開演前の劇場内のざわめきも、いつもより幾分華やいだ空気を帯びているのは気のせいではないだろう。場内には晴れ着姿の観客も目立つ。 恒例となった大都劇場の新春公演。初日であるこの日、一月二日の公演のチケットは、早々に完売御礼となっていた。 「亜弓さん、また奇麗になりましたね」 新春公演らしい、金の箔押しが表紙に施された豪華なプログラムをめくりながら、マヤは主演である亜弓の椿姫の姿にしみじみと感嘆の声をあげる。 紅天女の試演後、後継者として選ばれたマヤの紅天女の舞台を見届ける事なく、亜弓はパリへと渡っていた。様々な憶測が流れたが、角膜の緊急手術を受けた事 も、その視力を失う限界地点まで一時は達していた事も、極一部の関係者を除いて、全ては最後まで伏せられたままだった。 亜弓の希望で療養を兼ねて、数年単位でパリで生活したいとの申し出が所属事務所である大都芸能にあったというが、実際は『誰も自分の事を知らない地で、一 から自分をまた試してみたい』と、パリの小劇場を中心にひっそりと活動を再開していたというから驚いた。契約更新の際に、大都との契約を『ただし、日本国 内での活動に限る』と但し書きさせた事の意味に後から気付いた真澄も苦笑していた。亜弓らしい、と。 その後、国際派女優として上り詰めた亜弓の四年ぶりの凱旋帰国公演となるこの舞台。奇しくも十年以上前に大都の看板女優として、この新春公演で同じ演目 『椿姫』の主演を務めたのは、母親である姫川歌子であったが、今やその事を言う者も比較する者もいない。Ayumi Himekawaブランドの国際的知名度は、母親のそれとは比較にならない規模にまで成長したのだ。 つくづく亜弓らしい。マヤもまたそう思った。 そして自分もまたこの春、四度目の紅天女の舞台を迎える。 そして、この人の隣にこうして自然と座るようになって三年の月日が流れた。 「今年の紅天女公演は、亜弓君も滞在期間をあわせて観劇すると言っていた。とても楽しみだと笑っていたぞ」 「うわぁ……、亜弓さんに観られるって、私一番緊張するかもしれない」 「だろうな」 そう言って、もっともらしい顔で頷かれる。その過分に勿体ぶった表情の真澄と三秒間目を合わせると、二人は同時に笑い出す。何も言わなくても、言われなく ても、それでも大丈夫だ、君は君だ、そう言われたような安心感。三年の月日とは、そういった気持ちの流れに安心して身を委ねられる、そういう関係性が築か れるに十分な時間でもあった。 プログラムの演目解説を追っていたマヤの視界に、突然差し出された小さな異物。 「え?なんですか、これ……。お年玉ですか?」 明らかにジュエリーが入っていると思われる、その小さなベルベットの小箱にマヤは戸惑う。 「お年玉が欲しかったのか、君は」 「い、いえ、そんなつもりじゃ……」 からかうように笑う真澄に、誕生日やクリスマスでもないのにプレゼントらしきものを貰う意味が全く分からず、マヤの戸惑いは増す。真澄らしい冗談で、子供 扱いの象徴のようにお年玉でも貰ったのかと解釈しそうになったのは、そのためだ。 「確かに君にはお年玉のほうが似合っているかもしれないが」 そう言って真澄は柔らかな苦笑を一度浮かべると、開けてみろと促す。言われるままに、そっとジュエリーボックスの蓋を手のひらで包み込むようにして開け る。 途端に場内のライトが当たって、キラキラと眩い光が放たれる。 それはまるで王冠をミニチュアにしたような繊細な作りの指輪だった。ぐるりと一周するようにダイヤが上下二段に互い違いに配置されている。まるでレース 細工のような台座になるリングの部分も、どうやったらここまで金属を微細にカットできるのかと目を疑う程の美しさで、華美なものには気後れするマヤもその 繊細な美しさに思わず見惚れる。 「凄い奇麗……。華奢ですね、小指用?」 「ああ、そうだ」 そう言って真澄は指輪を手に取ると、マヤの左手の小指へそっとはめる。一体いつこの人は自分の小指のサイズを測ったのかと、ほとほと感心する程にサイズは ぴったりであった。 「ダイヤの数を数えてごらん」 「1、2……」 真澄の意外なその言 葉を訝しく思いながらも、マヤはゆっくりと指先を目の前で回転させながら、ダイヤの数を数える。 「12……」 言われた通りに数えたその数字が一体、何を意味するのか、マヤはゆっくりと真澄を見つめる。 やがて、改めてこちらを真っ直ぐに見つめる真澄から、低い落ち着いた声が静かに響く。 「今日で君と出会って十二年だ」 一瞬、あまりに遠い記憶に不意に連れ去られたような鈍い衝撃が、マヤの体内を貫く。目を瞑ってその衝撃に耐えると、体の奥深く、忘れかけられた部屋の扉が ゆっくりと開く。そうだ、自分はあの日、この場所で真澄と初めて出会ったのだ。 「開演十五分前、時間もちょうどこのぐらいだな」 そう言って真澄は、涼しげな顔で左腕のシルバーの時計に目をやった。 