天使の休日 10
気持ちよいくらいに晴れ渡った日曜の空。
幸せの象徴と言われる6月の花嫁の一日に相応しいような、青空。
新緑の木々の緑、爽やかな風、澄んだ透明な空気。
その全てがカサカサと肌を刺すように痛い、と天使は思う。

黒いレースのドレスに身を包むと、鏡越しに顎を突き上げ、笑う代わりに唇を尖らせてみる。いつもどおりの自分がそこには居た気がした。
黒い服を着るのはきっと今日が最後。もうすぐ、自分の背中からは羽根が生えて、そして自分は白いものしか纏わない、 天使に戻る。
黒い細いピンヒールのストラップを足首の周りで、一周させると、小さな穴にベルトの細い金具を通す。その瞬間、 胸までそれで刺されたように、チクリと痛みが走った。
屈んだ体勢のまま目を瞑ると、頭に血が上り途端に眩暈さえ覚える。

もうすぐ、もうすぐ、休暇が終わる――。

それだけ胸の中で言い聞かせるように呟くと、天使はゆっくりと身を起こし、控え室を抜け、チャペルに向かう。

思いついたように、二つ隣のドアを訪問してみようと、ドアのノブに手をかけるが、その瞬間聞こえてきた声に、思わず手が止まり、 耳をそばだて、入るきっかけを失ってしまう。

「速水さん、あたしね、きっと結婚式の間中、緊張しちゃって、かーーっとなっちゃって、なんにも覚えてないと思うの。 一生に一度しかないことだし、ちゃんとやりたいし、速水さんに恥だってかかせたくないし、それに自分でだってきちんと 全部覚えていたいって思うの。でも、絶対、絶対、無理だと思う……」

思わず、『また、そんなしょうもないこと言って』と声を上げながら、その扉を突き抜けようとした瞬間、マヤの次の言葉が その手を止める。

「だからっ、だから、ここで速水さんに誓っていい?」

「予行演習か?」

からかうような真澄の声が聞こえる。

「もうっ!!違くてっ!そうじゃなくって、あたし色々速水さんに言いたいこととかあるから……」

そう言ってマヤは何度も瞬きをして、必死で少ない語彙の引き出しから、伝えるべき言葉たちを探す。 改めてマヤから何か言われるということに、少しの照れと、大きな緊張を持って、真澄が身構えると、ゆっくりとマヤは言葉を紡ぎ出す。

「今まで、自分の恋する気持ちだけに精一杯で、速水さんの気持ち、あんまり分かってあげられなくてごめんなさい。 死ぬまで一緒、死ぬまで同じ人生を歩けるって、そのことに安心して、当たり前のようにあなたに愛されて、当たり前のように こうして結婚して……、でも、でもね、それはぜんぜん当たり前じゃないの。用意されてる恋でも人生でもなくて、 あたしが自分で選んだ人生だし、恋だし、それから、私が自分で選んだのが速水さんなの。
だから、これからも、いっぱいいっぱい、迷惑かけたり、呆れられちゃうことすると思うけど、努力するから……、 速水さんの気持ち、きちんと理解できるように、それから速水さんにいつまでも心から愛してもらえるように、努力するから、 あたしと一緒に生きてください。
運命じゃなくて、速水さんが選んだ人生として、あたしと歩いてください」

そこまで聞くと、天使はゆっくりと扉の前を離れる。もう、自分がすることは何もない。
自分が悪戯に変えてしまった人生は、いつしかこうやって自分の手からも、そして運命の手からも離れ、二人だけの力で動き出す。

『運命に負けない恋をして』

その言葉が、今、胸に蘇る。

運命――。

永遠に生き続ける、天使である自分の運命とはなんなのだろう?

レースのドレスの衣擦れの音だけが、長い廊下に響く。大きな天窓から6月の太陽が注ぎ込み、晒された背中を刺す。 忘れていた感触が、その皮膚の下で疼き出す。
もうすぐ、そこへ姿を現すであろう、その白い大きな羽根が廊下に大きな影を作る……。






「うわぁぁ、杏樹さん、相変わらず色っぽい、きゃ〜〜、見て見て速水さん、杏樹さん、すっけすけだよぉ」

たった今花嫁になったばかりのマヤは、チャペルの扉を抜け出し、ライスシャワーの向こうに天使の姿を見つけると、 駆け寄ってそう声をかける。型通りや決まり通りという言葉を知らないマヤは、参列者一人一人に溢れれんばかりの 感謝の気持ちを伝えるべく、それぞれに声をかけてしまうが、天使のその姿を見つけると、一際弾けるような笑顔を浮かべた。

