そんなあなたに恋をする 1
贅沢な悩みだと、真澄は自分でも思う。
紫織との婚約解消に纏わる全ての騒動さえも、めくってしまったカレンダーの出来事となった今、正々堂々とマヤの恋人として振舞うことの出来る自分の、贅沢な悩みだと……。



二人が正式に付き合うようになって一ヶ月。
忙しいのはお互い様が口癖にはなりつつあるが、お互いに時間をやりくりし、共に過ごす時間を出来るだけ作るようにしている。
もっと側にいたい、とか
もっと甘えて欲しい、とか
もっと好きだと言って欲しい、とか
もっとキスだってしたい、とか、
出来ればもっと二人の仲を進展させたい、とか
どれもこれも、大都芸能の鬼社長で通ってる真澄の口から正気で出せる言葉ではなかった。
けれども冗談ではなく、時々思い知らされること。

自分ばかりが愛している……。

決してマヤの自分に対する愛を疑っているわけではなかった。むしろ、その逆で一生懸命でひたむきなそれを、この上なく愛おしく思う。
けれどもそういった大人の分別やら余裕とは別の場所で、異常なまでに膨れ上がる嫉妬心とか束縛心とか猜疑心といった、あまり大声では他人に言えない種類の感情を真澄は持て余す。
どう考えても、自分の愛情がマヤのそれを上回ってしまっているのは明らかだった。お互いの愛情を秤にかけて、重さを比べているわけではない。そんなことではない。いや、そうではない、と信じたいのだが……。
マヤと言えばその存在は、この現代の奇跡と言えば聞こえがいいが、どうして今時!と拳で時々机を叩きたくなるほどの、純粋培養である。奥手というか、あまりに知らなさ過ぎるというか、いやはっきり言ってしまえば、蛇の生殺しに近いほどの残酷な純真さを持ち合わせている。かと言って、マヤが自分と付き合う前に何もかも経験済みであった、などとなった日には真澄は恐らくこの世に生きてはいられなかったのではないかとも、本気で思うのだが……。
大人の営みに対して、マヤがどうも尻込みしているというのは、真澄にも充分理解できることであるし、またそれに対して焦る必要もない、とは分かっている。けれども、それとは全く別の次元の問題、例えば『気持ちの問題』さえも真澄の幸せを脅かす充分な不安材料となっていた。
幸せの陶酔の合間にふと、心の隙間に入り込んでくる色のないシミのようなその存在は、楽しかった一日の終わりに突然真澄を襲ってきたりする。
例えばこの間、デートで一日連れまわし(それは本当に楽しい一日ではあったのだが……)家まで送り届けた際のことである。
別れ難い気持ちもあった。
下心はないつもりだが、もしかしたら”家にあがってお茶でも一杯”などいう古典的な台詞を聞けるのでは、なぞとマヤに期待した自分がバカだったのかもしれない。
そんな芸当は無理だとしても、一日を共に過ごし、ぐっと縮まった距離を感じていた真澄にしてみれば、別れのキスぐらいあったって良かったのでは、と思うのである。

「じゃぁ…」

「うん…、じゃぁ…」

車はとっくにマヤのアパートの前に横付けされている。いつまでもここでマヤを引き止めておく理由はもうなさそうだ。

「電話する」

「あ、はい…、してください」

「そういう時は『私もします』って言うんだ」

「え?あ、そうなの?じゃ、じゃぁ、します。電話、絶対します!」

真澄の苦笑とマヤの照れ笑いが作る、居心地の悪いような、間の悪いような沈黙が数秒。

「あ、えっと、じゃぁ、降りますね…」

わざわざそんなことを宣言しなくてもいいのに、マヤがそう言った瞬間、真澄は助手席で俯くマヤの唇にそっと自分のそれを重ねようとした。が、何を思ったのかマヤは嵐のような勢いであっという間に、扉を開けてドアから滑り降りてしまった。
瞬きを数回しながら、呆然と思考回路を整理し、真澄は何が起こったのか理解しようとする。

……逃げられたのか……。

キスが嫌だったのか、それとも何か自分が間違いを犯したのか、真澄はマヤの残り香が薄く漂う車内で思考をめぐらせる。
けれども、結局答えは分からなかった。
11も年下の、それも今時めずらしいほどの天然純粋培養の少女の考えることなど、所詮自分などには分かりえないのでは、と胸のあたりがしわりと軋んだ…。






初めて二人がキスをした時でさえ、真澄の心臓はまるで初恋の痛みにぐしゃりと潰れるように震えたものだ。

2週間ほど前、夜桜散策にマヤを連れ出した時のことである。

外人墓地の近くにあるその桜並木は、住宅街の近くということもあって、都内の有名な桜の名所にありがちな花見の酔っ払いの喧騒から切り離され、すれ違うように行き交うカップルがその夜桜の美しさにため息をこぼす。