「忘れたのか?」 「わ、忘れてなんかいません。今思い出しました、ちゃんと。速水さんが凄いバラ柄のネクタイしてた事まで、今思い出しました。でも、十二年だなんて……、 そ、そんな中途半端な数字、覚えてられません」 気恥ずかしさも手伝って、ついそんな事を口走ってしまう。 「相変わらず君はつれない事ばかり言うんだな。だが十二という数字は君が思っている以上に重要な数字だ。全てが一周する、という意味もある」 「え?」 意外な方向から聞こえて来た真澄のその言葉に、マヤは声をあげる。 「一年は何ヶ月だ?」 「十二ヶ月……。あっ!」 驚いてマヤは目を見開く。 「当然、星座は十二星座だ。干支は?」 「十二支!あっ……」 「時計の針は何時間で一周する?」 「え……と、あの十二時間……」 自分で自分の答に驚くのも間抜けな話だが、本当に驚いてしまっているのだから仕方ない。 「英語の単位のダースも十二個だ。キリのいい、意味のある数だ」 「理詰めで攻めてきましたね」 「これのどこが理詰めだって言うんだ。まぁ、そんな事はどうでもいい。ただ……、君と出会って、今日で十二年だ。それは重要だ」 そう言って、たった今居場所を得た、十二粒ダイヤが光る、左手小指の小さな王冠に口づける。まるで王女への永遠の忠誠を誓う騎士のように。 婚約を破棄した真澄と正式に付き合うようになって三年。自分を驚かせる事が趣味だと豪語する真澄のサプライズには慣れて来たつもりだが、まさかこんな場所 でこんな事をされるとは思ってもいなかった。 対等に返せるような言葉は何一つ浮かばず、マヤは真っ赤になって俯くばかりだ。 舞台の幕が上がる。 このまま自分は、塩に溶かされるナメクジのように、この真澄という名の砂糖に溶かされてしまうのでは、そんな事をぼんやりと脳裏で考えながら、マヤはゆっ くりとその絢爛豪華な椿姫の世界へと引き込まれて行った。 「今日は本当にありがとうございました。亜弓さんとも会えたし、速水さんとも久しぶりに一緒に観劇できたし、それからこんな素敵な指輪も頂いちゃって、 2015年は凄くいい年になりそうです」 終演後、舞台の帰り道は余韻に浸りたいから、出来るだけ歩いて帰りたいというマヤの希望で、二人はゆっくり歩きながら日比谷公園までやってきた。正月の夕 方の公園には、ほとんど人影もなかった。 「十二年ってよく考えると凄いですよね。十二年前、私中学生ですよ。ほんとに子供。でもそっか、あの時の速水さんは今の私ぐらいの年だったって事か」 「そういう事になるな」 「そう考えるとちょっと意外。あの時は物凄くとてつもなく大人に見えたけれど、なってみると大した事ないっていうか、そうでもないですね」 「だから言っているだろう。君が言う程、俺はおじさんじゃないんだ」 そう笑って、頭をくしゃりと撫でられる。隣を歩きながら、悪態をついたり、真澄をからかった時にはいつもそうされる。分かっていて自分は、こうして安心し て真澄の隣を歩いている。今までも、そしてきっとこれからも。 「でも、もうほんとに贈り物は充分ですからね。ほら、日本語でも言いますよね。十二分に頂いてます、みたいなの」 数字の十二つながりで、そんな事を口走ったが、脈略があるのかないのか、よく分からない事を言ってしまったと、言った後に気付く。いつもの事だが。 「ああ、慣用句だな。余分なほどに完全にという意味で十二という数字が使われる事がある。十まで数えても足りない時、余分に十二まで数える習慣がある事か らきている」 「そう!だから、速水さんにはもう十二分に頂いてますから!」 まるで渡りに船のように、真澄のその解説に乗る。きっとこれで今日は、奇麗にまとまった、そんな風にひとり悦に入りながら。 しかし真澄の指先はもの言いたげに、繋いだ手の先の小指の王冠を辿るように指輪の輪郭をなぞり、そしてすぐ隣の薬指を執拗になぞりあげる。 「そうか?俺はまだまだ足りないぐらいだと思っているんだが。その証拠に、実はここにもう一つある」 そう言って、背広の内ポケットからまるでマジックのように、先程と同じベルベットのジュエリーケースが取り出される。 「え?」 あまりの事に、マヤは今度こそ本当に口がきけなくなる。ただただ信じられないものでも見るように、何度も視線をベルベットの箱と真澄の顔の間で往復させる。 「あれから三年だ。もう十分に時間は経った」 その言葉にマヤは息を飲む。 真澄の言う『あれから』とは、鷹宮との泥沼の婚約解消を指す。二人の間で、具体的にその期間や長さについて触れた事はなかったが、真澄が大都芸能の後継者 という責任ある立場の人間として、またこういった結果になってしまった事への紫織に対する禊として、自分と付き合う事になっても一足飛びに結婚へと話を進 めない慎重さに、マヤも勿論気付いていた。