天使が堕ちた夜 4
会話のない車内。
行き先も分からないまま、車は高速の上でぐんぐんとスピードを上げていく。東京から遠ざかっている事だけはさすがにマヤにも分かったが、どこへ近づいているのはまるで分からなかった。
出発してからずっと引っかかっているような妙な不安感。
それはまるで、何か忘れ物をしてきてしまったみたいな落ち着かない気持ちに似ていた。
一通り生活するのに必要なものを思い浮かべてみる。
歯ブラシ、洗顔フォーム、化粧水、爪きり、クリーム、下着、洋服…。
そこまで思い浮かべてバカバカしさに考えるのをやめた。

(なくったって、生きていけるものじゃない…)

例え何か忘れてきたとしても、この世の果てのような所にでも行かない限り、なんとかなるだろう。それは、マヤにも分かっていた。
が、次の瞬間、マヤは忘れ物に思い当たって、声を上げた。

「あっ、忘れた…!」

一人暮らしをするようになってから、咄嗟に声を出してひとり言を言ってしまう癖がついていた。大した事でもないのに口に出してしまった事を、恥ずかしさも手伝って、少し後悔する。

「何を忘れたんだ?」

「いえ、あの…、大したものじゃないんで…」

誤魔化してみたが、こういう時の真澄のくどさは予想できた。

「何だ、言ってみろ」

案の定答えるまで問い詰められそうだったので、マヤはあっさり白状する。

「……パジャマ……」

ぷっと真澄の吹き出す声が聞こえた。

「本当に大したものじゃないな。そんなもの着ないで寝れば済むことじゃないか」

「なっ!!」

マヤは真っ赤になって絶句する。真澄は予想通りの反応を示すマヤに、大声で笑い声を上げる。ようやくからかわれた事に気付いたマヤであるが、結局それは一つの事実に気付かされる事にもなった。それこそがまさに、東京を出てからずっと心のどこかに引っかかっていた漠然とした疑問と不安であった。

『ずっと一緒に居る』

とは文字通り、24時間ずっと一緒という事なのだろうか?
仕事の鬼と言われるほどの天下の仕事人間の真澄が、その全てを無責任とも思われる程の唐突な決断で投げ打って、一週間をどこかで過ごすという。それは、まるで現実からの逃避のようでもあり、そして自分はその共犯者に思えた。
そして、共犯者はなぜ自分なのか、という疑問。
紫織との結婚はいよいよ、来月に迫っているはずだ。こんな所で、結婚を間近に控えた男が、別の女と一週間二人きりで過ごすという事の意味を、今更ながらマヤは少なからぬ恐怖を持って考えさせられる。
分からない、本当に分からない…。
この彫刻のように美しい顔の下に隠れている感情がマヤには読み取れない。

分かっているのはただ一つ、自分はこの男に恋をしているという事。それが許されない恋であるという事。そして、今、自分は本来なら許されない状況に身を置いているという事。



「俺の顔に何かついてるか?」

いつまでも自分の顔を凝視するマヤに、真澄は苦笑しながら言う。

「え?って、あの、み、見てました?私…」

動揺のあまり、マヤは思いっきり上ずった声を出してしまう。

「あぁ、ずっと見てた。君に見られるのは悪くないが、少し照れるな」

その言葉にマヤは思わず真っ赤になる。ボンッとまるで火が付いたように。

「速水さん、俳優とかモデルになろうとか、思った事ってないの?」

あまりの唐突なマヤの問いに、今度は真澄が声を詰まらせる。

「あるわけないだろうが!なんでだ?」

「だって、そんなにカッコイイのに…。所属の俳優とかモデルさんよりカッコイイなんて、罪な社長さんだよね」

マヤはシートベルトの辺りを意味も無く触りながら、少し不貞腐れたような声を出す。

「へぇ…。俳優や、モデルとは、俺もゴキブリやゲジゲジから随分昇格したもんだな。どういう心境の変化だ?」

重苦しい車内の空気が、軽くなっていくのを楽しむように真澄はいつもの軽口を楽しむ。

「はぁ?外見の話だけしてるんですよっ!速水さん、やっぱり相変わらず嫌味虫だし、意地悪だし、外見いくらカッコよくても、中身がゲジゲジじゃぁ、話になりませんっ!」

マヤは腹をくくる。いくら考えても自分には真澄の考えている事はわからない。だったら、真澄が教えてくれるまで待つしかない。それまでの間は、こうしていつも通りにしていればいいのだ。

『むこうに着いたら、ちゃんと全部話す。
俺がこうする理由も、俺が君を連れて行く理由も…。
今は黙って、俺に着いて来て欲しい…』

真澄のその言葉を何度も胸の中で反芻すると、マヤはいつもの憎まれ口を叩く元気を出す。
元気が出てきたら、案の定体も元気が出てきてしまう。

(あ、ヤバイかも…)

