| 天使が堕ちた夜 14
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ひんやりとした空気が痛いほどの静かな廊下。手術中のランプだけが不気味に煌々と辺りを照らし出し、誰もいない廊下のソファーの上でマヤは何度も意識を失いそうになる。
目を瞑ると、世界が一瞬にして反転してぐらりと視界が揺れたあの映像と、美しい真澄の顔にべっとりとついた赤黒い血の映像が、順番に浮かび上がり、マヤは慌てて目を開ける。鼓膜を破るような、あのブレーキ音と、その一瞬前に聞こえた、 『マヤっ!!』 という真澄の叫び声が、どんなに耳をふさいでも、繰り返し、繰り返し、耳の中にこだまする。 体の震えも、どこから襲ってくるのか訳のわからない寒気も、今はもうそれを感じる神経さえもどこにも残されていなくて、ただ、だらりと両手を下げたまま、廊下のすみに押し付けられた、ベージュの革張りのソファーの上に体を沈めていた。 俯いて廊下の床をただじっと見詰めていたその視界の中に突然飛び込んできた、見覚えのある素足。心臓を掴まれたように、マヤはハッとしてその主を見上げる。 大きな大きな白い羽…。 キレイな女の人だった…。 (こんなにキレイな人は見たことない…) その不思議な透明な美しさに、マヤは圧倒される。 「へぇ…、やっぱり見えるんだ、あたしのコト」 不似合いな砕けた日本語がその口から飛び出してきて、マヤはびっくりする。 「普通は見えないんだけどねぇ、昨日も見えたみたいだから、ちょっと焦ったんだけど、まぁ、見えちゃったものはしょうがないわよね…」 ひとり言のように呟くそれに、マヤはどう答えていいのか分からない。喋っていいのかさえもわからない。声がちゃんとまともに喉から出てくるのかさえわからない。 「やっぱり、あなた達、フツーじゃないのね。フツーの人間があたしのコト見えちゃうなんて、フツーじゃないもの…」 『フツー』という言葉を3連発もされ、マヤは『フツー』の意味が分からなくなる。 「あ、あの…」 喉に張り付いてしまったその声は、掠れながらもなんとか音を発する。 「?」 少し口角をあげた表情で、天使がそれに答える。 「あなたが、速水さん、連れていっちゃうの?どうしても、連れてっちゃうの?」 縋るようなそのまっすぐな瞳に、天使は気の毒そうな表情を浮かべる。 「…ごめんね。これは決まりなの、あたしは決まりに従って、お仕事をするだけだから、あたしにはどうにも出来ないの…」 最後の望みに突き放されたと分かった瞬間、マヤの体温が下がる。 「…願い事…」 ぽつりと出たその言葉に、天使が訝しそうに表情を変える。 「願い事一つ聞いてくれるんですよね?…あたしが死ぬ一週間前に、やっぱり誰かがあたしに『一つだけ願いを叶えてあげる』ってやってくるんですよね? もう二度と現れてくれなくていいから、願い事は他には何にもいらないから、今すぐここであたしの願い、聞いてくれませんか?」 その切迫した勢いに押され、天使は思わず答えてしまう。 「…出来ない事もないけど…、あなたの願い事にもよるわね。とりあえず、言ってみてよ」 そう言って、マヤの方に身をかがめる。 「あ、耳もとで誰にも聞こえないように、囁いてね。誰も居なくっても…」 長い髪を耳のうしろに掛けると、形のよいきれいな耳をマヤの口元に突き出す。 深呼吸を一つしたあと、マヤは一生に一度だけの願い事を天使の耳に囁いた…。 ![]() 気が付くと、横たわる自分を見つめるもう一人の自分。どちらが本物の自分かといえば、とりあえず視界に入るのは、横たわり、執拗に体中を切ったり縫ったりされている自分のほうだから、今こうしてそれを見つめているのは、抜け出してしまった魂だけの自分なのだろうか…。 幽体離脱などという言葉を聞いた事こそはあったが、実際それを目の当たりにするとは、思ってもみなかった。痛みはなにも感じなかった…。 「変な気分でしょ…」 いつの間にか、隣に立っていた天使の声に真澄は驚く。 