「速水さん、すごい組み合わせだと思わない?」

相変わらず、脈略もなく唐突に発せられるマヤの言葉は、根気良く続きを引き出してやらないと理解の域まで達することは出来ない。

「なんとなんの組み合わせがすごいんだ?チビちゃん」

どうして分からないのかというような一瞬驚いたような表情でマヤは見つめ返す。

「え…、満月と、夜桜と、速水さん…」

真澄はますます訳が分からないという顔で更に続きを促す。

「その組み合わせの何が、すごいのか?」

決して意地悪をしているわけではないのに、まるで自分が問い詰めているようで真澄は嫌になる。意地悪をされてるのは自分ではないかと思うほどなのに…。

「あの…、キレイでしょ、3つとも…。こうやって見てて、3つとも凄くキレイ…」

そんなことを真顔で真剣にこちらの顔を見て言われるのだから、たまったものでない、と真澄は思う。
ひらひらと舞い降りた、白い桜の花びらがマヤの髪の網にかかる。

「マヤ…」

そう言って、そっと指先を花びらへと伸ばした瞬間、今ならばしてもいいのではないか、と不思議な確信が真澄を捉えた。

「花びらが…」

そういって指先が髪の間に入った瞬間、薄く、マヤが震えたのが真澄にも分かった。大きく目を見開いて、一心に真澄を見上げるの視線に真澄は吸い込まれるように、唇を近づけた。髪の間に差し込まれた指は、そのまま頭を押さえ込むように包む。

ほんの一瞬、唇が触れただけで、まるで大罪を犯したようにマヤの吐息が動揺したのが真澄に伝わる。唇だけ離したあと、そのままの距離で目をやると、マヤはずっと目を開けたままでいたようだ。

「目を、閉じて…」

そう言って優しく、髪に触れている手とは逆の手で、真澄はマヤの瞼を落とした。積極的なそぶりは見せないが、それでも抵抗するわけでもないマヤのその唇に、真澄はもう一度自らのそれを重ねる。
幸せなはずなのに、喜びであるはずなのに、おかしいぐらいに心臓が痛んだ。

強引なまねはせず、ただ重ねただけのキスだったが、一度目よりも長く、その柔らかい唇の感触を自らの皮膚が覚えたころ、真澄はそっと唇を離した。
マヤは何か言いたそうに、黒い瞳の内側を揺らしたが、半開きになったその口元から言葉のかわりに、短く息がこぼれただけだった。
二人の間の空気が揺れる。
何か、言わなければ…。
そんな思いが真澄をとらえるが、結局、何を言ってもふさわしくないような気がして、ゆっくりと指を髪の間から引き抜くと、マヤはぷいとそのまま横を向いてしまった。

何もかもがぎこちない。
11も年上である大人の分別など、この少女の前では脆(もろ)くも崩れ去る。
まるで初めての恋でもしたかのように…。
キスを一つしただけで、とんでもないことをしでかしてしまったかのような心境になる自分自身に、真澄は苦笑する。

重症だ…。

自分でもそう思う。

ようやく気持ちが通じ合ったというのに、ようやく何も二人を阻むものはなくなったというのに、こんなに不安な気持ちでいる自分が信じられないぐらいだ。

それほどに恋焦がれた女なのだから…。

そう言い聞かせてみる。

手に入れることなど出来るとは思っていなかった女なのだから…。

どれほど言い訳をしてみたところで、
”自分が思うほどにはマヤは自分のことを思ってはいてくれないのでは”
という不安のさざ波が真澄の体内で治まることはなかった。






「あ…、はい。その日だったら空いてます」

赤い皮の手帳の見開きのカレンダーのページを、マヤは人差し指で辿りながら、真澄の告げた曜日に何も入っていないことを確認して答える。

「当たり前だ。俺が空けさせておいた」

真澄のその自信に満ちた答えに、マヤは手帳から顔を浮かせて驚く。社長室の革張りのソファーはいかにも、という大きさと威圧感で、その中心にちょこんと座っているマヤは本当に小さな子猫のようだ。

「その日から3日間が今年の俺の唯一の夏休みだ。だから、君の休みもそこにぶつけておいた」

デスクの向こうの真澄はゆっくりと紫煙を立ち昇らせながら、そう言い切る。マヤは言葉もなく、驚いたまま瞬きを数回したまま固まる。

「旅行に行こうと思ってる。3日だけだから、そう遠くへは行けないが…」

予想外の真澄の言葉にマヤは、今度は口をポカンと開ける。

「旅…行?」

もっと笑顔で喜ばれると思っていた真澄は、鈍い反応を示すマヤに対して軽いショックを覚える。タバコを灰皿で揉み消すと、ゆっくりとソファーまで近づき、マヤのすぐ隣に腰を下ろす。