そう思った瞬間にはもう遅かった。せまい車内にそれは、響き渡る。

ぎゅるるるるるるる。

途端に馬鹿笑いを始める真澄に、マヤは真っ赤になって抗議する。

「だって、しょうがないじゃないですかっ!速水さんが変な時間に呼び出すから、アタシ、お昼はあとで食べようって思ってたのに、なんかいきなしこんな事になっちゃって、結局食べ損ねて、それで、今、もう9時だしっ!」

車の時計はちょうど9時を回った所だった。

「あぁ、悪かった、悪かった。俺もすっかり忘れてた、次のインターチェンジを越えたら、どこかに入ろう」

真澄は笑いを押し込めながら、楽しそうな声でマヤをなだめた。

これでいいんだ、とマヤは思う。
あまりと言えば唐突に日常から切り離されたような空間に放り出され、真澄に対してどういう態度を取ったらいいのかわからなくなっていた。心だけでなく体までバラバラになりそうなまでに追い詰められていた、自分の気持ちが爆発してしまうのを何よりも恐れていた。

(お腹がいっぱいになったら、また考えればいい)

そう頼りない言い訳を最後に自分にすると、もう一度真澄の横顔に目をやる。 真澄の顔はどこか幸せそうで穏やかな表情だった…。


道路沿いのなんの変哲もないようなファミリーレストランで二人は遅めの夕食を済ませる。勢いに任せて飛び出してきてしまったような真澄の尋常ではない行動からくる、二人の間の緊張感は、すでに完全に和らいでいた。
駐車場で再び車に乗り込む前に、マヤは呟く。

「あ、海の匂いがする…。速水さん、ここ、海の近く?」

「ああ、そうだ…」

車のドアにキーを差し込む手を、一瞬休め、真澄は答える。

「まだ、沢山の走るの?」

真澄を気づかうような表情でマヤの目がじっとこちらを見つめる。まるで、誘拐か拉致のような勢いでここまでマヤを連れて来てしまったような状況である事も、真澄には分かっていた。しかし、マヤ本人の目には不安の色は見られない。

「いや、もう目的地には入ってる。あと、20分もすれば到着だ。
疲れたか?」

優しく自分を労わる声が心地いい。真澄に優しくされる事に慣れてないマヤには、その何気ない一言さえ、とても貴重なものに思えてしまう。

「ううん、平気。なんか、突然色々あったから、興奮してるみたいだったし…。ほら、緊張してるときって、疲れ感じないじゃないですか。で、次の日にどっと疲れが出たりするの」

可笑しそうにマヤは小さく笑うと、助手席のドアに手をかける。鍵が開いてないので、ドアーは手前に引いても何の反応も示さなかった。真澄がいつまでも鍵を開けないのを、訝しく思ってマヤは車の反対側に居る、真澄に目をやる。

「速水さん…?」

真澄の髪が風に揺れる。

「悪かった…。俺の勝手な我儘に君をつきあわせてしまって。
君が本当に俺についてきてくれるとは思わなかった…」

あのいつもの真澄からは考えられないほどの自信なさげな声の調子にマヤは驚く。

「謝らないでください。
そうするって、決めたのは私なんですから…。
速水さんっていっつもそう、人の気持ちとか、私の考えてる事とか、なんでもかんでも勝手に推し量るの。人の意見なんて、聞いちゃいない…。お仕事だったらそれでいいのかもしれないけれど、仕事以外のところでそれやられると、辛いです。その人が本当に考えてる事なんて、その人にしか分からないのに…」

マヤの大人びた声の調子に、今度は真澄が驚く。

「チビちゃん…」

真澄のその声を遮るようにマヤは続ける。

「私だって、この状況、ちょっと普通じゃないって、思ってます。速水さん、なんかおかしい、ヘンだって分かってます。でも、速水さんがちゃんと説明してくれるまで、私は聞かない。私も速水さんに言いたい事、聞きたい事、両方いっぱいあるけれど、まだ言わない。でも、速水さんが説明してくれたら、その時は私にもちょっと喋らせてね」

そう言ってマヤは何かを誤魔化すような曖昧な笑みを浮かべた。

「あぁ…」

真澄がそう短く答えた瞬間、キーの開く音がする。
二人が無言で車に乗り込むと、マヤが小さく吹き出す。訝しげに真澄がマヤを見やると、マヤは可笑しそうに言う。

「でもね、ホントは、ちょっと、強引だなぁ〜って、思ってた。私があそこで嫌だって言っても、速水さん、絶対私の事、連れて行ったでしょ?」

「まぁ、そうだろうな」

真澄も苦笑を浮かべながらそれに同調すると、車にエンジンがかかる。

走り出す車の中から、青い道路標識に浮かび上がった「伊豆高原」の文字をマヤは横目で確認した。





「ここ、速水さんのおうちなの?」

車が横付けされた、大きな別荘と思われる家の前でマヤは戸惑いがちに声を上げる。

「あぁ、俺の別荘だ。一人になりたい時にはよくここへ来ていた。まぁ、避難場所のようなもんだな」

ぼーっとしてるマヤを尻目に真澄はトランクを開けると、荷物を取り出す。
『避難場所』
真澄のその言葉がマヤの心のどこかに引っかかる。

(何から?何から逃げてるの?速水さん…)