「ああ、死ぬほど変な気分だ…」 「これから死ぬ人の台詞とは思えないわね」 天使は可笑しそうに小さく吹き出す。 「彼女は…、彼女は無事か?」 色を失ったような真澄の静かな瞳が尋ねる。 「大丈夫よ…、擦り傷程度。心はともかく、体はぴんぴんしてるわよ」 真澄は安堵の息を吐き出すと、目を閉じる。 「俺は意識も戻らないまま、このまま死ぬのか…」 「…その予定だけど…」 「そうか…」 否定するわけでも、抵抗するわけでもなく、真澄はただ一言それに答えた。 「…命乞いしないの?」 試すような天使の口ぶり。一瞬、その真意を図りかね、真澄の眉間に皺がよる。 「しても無駄だろうが…」 「よく、分かってる…」 冷静な真澄の口ぶりに、天使は小さく笑う。 「一つだけ聞いていいか?」 天使はその問いには答えず、ただ真澄を見つめ返す。その沈黙を肯定と受け止め、真澄は喋りだす。 「君が一週間前に俺の前に訪れた時、君は言った。俺の死に方が、あまりと言えば悲惨だし、今の状況も悲惨だから、特別に来てやった、と。 俺は本当はどういう死に方をするはずだったんだ?君に願いを叶えてもらわなかったとしたら、どういう結末が俺を待っていたんだ?」 天使は一瞬、視線をぐるりと一回転させたあと、覚悟を決めたように、言葉を選びながら話し出す。 「あなたは、彼女に強烈な片思いをしていました。 結婚を前にどうしても、一度だけ彼女に気持ちを伝えたくなって、今晩彼女のアパートを訪ねます。 アパートの前まで来ると、コンビニから飛び出してくる彼女を見つけます。 あとは全部同じよ。 ただ、違うのは、あなたは彼女の気持ちを知らないまま、そして彼女もあなたの気持ちを知らないまま、死んでいくの。 それが違いよ…」 鉛のような重い沈黙のあと、真澄はフッと小さく笑う。 「幸せな一週間だった…。 もし『気持ちの通じない一生』とこの『気持ちの通じ合った一週間』のどちらかを選べといわれたら、俺は間違いなく後者を選ぶだろう…。 悔いはない…。 ただ…」 そこで真澄は一度、言葉を切ると、まっすぐに天使を見つめる。 「彼女を守ってやって欲しい…。俺の変わりにずっと守ってやって欲しい…。お願いだ…」 天使は無言でしばらく見つめ返す。そして、呆れたようなため息を一つ…。 「あなた達ってホントによく似てるのね。自分のことより、相手の心配ばっかりして、ホント、嫌になるくらいそっくりよ」 乱暴にそう言うと、後ろ手に回した手をゆっくりと前に持ってくる。差し出された両手の上には、二つの光の白い玉が乗っている。一つは今にも消えそうで、そしてもう一つは眩いばかりの光を放ってる。 「はい、これ彼女の命。 あげるって」 そう言って、天使は眩い光を放つ方の玉を真澄の目の前にかざす。 「なっ?!」 真澄は驚きのあまり、言葉も出ない。 「彼女ね、自分も死ぬ前に一つ願いを叶えてもらえるのであれば、その時には何にもお願いしないから、今、一つ願いを叶えて欲しいって言ったのよ」 「…彼女の…願い事?」 掠れる声を振り絞って真澄は、言葉を発する。 「『あたしの命を速水さんにあげてください』だって。ホントにいい子よね〜。ここまで思われて、あなたホントに幸せものね」 そう言って真澄の目の前で、眩い光の玉を揺らしてみせる。 胸が熱くなる思いは、ただちに襲ってきたマヤの命を奪ってしまうことへの恐怖に掻き消される。 「やめろ!それだけは、やめてくれっ!!」 激しくそう叫ぶと、懇願するように天使に詰め寄る。 天使はそんな真澄の緊迫した表情には似つかわしくない、笑みで答える。 「大丈夫よ、彼女の寿命、ご長寿記録更新しちゃうほどの長さだったから、二人で割っても充分長生きできるから」 そう言って手のひらの二つの光を一つにすると、再び二つに引き離す。再び二つに離れたその光の玉は、均等な大きさと均等な眩さで、その向こうに天使の穏やかな笑顔を浮かび上がらせる。 「ぴったり半分に分けてあるから、死ぬ時は、秒針まで一緒よ」 そう言って、大事そうに2つの光の玉を羽の下にしまった。 あっけに取られて口を開けたまま、呆然と立ち尽くす真澄に天使は更に付け加える。 