天使が堕ちた夜 2
「あ、あの…、ご、ごめんなさい。こんな時間に、非常識だってわかってます…」

恐縮しきったマヤの声は小さく、そして震えている。

(いや、構わないが…)

そう優しく否定の声でもかけてやろうと思ったのに、マヤの声の背後から聞こえる雑音に耳を奪われ、それらは喉元で押し返される。
大勢の人間の息づかい、笑い声、食器がぶつかり合う音…。間違いなくどこか外からの電話だ。

「どこに居るんだ?」

まるで保護者のような口調で問い詰める。

(こんな時間にまだ、遊び歩いているのか?)

マヤがもうとっくに未成年ではない事など、真澄には関係ないかのように。

「えっと、あの、今、ドラマの打ち上げでみんなで飲んでたんですけど、あの、ワタシ、ゲームで負けちゃってそれで、罰ゲームで『事務所の社長に今すぐ電話する』っていうくじ引いちゃったんです。それで…」

真澄の全身から力が抜ける。深夜の突然の呼び出し音というのは、どこかいつも人を緊張させるものがある。よりによって、マヤからこんな時間に電話がかかってくるなど、何か事件でも起きたのでは、と真澄を緊張させたのも事実であった。しかも、先ほどの夢とも現実ともつかない妙な天使とのやりとりの後だけに、真澄が飛び上がるほどに驚いたのも事実である。 そんな自分の取り越し苦労に苦笑しながら、真澄は訊ねる。

「しかし君、どうやって俺の携帯の番号なんか…」

「あ、私も知らないからかけられないって言ったら、みんなが無理矢理水城さんに電話させて、それで水城さんから聞いちゃったんです。水城さん『マヤちゃんだったらしょうがないわね』って教えてくれたんですけど…、あの…、もしかして、寝てました?」

得意になってペラペラと、自分の番号をマヤに喋った水城の顔が浮かぶようだった。

「いや、まだ社にいた。そろそろ帰ろうと思っていたが…」

ある意味寝ていたような状況ではあったが、それは言わなくてもいいだろう、と真澄は口をつぐむ。

「君こそ、そろそろお子様はおうちに帰る時間じゃないか、もう終電もないだろうし…」

わざとマヤが脹れそうな言葉を的確に選んだつもりだったが、マヤは小さく笑っただけだった。

「やだ、速水さん、私だってちゃんとお給料頂いてますから、タクシー代ぐらいありますよ。それに、明日から一週間、半年振りのオフなんですから、ちょっとぐらい羽目外したっていいじゃないですか」

『明日から一週間、半年振りのオフ』

その言葉に真澄は固まる。
確かにマヤは紅天女の上演権獲得後、晴れて大都芸能所属となり、トップ女優として真澄のもとでこの半年、精力的に仕事をこなしてきた。今年の夏公開の映画の主演も済ませ、また今日クランクアップしたというドラマの方も高視聴率を記録し、まさに飛ぶ鳥も落とす勢いの仕事ぶりであった。全ては自分が積極的に仕組んできた事ではあるが…。
昔は反発してばかりいたマヤも、最近は女優としての自覚に目覚めたのか、大都の所属になってからは真澄の言う事も素直に聞く。仕事の上では非常にいい関係を築きだしたと言えるだろう。

しかし…。
私生活では相変わらずであった。マヤが紅天女に決まったあとも、結局自分が『紫の薔薇の人』である事は言い出せず、聖を通して薔薇やらプレゼントを贈っている自らの白々しさに真澄は腹が立つ事さえある。マヤがもう充分大人の女として成長したのを間近で見ながらも、結局自分はその思いを告げる勇気もない。
そして、紫織との結婚は来月に迫っていた。

「そうか…、一週間とはこれまた、長く取れたな。どこか、旅行にでも行くのか?」

探るような口調になってしまうのは、この際しょうがないだろう。このマヤの『半年振りの一週間のオフ』が、偶然なのか必然なのか、真澄は手のひらに汗をじっとりとかきながら、その答えを待つ。

「いえ、特に…。旅行なんてしたら余計疲れちゃうからから、ぼーっとしてたいなぁ、って思ってましたから…」

決まった…。

真澄が無言なのを訝しく思ったマヤが恐る恐る声を上げる。

「あ、あのぉ…、速水さん、怒ってます?って、当然ですよね。こんな時間に…。あの、何かお詫びしますよ、私。どうしたらいいですか?」

マヤはそうは言ってみたものの、自分ごときが何か真澄のリクエストに応えてやれるという自信など更々なかったし、ましてや物質的・金銭的なものを真澄が欲しがるとは、到底思えなかった。
受話器の向こうで、くぐもった笑い声が短く聞こえる。

