔らかな 灯りを纏ったマヤが現れる。その両手には小さなケーキと数本の細長いローソク。橙色の灯りの向こうで、マヤの笑顔が柔らかく揺れた。

「ハッピバースデートゥーユー、ハッピバースデートゥーユー……」

最後にその歌を自分のために歌ってくれたのは、母だっただろうか。あまりにも遠い記憶すぎて、不確かな残像が脳裏で揺れる。

「ハッピバースデー、ディーア、速水さーん」

あの日の自分は笑っていただろうか。それとも義父の顔色を伺いながら、形だけのケーキにあるはずのないものを期待し、そして裏切られ、今後の人生への絶望 をすでに予感していただろうか。

「ハッピバースデートゥーユー」

悪戯に過去を彷徨う自分を、マヤの声が呼び戻す。

「願い事を心の中で3回唱えてから消すんですよ」

無邪気な声がそう笑う。

君が幸せでありますように。
君が幸せでありますように。
君が幸せでありますように。

そう唱えると、真澄は6本のローソクに息を吹きかけた。再び部屋は暗闇に包まれ、まるで魔法使いが消える時のしっぽのように、細い煙をくゆらせた。
一瞬、そのままマヤまで消えてしまうのではという訳の分からない子供染みた焦燥感に囚われ、真澄はマヤの両腕を掴むと、強引に口づける。
夢ではない、これは夢ではない、そう言い聞かせるように。

「は、速水さんっ!ケーキ、ケーキ危ないからっ」

ケーキを両腕に持ったまま二の腕を震わせながら、マヤが悲鳴をあげた。夢ではない事を目の前のその存在が教えてくれたので、真澄はようやく安心して掴んだ 両腕を放した。

「え〜っと、タイミング的にはおかしいんですけど、せっかくなのでやらせて頂きます」

ケーキをソファーの前のローテーブルに置くと、マヤはそばに置いてあったクラッカーらしきものを手に取る。握り締めたまま寝ていたのはこれだったのか。

「速水さん、お誕生日おめでとう!!」

一度に引き抜かれた3つのクラッカーは、ほぼ同時に賑やかな破裂音を轟かせる。飛び出した、金や銀のメタリックな細いリボンに真澄の指先がそっと触れる。 子供の頃に自分が触れたいと思った、色とりどりの華やかに見えた魔法は、存外薄く安っぽい程にペラペラとしていた。

生まれて来てくれてありがとう。
生んでくれてありがとう。

永遠に言われる事のない言葉と、永遠に言う事のない言葉を嘆くよりも、今自分の中に確かに生まれた一つの気持ちを真澄は告げなければと思う。
愛を囁くよりも勇気を必要とする言葉を。

「生まれて来て良かった……」

自分が生まれて来た事を良しとする事が、こんなにも苦しかった。

なぜ生まれて来たのか、
なぜ死ねなかったのか、
なんのために生きているのか。

愛を求める事を諦める事で、その問いと答えからも永遠に逃れられると思っていた。

「生まれてきて良かった。君に会えた」

もう一度、確かめるようにそうはっきりと口にした。
困ったようにその場所に立ち尽くしていたマヤがそっと歩み寄る。少し迷った後に、ソファーに座る真澄の頭を、ぎこちなくそっと抱きしめた。
その柔らかな腹部の温かみに、真澄はそっと目を瞑る。
遠い昔、確かに自分はこの温かな場所に宿った一つの命だったのだ。

「生まれて来てくれてありがとうございます。それから、速水さんを生んでくれてありがとう」

真澄は驚いて、その言葉の正体を見る様に、マヤを見上げる。

「もう会えないけれど、速水さんのお母さんに、生んでくれてありがとうございますって……」

不覚にも零れ落ちた熱いものをそっと隠す様に、真澄はその温かな腹部に再び顔を埋める。誰の声も届かない、体液と同じ濃度の水の中で、頑なに心を閉ざして いた自分。
けれども世界はこんなに温かく、美しかった。
彼女がいれば、それだけで温かく美しかったのだ。




「なんかちょっと悔しいんですけど」

切り分けたケーキの欠片を口に運びながら、やはり腑に落ちないという態度でマヤが呟く。

「何がだ?」

「サプライズをしようとしたのは私だったのに、驚かされたのは結局私っていう……」

「充分驚いたよ。想像してみてくれ。君がこの部屋に居るなんて気付かずに俺はこの部屋で2時間近く仕事をしていたんだぞ。君の髪の毛がソファーから僅かに 垂れているのを見つけた時の驚きは、サプライズなんてかわいいものじゃなかった」

確かにそれは怖い、ホラーだ、とマヤはクスクスと笑った。

「あ、水城さんにも御礼言わなくちゃ。凄い協力してもらったんです」

なるほど、だから水城は電話口であんな事を言ったのだと合点がいった。全てを知っている状況であれば、あそこでいつも通りに仕事をしている自分は明らかに 想定外のはずだ。

「残念ながら、速水さんはクラッカーで腰を抜かしてはくれませんでしたが、ケーキは美味しく食べてます」

携帯を取り出したマヤが、声に出してメールを打ち出す。笑いながら真澄は携帯を上から取り上げるようにして奪うと、

「報告は俺がするから君はいい」

そう言って、今宵何度目になるか分からない甘いキスをまた一つ落とした。









日付が変る頃、連休明けの再びの激務に備え、肌の調子を整える水城の元に一通のメールが届く。


”明日は今日の代休を取ってくれて構わない。夜遅くまでご苦労だっ た。
それから青い鳥は無事に見つかった。
ありがとう。”


しばらくその画面を凝視した後、水城は不敵に笑う。
何が代休だ。顔を合わせたくないから来るなの意味だとバレないとでも思っているのだろうか。
誰が休むものか。
その幸せに惚けた顔を見るためだけに、もう何年も、無理難題を突き付けられてもここで働いてきたのだ。


”分かりました。それでは明日9時に”


それだけ打つと、すぐさま電源を落としてベッドへと向かう。
ここ近年味わったことのない、深い穏やかな眠りが水城にも訪れる。




Happy surprise Birthday!

人生に幸せな驚きを──。




2014.11.06





< FIN >








久々の誕マスパロでした。読んで下さってありがとうございます。

誕パロは過去に何度も書き過ぎて、ぶっちゃけもうネタがナイナイなんですが、それでもなんとかひねり出しました。
ガラパロ界では完全なる盛典、公式行事として盆暮れ正月より大事な11月3日ですが、実は原作では誕生日に触れる下りはありません。
というわけで、誕生日を偶然マヤちゃんが知ったとしたら?のスタートラインから書き始めたお話でした。社長室でお祝い!はよくあるお話だと思うので、真新しいサプライズでもなんでもないのですが、真澄様の過去に光があたるお話になっていればいいなぁと。

夏に観た舞台の影響もあるのですが、最近の私はシャチョーの心情を想像するのが一番萌えるなぁ、ということ。
その昔はマヤちゃんの心情に沿った描写をする事が多かったように思うのですが、最近はシャチョーの幸せばかり考えてしまいます。
昔は確かに少女だったはずの私も、いつのまにやら立派なオッサンになったという事なんでしょうかね。ワハハ。

という訳で久しぶりのオンラインでのお話、それも短いけど一応連載。無事にお届けてできてホッとしています。
お付き合いありがとうございました。




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