「ホントはねぇ、こんな事やっちゃいけないんだけど、あなた達は例外。なんか、あなた達、もともとは一つのものだったらしいのよね、だから、上の方も文句は言わなかったのよ」 そういって、人差し指で天井を指してみせた。 「いいのか…。その…、君に何か迷惑がかかるんじゃ…」 真澄のその言葉に天使は一瞬、驚いた表情を見せる。 「あのねぇ、あたし天使。死神じゃないの。分かる? 何がなんでも死なせようってわけじゃぁ、ないのよ。まぁ、ヒトの人生の長さは管理してるけど、プラスマイナスでゼロだったらそれでいいの。 ま、その調子でこの先も死ぬまでいちゃくらやってて頂戴よ。あ〜あ、もう付き合ってらんないっ!」 はからずも善行を働いたことへの照れ隠しなのか、茶化すように言う。 手術室の時計は間もなく、12時半を指そうとしてる。 「じゃ、そろそろ、あたしも帰るから…。言っとくけど、意識戻ったら相当体中痛いハズよ。まぁ、でも生き延びたんだから文句はナシね」 真澄はその言葉に苦笑する。その痛みは目の前に横たわった自分を見れば、容易に想像できた。 「次に会うときは、相当先のはずだから、まぁ、あたしの事なんか忘れてるだろうけど、一応またね、って事で…」 そう言って、ゆっくりと後ずさりを始める天使に、真澄は迷いのない声で言う。 「忘れない…、絶対に忘れないよ…」 天使は驚いた風に一度息を止め、瞳を大きく一瞬見開いた後、恥ずかしそうに笑う。 「…ありがと、ちょっと嬉しかったり…」 そう言って、羽のついた背中を見せ、ゆっくりと歩き出す。 と、思い出したように突然振り返り、最後の一言を口走ると、一瞬のうちに白い光に包まれて、跡形もなく消えてしまった。 真澄の耳に残った、天使の最後の言葉。 「あなたのあの願い事、もちろん、死ぬまで有効だから…」 一週間前のこの日、天使の耳元で囁いたあの自分の声が耳の奥でこだまする。 『死ぬまでずっとマヤと一緒に居たい』 ![]() 『人間、死んだ気になればなんでも出来る』 それはよく言う台詞だけれど、実際本当に死んだ気になれる人間もそう居ないだろう。 しかし、真澄にとってそれは、誇張でも大げさな言い回しでもなく、事実ありのままのことであった。 一度は失った人生、そして今自分が歩いているこの人生は、マヤが自分に分け与えてくれた人生だった。 紫織との泥沼のような婚約解消劇も、英介との大都をめぐる確執も、自らの進退問題さえも、 『死んだ気になって』 片付ければ、取るに足らないことにさえ思え、また実際そのように片付けてきた。 あの日奇跡的にオペを持ちこたえ、数日後に目覚めた自分の瞳に飛び込んできたマヤの泣き顔を真澄は一生忘れない。肉体の存在はそのままに、精神だけがさまよい続けた、自分の不在は3日間であったとあとで聞いた。 3日後にようやく目覚めた真澄へのマヤの第一声は、 「バカっ!速水さんの、バカバカっ!!」 であった。 「なんで、あたしのためなんかに死のうとするのよ。なんで、あたしなんか助けて…」 後は嗚咽になって理解不可能になったが、言いたい事は大体それで分かった。 それに対して、自分の口をついて出てきた言葉も、同じように色気もないようなもので…。 「バカはどっちだ。人のために、さっさと自分の命をあげる、なんて言うような奴に言われたくない」 その真澄の悪態に、マヤは本当に本当に、真澄が帰ってきた事を認め、あとはもうおいおいと泣き崩れるばかりで、仕舞いには看護婦に精神安定剤を打たれるほどだった。 数日後、真澄のベッドの脇で一生懸命りんごの皮をむくマヤに、真澄はぽつりと呟く。 「マヤ…、君の人生の半分を俺は貰ってしまった…。半分しか、生きられなくなったんだぞ…」 マヤは一瞬、りんごを剥く手を止め、怪訝な表情で真澄を見つめる。 が、すぐに、 「なんだ…、そんなこと…」 とどちらでもいいように、ぞんざいに答えると、再びくるくるとりんごの皮を剥き始める。 「だって、そんなの、意味ないもの。速水さんいない人生なんて、生きてたって意味ないもの…。