「そうだな、じゃぁ、お詫びに君の明日のオフを頂こうかな」

「はぁ?」

予想外の真澄の言葉に、マヤは間抜けな声を上げる。

「明日の午後、そうだな3時でいい、オフィスに来てくれ。いくら二日酔いと言っても、午前中いっぱい寝ていれば、抜けるだろう。いいな」

有無を言わせぬ調子で真澄は言う。真澄の真意を図りかね、マヤは突っ込まなくてもいい部分にしょうがなく、突っ込みを入れる。

「あ、あの!私、酔ってなんかいません!正気ですよっ!速水さんこそ、酔ってるんじゃないんですか?私を誘うなんて…」

「残念ながら、俺も相当、正気で本気だ。
君が酔ってないというなら、なお結構!明日、君がもし来なかった場合も『酔ってたのでそんな約束覚えていません』と逃げられる心配もないしな」
愉快そうに笑い声まで上げる。マヤは真っ赤になって更に噛み付く。

「やだ、速水さんこそ、そんな寝ぼけた拍子に私の事誘って、明日私がホントにお邪魔したら、『何の用だ?』とか言って、追い帰したりするんじゃないですか?」

真澄はマヤのその様子にひとしきり笑い声を立てた後、急に優しげな声で言う。

「絶対にしない…。追い帰したりなんて、絶対にしないさ。
ずっと、待ってる…」

真澄の言葉とはとても思えないそれに、マヤは思わず硬直する。

「…速水さん?あのぉ…、大丈夫ですか?なんか、ヘンですよ、速水さん、今日…」

マヤは思ったとおりの事を口にする。

「君は知らなかったかもしれないが、俺はいつも君の前ではヘンになりそうだったよ…」

意味深に呟く真澄のそれに、マヤは今度は絶句してしまう。
真澄は何を考えているのだろう、いや、何が言いたいのだろう…。そして、自分はなんと答えればいいのだろう。今までの二人の会話集のどのページをめくっても、そんな会話はなかった筈だ。

「…ヤダ、速水さん、やっぱり酔ってる…」

掠れた声でマヤは最後の抵抗を試みる。

「…酔ってないよ」

静かな否定。

「…ズルイ…。人のこと子どもだと思って…、あんまりイジメないでくださいよ…」

泣きそうな声になってしまったが、半分は本音だった。真澄という人間が大人だから、自分よりも11も年上という年の差以上に、自分からは手の届かないほどの場所に居る、遠い存在だから、そんな真澄からこんな風に、突然知らない場所に放り出されると、マヤはどうしたらいいか分からなくなってしまう。

「子どもだとはもう思ってない…」

そう囁くような声で呟いた真澄のその息づかいは、電話越しだというのに、マヤの耳を火傷させるほどの熱を持って、かすめていく。

モウダメ…。

感覚のリミッターが振り切れる一秒前、マヤは正気に戻ったように大声でその立ち込める異様な空気を打ち破る。

「と、とにかく!!明日、3時に仰るとおりにお伺いしますからっ!!」

それだけ言って、電話を切った。

(あ、おやすみなさいって言うの忘れちゃった…)

得体の知れない波にさらわれないように、と焦るあまりに乱暴な切り方をしてしまった自分に、少し後悔した。


「酔ったぐらいで誘える女だったら、とっくの昔に誘っていただろうが…」

通話の途絶えた携帯電話を折りたたみながら、柔らかな苦笑を浮かべると、真澄は誰もいない社長室で一人、呟いた。






『あなたの命、あと一週間だけど、その代りに最後に一つだけ願いを叶えてあげる』

信じているわけではなかった。
が、確かに全てを偶然で済ませるには、夢で片付けるには出来すぎていた。手のひらで、残された白い羽を弄びながら、真澄は思考をめぐらせる。
しかし、あの天使が宣告した通り、もし自分の人生があと7日で終わるとしたら、死んだ後に後悔してもしきれないものを自分が抱えている事に真澄は今更ながら、気付いた。
所詮、人間の命なんて儚いものだ。例え今現在どれほど自分が健康であったとしても、明日にだって、自らの命が不慮の事故で絶たれる可能性は、考えて見れば誰にだってあるのだ。