「あまり行きたくなさそうな顔だが、嫌なのか?」

大人げないとは分かっていても、否定の言葉を引き出したくて、つい意地悪な口調になってしまう。すると、マヤは今度こそ驚いたというような顔で、弾かれたように喋りだす。

「どうして?どうしてそんな言い方するの?行きたくないなんてこと、あるわけないじゃないですか!
ただ、ちょっとびっくりしちゃったんだもん。だって、速水さん忙しいの分かってたし、そんな『夏休み』なんて言葉、速水さんの辞書にあるなんて思わなかったんだもん」

真澄の胸元に掴みかかるほどの勢いでマヤは必死にまくし立てる。
そんなマヤの頭を優しくなでながら、真澄は言う。

「去年まではなかっただろうな。夜桜も、クリスマスも、日曜に休む、なんて言葉も俺の辞書にはなかっただろうな」

そういって、髪をなでながら、額のあたりに一つキスを落とす。それだけのことなのに、一瞬にしてマヤが熱くなり赤くなったのが、ぐらりと揺れた空気を通じて伝わってくる。

「君のせいだ…。最近の俺は、辞書のページを増やしてばかりいる…」

そう言って、俯いたままのマヤの頬にそっと手をかけると、瞳の中を覗き込むように目を合わせる。すでにマヤの瞳は不安気に揺れだしてる。
途端に真澄は自信がなくなる。
ここでキスをしていいのか、それとも、そんなことをしたらこの子は逃げ出すのではないか、と。

大の大人が何を戸惑う!

そう、自らを奮い立たせ、迷いを捨て、唇を重ねる。
またもや心臓が掴まれたように痛いのも、もはや慣れたしまった心地よい痛みのように真澄を痺れさせた。ソファーという柔らかい素材の上で、覆いかぶさるようにマヤに口づけているという状況が、嫌でも真澄の神経を昂ぶらせる。自然ともう片方の手のひらをマヤの小さな肩の上に置くと、その小さな肩がビクリと震えた。頬にあてがった右手をゆっくりと動かし、そのまま髪の間を滑らせる。
自然と、昂ぶっていく気持ちと情熱を織り込んだようなキスになっていく。どこかで、そんなことをしたらこの小さな少女は怯えてしまう、そう警笛を鳴らす自分も居たが、火のついてしまった導線はあっというまに、その身を短くしていく。

自分の腕力にものを言わせ、反撃の言葉が突いてでないよう唇の自由も封じ込め、あっという間に真澄はマヤを自分とソファーの間に閉じ込めてしまった。
もしかしたらマヤは震えているのかもしれない。
恐がらせてしまっているのかもしれない。
けれども、震えているのも怯えているのも、実は自分の方であり、そんな自分の臆病な姿を見たくないがあまりに、強引に押し倒してしまった。
ソファーの上で散らばるように広がったマヤの髪が、真澄の動悸を上げる。そっと、首元の髪を掻き分け、その白い首筋に唇を這わせた。自由にしてしまったマヤの唇から、何か抵抗の言葉が出るのを恐れつつ…。

その瞬間、予期してなかったような種類のマヤの言葉が真澄を刺す。

「ああっ!!仕事っ!!あたし、仕事あるんですっ!!
遅れちゃいますっ!! た、た、大変っ!!」

調子の外れたような妙な音程の叫び声は、いかにも舞台を降りれば大根と言われる、マヤのものであった。一瞬ひるんだ真澄の隙を付いて、マヤは飛び上がると、

「ご、ご、ごめんなさいっ!
あ、あ、ありがとうございましたっ!
失礼しますっ!!」

と意味不明にまくし立て、あっという間にドアから飛び出して行ってしまった。

……またしても、逃げられたか……。

今日はもう仕事などないのは真澄は知っていた。だからこそ、こうして社長室へと呼びつけたのだ。自分も適当に仕事を切り上げ、どこか食事にでも行こうと思っていたのだ。
呆然と取り残されたようにソファーの上に腰掛けたまま、真澄は両手で髪を掻き毟る。

と、ソファーの下に落ちていた赤い物体が目に入る。
押し倒してしまったときに、マヤの手からこぼれ落ちたのであろう、マヤの手帳であった。なんとはなしに、ページが見開かれたまま落ちているそれを拾い上げた真澄は、見るつもりなどなかったのに、ちょうど開かれていたページにぎっしりと書き込まれていた文字をつい追ってしまった。
月のカレンダーではなく、手帳の後ろの方にある曜日ごとのその1ページ、1ページにぎっしりと書き込まれた小さな文字に真澄は釘付けになる。 その日の予定などではない、仕事のスケジュールをこんなにびっしり小さな文字で書くわけがない。
それは、それは……。

マヤの日記であった。

勝手にそんなものを見てはいけない。脳裏の奥のほうで、かすかにそんな警報も聞こえたが字面を追い出してしまった真澄の目線は、止めることができなかった。


5.10.2003








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