生きたまま死んでたって、しょうがないじゃない…」 そう言って、皮を剥きすぎて、小さくなってしまったりんごをひとかけら、真澄の口に近づけた。 ![]() 数ヶ月後…。 入院中はベッドに括りつけられたままの状態でも、精力的にこなせる仕事は全てこなしていたが、その様子に呆れた水城の強い勧めもあって、 退院後、リハビリを兼ねて休暇を取った真澄は再びマヤとともに伊豆の別荘を訪れる。 「ねぇ、速水さん、それ、何?」 ベッドの上でうつ伏せに横たわったマヤは、先ほどから自らの素肌の上、背骨の溝を行ったり来たりする不可思議な感触に、疑問の声を上げる。柔らかく、素肌の細胞の一つ一つに呼びかけるようなその感触は、激しく興奮した体をゆっくりと沈めるように、心地よく皮膚の上を滑っていく。 「天使の忘れ物だ…」 そう言って、真澄はその白い毛先でマヤの鼻をふわりと撫でる。 白い天使の羽根…。 あの唐突に、天使が堕ちて来た夜、人生が変りだし、運命が動き出した。 自分に正直になるために、 封じ込めていた想いを解き放つために、 そして永遠に求めてやまないものを手に入れるために、 あの日引き抜いた一本の天使の羽根。 最後の勇気とチャンスを与えてくれた、白い羽根。 終わりを迎えたはずの人生にもう一度新しい息吹を与え、やり直すことを許してくれた、このかけがえのない存在のために、 ただそのためだけに、 真澄はもう一度生きていくことを 強く、強く、 心の底から誓う。 「ねぇ、彼女、今も見ててくれてるかなぁ、あたし達のこと。ここで、『ありがとう』ってお礼言ったら聞こえるかなぁ」 無邪気にそういうマヤの表情は真剣そのものだった。 「見えてるんだとしたら、うんざりすほどに妬けるところを見せておこうか」 真澄はそう言って、すぐさま強引に唇を奪い、素早くマヤの体を反転させると、その華奢な体を包み込むように覆いかぶさる。 その瞬間…、 開け放った窓が風もないのに、怒ったようにバタンと閉まった…。 ![]() 2.17.2003 ![]() ←この壁紙を見た時に、あんまりステキだったので、(これを使ったお話が書きたいなぁ)ってただ、それだけの理由で思いついたお話でした。まさか、全14話などという超大作になるとはもちろん夢にも思わず…。 「永遠の愛に生きて」でも書きましたが、二人の究極の究極のエンディングは、二人の命が終わるときの二人だと思う私の、これまた究極の二人を描いてみました。 「自分よりも大切な命」 書きたかったのはその辺かも。この二人だったら、相手のために自分の命なんてぽ〜んと差し出してしまうだろうなぁ、と。 ただ、重いテーマなだけに読んでるのが辛くなるのは予想できたので、中和剤として天使ちゃんには出来るだけバカっぽく(大失礼)いてもらいました。勝手に動き回ってくれる、ラクチンなキャラでした。 前作の「手のひらで融けた雪」が『史上最強に切ない恋のお話』だとしたら、これは『史上最強にゲロ甘な話』にしたかったのですが、設定が設定なだけに、またもや切ない旋風が吹き荒れ、読者の皆様の心臓にも悪かったと思います。 第一話のふざけたようなのノリと”杏子初のファンタジー”という触れ込みにそぐわない、重苦しい展開ではありましたが、どんな出だしであれ、杏子は絶対ハッピーエンドしか書かない!っていうのは、お分かり頂けたかと…。 いまだかつてないほどに、ムフフ♪描写がくどいほど入ってましたね。お恥ずかしい…。 途中、タイプのしすぎで腱鞘炎になりかかったり、苦しい思いもしましたが、書く事自体はとても楽しいお話でした。なんでって?だって、シオリーも英介も出てこなかったんだもん♪ガハハハハハ。つくづく、思い知らされました。杏子は、『速水さんマヤちゃん至上主義』なんだなぁ、と。 ではでは、またまたこんなになが〜〜〜いお話にお付き合いくださいまして、ありがとうございました。完読記念にポチッとして帰ってくださると、とても嬉しいです。一言感想などお聞かせ願えれば、疲れも吹っ飛びます。 |
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