━死んでも死にきれないほどに、後悔するもの

大都という自分の持ち物にも、やり残した仕事にも、またこれまで築いてきた財力やら名声になど1mmも未練はない。
ただ一つ、守りたいものがあるとすれば、それはマヤへの尽きせぬ思いであった。

おかしなもので、あれほど『死ぬまで一人で背負い込もう』と意気込んで隠し通してきた思いも、本当にあと7日で自分がチリとなって消えてしまうと聞いたら、隠し通す事などどうでもいい気にさえなってくる。あれほどがんじがらめに自分を縛り付けていた鎖が解けていくのを、体中に溢れ出す想いとともに真澄は感じる。

ただ、自信だけはやはり無かった。

自分がこれから、この世で最後に託す望みに対して、あの少女が首を縦に振ってくれるという自信は、やはりどこを探しても見当たらなかった。

(もし、俺の命が本当にあと7日で終わるのであれば、彼女はイエスと答えるだろう…)

それはまるで自らの命と引き換えに、叶えられるはずのない思いを遂げるための賭けのようであった。






翌日マヤは、約束通りに3時に真澄をオフィスに訪ねる。真澄の真意も目的も、何一つわからないマヤにとって、それは何か不安な気持ちにさせるものではあったが、同時に
『会える』
という行為は、自然と動悸をあげるほどに胸をときめかせるものでもあった。

時計の針が3時を指す少し前、何気ない風に真澄は水城に爆弾を落とす。

「水城君、3時に大事な用件で個人的な来客が一人ある。話し合いいかんによっては、君にも少なからぬ迷惑をかける事になると思うが、よろしく頼む」

真澄に唐突なそれに水城は訝しげな表情を浮かべ、咎めるような口調で答える。

「大事な用件のお客様とは、まさか…」

その時、社長室のドアが軽く3回ノックされる。

「その、まさかだろうな…」

大きく息を吐き出しながら、真澄は吸いかけのタバコを灰皿で握りつぶす。

「こ、こんにちは…」

水城が開けたドアの向こうで、遠慮がちにその小さな訪問客はぎこちない笑顔を浮かべる。



水城が席を外すと、社長室という密室で二人きりの空気が重く立ちこめる。大きな来客用の黒い革張りのソファーに埋もれるようにちょこんと座り込むマヤの様子は、まるで猫に射竦められたねずみのようだ。
真澄はデスクのチェアーに座ったままマヤを見下ろすように見つめる。そのじっと注がれる視線に耐え切れなくなったマヤが口を開く。

「あ、あのぉ…。ちゃんと、来ましたよ、私。
それで、あの、ご用件は…」

上目使いにそう見つめられるだけで、理性のたがが外れそうになる自分を押し隠すように、いつもの冷静な仮面を真澄は探す。

「君に頼みがある…」

とても冷静な声。でもビジネスライクなそれとは違って、どこか感情を押し殺したような切なさがそこには漂う。

「な、なんでしょう?」

何か自分では到底手に負えない事を頼まれるのでは、とマヤの体が強張る。

「君の一週間を俺にくれ」

唐突なその言葉は、注意深く真澄の言葉に耳を傾けていたにも関わらず、それらはマヤの耳元を、意味を理解するよりも早く、通り抜けていく。反応のないマヤをじっと見つめたまま、真澄は繰り返す。

「一週間だけ、俺のものになって欲しい」

(もしも、あの天使の言う事が本当であれば、マヤは首を縦に振るはずだ)

あの時手の平に残されていた、白い一本の羽。デスクの影のマヤから見えない位置で、真澄は何度もその羽の部分を爪でなぞる。

(もしも、自分の命が後7日で絶たれるのであれば、マヤは…)

その瞬間、瞬きもせずにこちらをじっと見つめていたマヤの頭がこくりと小さく一回頷いた。

「はい…」

聞こえないほどに小さい掠れたその声が、それでも確かに真澄の耳に入った瞬間、どくりと真澄の心臓が跳ね上がる。

天使の羽を一本抜き取る直前に、あの天使の耳元で囁いた、世界中で自分と天使だけにしか聞こえなかったはずの言葉が真澄の耳に蘇る。

『死ぬまでずっとマヤと一緒に居たい』




2.1.2003








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