声に出すつもりはないその問いを、心の中だけでマヤは呟く。





部屋の中は、最近そこに人が居なかった事を証明するような、埃っぽさが漂う。寒さからすぐにでも暖房を入れたい状況ではあったが、少しは空気の入れ替えでもしないとどうにもならないほどの、空気の澱み具合であった。

「マヤ、リビングの窓も開けてくれ」

キッチンの窓を開けながら真澄がそう言うので、マヤはリビングの奥、バルコニーへと続く窓を開け放つ。
途端に聞こえてくる波の音。夜の帳にすっかりと包まれ、その海の色をうかがい知る事は出来なかったが、確かな潮風の香りを感じる。そっと、バルコニーに出てみる。寒さは気にならなかった。

「昼間は海が見えるんだがな」

いつの間にか背後に近寄ってきた真澄の声がする。

「夜もいいかも…。見えなくても、こうして波の音を聞いてるだけで、落ち着くし…」

バルコニーの手すりにマヤは両腕をつくと、静かに目を閉じる。

「少し、浜辺を歩いてみるか?」

マヤは少し考えた後、こくりと小さく頷いた。



浜辺に下りるまでの途中の階段で足元を見誤ったマヤが体勢を崩したのをきっかけに、真澄はマヤに手を差し伸べる。本当は別荘を出た瞬間からそうしたかったが、言い出せなかった。マヤの事だから、絶対どこかでこけるだろうとは思っていたが、案の定の展開に真澄は笑いを堪える。

「あ…、ども…」

表情までは暗くて良く見えなかったが照れくさそうにマヤは、その手を取った。

大きな手だと思う。
自分の手などすっぽりその中に包み込まれてしまうほどの…。横に並んだ真澄の体は、その手の大きさに比例してどれも自分とは比較にならないほど大きいのが分かる。
嫌でも意識させられる。
真澄が大人の男であること、そして自分は子どものような女であること。その違いを見せつけられるのが嫌で、隣に並ぶのが嫌なこともあった。特に、そのまた隣に紫織が居たときなどは堪らなく嫌だった。
でも今は誰もいないから…。二人を見ているのは夜空に浮かぶ月だけだから。そして、こんな暗闇では小さな頼りない自分の存在など、闇に包まれて見えなくなるから…。
そんなマヤの心を見透かしたように、マヤの手を握る真澄のそれに力が込められる。ぎゅっと握力を感じた瞬間、マヤは自分の心臓まで掴まれた気がした。

「あ、月がふたつ…」

動揺する心のさざ波を誤魔化すように、温度があがってしまった自らの体温を誤魔化すように、マヤは気の抜けた声で海を指差す。
黒い夜空と黒い波間にそれぞれ月が浮かんでいる。

「ほら…、海にも月が浮かんでる…」

声のしない真澄に教えるようにその顔を覗き込んだ瞬間、マヤの呼吸が止まる。月光のわずかな光の向こうに見えた真澄のその瞳は、ただまっすぐに自分を見つめている。それはとても盲目的で性急でそして、破壊的な強さを持っていた。
どこにも身を隠すものもなく、そして目を逸らす事さえ出来ず、マヤは神話の中で読んだ少女のように、自分の体が足元から石になっていくような錯覚に陥る。
それはまるで、見てはいけないものを見てしまったような…。

「マヤ…」

愛しい人が呼ぶその声に、生まれて初めて名前を呼ばれたような感覚がマヤの体を襲う。
繋いだ手を真澄がそのままそっと持ち上げる。手首が軽く一度反転させられたかと思うと、真澄の柔らかな唇が手首の内側に押し当てられ、体中の血がそこへ集まる。真澄の閉じた瞼の下にあるその長い睫だけを、マヤは見ていた。唇を奪われた時よりも、自らの脈打つそこで感じた真澄の唇は熱を持っている気がして、体中に動揺が走る。
こんなキスは知らない…。
マヤの体が震えだす。

ようやく手首から唇を離したあと、真澄はその手を自らの頬にあてがう。

「愛している…。
どうして、今まで気持ちを抑えてこられたのか、不思議に思う。
壊れるほどに君を愛している。そして、君を壊してしまいそうなほど、愛している…」

耳の奥では、現実と夢の間を行ったり来たりするように、寄せては返す波の音だけがいつまでも響いている。
真澄の背後に見える星空が落下してくるのを、眩暈に襲われながらマヤはぼんやりと眺める。落下する星空に心も体も押しつぶされそうになった瞬間、何か白いものが黒い夜空を舞う。魔法がかかったように心を縛る鎖が解かれて、自分が思ってる事も感じていることも、世界中に聞こえてる気がした。だから、それを言葉にすることはそんなに難しいことではなかった。
心の中身がこぼれ落ちる。

「私は、もう壊れてます…。ずっと前からバラバラになりそうなほど壊れてました。
ずっと、あなたが好きでした…」




2.3.2003








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