元々、自分は真澄と居られさえすればそれでいい、と思っていたのは噓偽りのない正直な気持ちで、結婚を望むな ど、そんな大それた事はそもそも考えられなかった。けれども時折真澄が口にしてきた 「この先もずっと一緒だ」 という言葉は、その言葉以上にマヤにとって疑いようのない永遠と信頼性を与えていた。 真澄が手のひらでジュエリーケースの蓋を開ける。一粒ダイヤの指輪がそっと輝く。 「俺は待った。言うなれば十二分に待った」 己の手のひらの中で、小さく震え始めたマヤの左手の指先を、真澄はゆっくりと持ち上げる。そっと静かに何もない薬指を親指でなぜる。 「待たせて悪かった。ずっとここを空けたまま、待っていてくれてありがとう」 そんな事はない、そんな事はない、真澄が悪く思う必要など、どこにもない。言葉にならない気持ちが溢れ出したように、マヤは大きく頭を左右に振る。 「結婚しよう」 新年のまっさらな澄 んだ空気の中に、飾り気のないその言葉はまっすぐに響く。 ジュエリーケースから抜き取った、凛とした輝きを放つその一粒の石を纏った指輪を、真澄は静かに薬指へとはめていく。まるでこの世の果てでようやく見つけ た宝の箱に合う、世界に一つだけの鍵をゆっくりとはめ込むかのように。 第一関節で少しだけ動きを止めた指輪は、やがて真澄の更なる慎重な動きによってゆっくりと奥深く、その輝きを纏うに一番相応しい場所へと落ち着いた。 その指先をマヤはかざすように目の前に掲げる。先程貰った、隣の小指の十二粒の王冠のリングが、一層の輝きを隣のダイヤに与える。まるで十二年間の全てが 今この瞬間を輝かせるかのように。 「十二年も私の事、見ててくれてありがとうございます」 かざした指先の向こうで穏やかに笑うその人の胸の中に、マヤはゆっくりと体を預ける。想いの全てを受け止めて貰うかのように。この人が居なければ、自分は こうして生きていられる事もなかっただろう。その想いが、真澄の胸の中で震える。 出会えた事、そして結ばれた事、全ては奇跡だ。 「これからも見ている。ずっと君を見ている」 とても自分一人では抱えきれない、溢れ出る想いの全てを真澄に預けるかのように、己の腕の中でしゃくり上げる愛おしい存在。その顎先に、真澄はそっと指を かけ上を向かせると、たった今放った言葉通りに濡れた瞳の奥を深く見据える。いつだって自分はこの瞳の中の情熱に、己の生きる希望を重ねるように強く惹か れてい たのだ。想いを遂げるまでに長い 年月を必要としたが、手に入れたこの幸せがあるからもう辛くはない。 「愛している。今までも、そしてこれからもだ」 惜しみない愛を注ぎ込む様に口づける。与えられる全てのものを与えたい、そんな想いが溢れ出る。 長きに渡る苦悩と絶望の時代を経て、それでも絶える事なく秘め続けた愛が、こうしてようやく一つの円を完成させる。 どこが始まりで、どこが終わりかも分からないその丸い円は、永遠の愛の証。 もうどこも欠ける事なく、 どこも綻ぶ事なく、 どこも切れる事もない、 その余分なほどに完全な円の中で、 深く満たされた二人の愛は、 ただ静かに、 穏やかに、 まるで輪廻のように永遠に繰り返されて行く。 ──いつもあなたを見ています。 2015.1.7 < FIN >
今日でESCAPEは12周年です。 12年前の0時0分。マスマヤへの溢れる愛をダダ漏れさせながら、”日常からの現実逃避”という意味を込めて、ESCAPEはオープンしました。 あれから12年とか、ほんとに驚きます。まだこんな事やってる自分に。苦笑 いつも言っている事ですが、12年間ずっと続けてきた訳ではなく、止めたり消えたり、病んだり消えたり、それでも完全にはやめる事は出来なくて、そうして 12年、ついに一周してしまいました!(白目) 12年前から見て下さっている方も、途中ちょくちょく見てて下さった方も、つい最近迷い込んでいらっしゃった方も、本当に本当にありがとうございます。沢 山の方に支えて頂いて、ここまでやってこられました。 まさに一周回って、原点回帰で、今、萌えが盛大に復活している自分はとても幸せで、嬉しくて仕方ありません。こんな日がまたやってくるとは、枯渇期の自分 からは考えられませんでしたから。 これからも力の限り、原作を応援して、いっぱいいっぱいマスマヤで萌えて、二人を愛でていきたいなーって思っています。それ以上でもそれ以下でもない、ほ んとそれだけの気持ちです。二人の幸せほど尊いものはアリマセンっ! そんな12年分の感謝の気持ちを込めて、このお話をマスマヤ大好きな皆様へ捧げます。本当に、いつも今までも、ありがとうございました。 これからも、見てて頂けると嬉しいです。テレ。 励みになります!
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