「神聖な教会、しかも自分のテリトリーであるはずの場所で、結構なことだ」

真澄の棘のない嫌味がそれに答える。

「やぁねぇ、あたし何年天使やってると思ってるのよ。最近の天使業界じゃ、露出推奨よ。このぐらいでバチあたってたら、 誰も天使なんてやれないわよ」

そう言って深いスリットの入った胸元を張る。ケタケタと花嫁らしくない笑い声を立てるマヤに、天使は穏やかな笑顔で言う。

「意外ぃー。マヤちゃん、びーびー泣くかと思った。泣いて泣いて泣きまくると思ったから、ティッシュ山のように持ってきたのに 損したわ」

そんな天使の言葉にマヤは笑顔で答える。

「泣けないよ。幸せすぎて、泣けない。前だったら泣いてたけど、今はもう泣けない。杏樹さんに強くしてもらったから、 もう泣かないよっ!!」

その笑顔のあまりの眩しさに、天使は眩暈を覚える。そして、疼くような胸の痛みも。

「シャチョーどうするよ、マヤちゃん強くなっちゃったよ。もう、シャチョーの思い通りにはいかないねぇ、こりゃ」

茶化すように天使は、同じように強くなった真澄に言う。

「強い奥さんとは結構なことだ。君に感謝しなければな」

余裕の笑みでそう答える。

「シャチョーはどうなのよ、女優のダンナになる覚悟はできたの?お願いだから、もうマヤちゃんが他の俳優と絡むたびに、 白目ひん剥いて、ワイングラス自力でパリーンとか、やめてよね。みっともないから」

そんなことはもう起こらないと分かっていて、天使はわざとからかう。もう触れてはいけないことではない、という安心感から くる余裕でもって、からかう。

「俺も君に鍛えられたからな」

真澄も意味深にそう言って笑う。さらに余計な一言を付け加えて。

「最後の最後まで、君には少しも男として何も感じず申し訳なかったと思う。キスまでしてもらったが、 やっぱり俺にはマヤしかいないようだ」

言わなくてもいいことを、わざわざこうして口に出して言うことの真意を天使はわかっている。

”好きでもない相手とキスをしても、少しも心は動かない”

そのことをマヤに対して理解してやった、真澄はそう言っているのだ。けれども、分かっていて天使は、同じように 外した場所にボールを投げ返す。

「あぁもうねぇ、ホントにねぇ、あたしもいくらお二人のためとは言え、天使の職業病と言えどもですね、 シャチョーとのぶちゅーはなかったことにしたい出来事、歴代ベスト3ぐらいにランクインしちゃうね。 あ〜、もったいないことした」

そう言って、唇を尖らせる。

「まぁ、でもお別れのキスだとでも思えば、それほど損したとも思わないけどねぇ〜」

そうわざとなんでもないことのように、涼しい顔で言う。

「今度こそ、これでバイバイだからね。もう、心配かけないでよ」

けれどもそれは小さく震えた声になる。

天使の隣の参列者がすかさず二人に声をかけようとした気配を感じ、天使は早口に告げる。

「ごめんねぇ、結婚祝いなんだけどさぁ、ほら、あたし、今失業中で何も買えなかったのよぉ。 シャチョーのお金で買うのも違うだろっだし。
というわけで、2ヵ月後に結婚祝い、どかんと届けるから、待っててねぇ〜」

「そんなこと気にしなくてもいいのに、この結婚式が杏樹さんからの何よりの贈り物じゃない」

そう言って心から笑うマヤと真澄の眩しすぎるほどの笑顔を、天使はしっかりと瞼の裏に焼き付けた。






人々の賑やかな輪に背を向け、天使はまっすぐに歩き出す。瞬間、大きな歓声があがり、ブーケトスが行われたのが、その 黄色い叫びから分かる。振り向きもせずに、天使はさらに歩みを速める。
と、その羽根の生えかける疼く痛みを持った背中に、今その声を聞いたら、一番自分がうろたえるであろう人物の声が刺さる。

「さよならは言ってくれないんですか?」

立ち止まり、背中を向けたまま首を横にかしげ、眼を瞑る。こんなふうに見つかってしまった場合に、と考えていた、言うべき言葉とするべき行動を そうやって思い出す。一度だけ大きく息を吸って、その声のした方に振り返る。

6月の太陽が、目を潰す。

愛しい人の悲しい笑顔が、目を潰す。


溢れ出す思いは、心を潰す……。






チャペルから続く緑の散歩道を二人は並んで歩く。
並んで歩きながら、天使は思ってはいけないことを思う。
この人と手を繋いで歩きたかった。
一度も手を繋がなかった。
こんなに側に居るのに、手も繋げないなんて……。
少しだけ、右手の小指が動くが、結局何も出来ないまま、諦めたように指先は意思を失う。その瞬間、右手の指が絡め取られるように、 掬われる。心臓がぎゅっと音を立てて縮む。
手のひらを握るのではなく、指先をそっと包まれる感触。 そして手の甲にあたる聖の親指が、優しく、拳の骨の頂の間を撫でていく。
言葉よりも何よりも、聖の思いが皮膚を通じて染み込んでくるようで、どうしようもなく泣けてくる。
聖が無言であるほど泣けてくる。
そう思うと、天使は太陽が眩しいふりをして、瞼を閉じた。



「どれだけお願いしても、あなたは私の記憶を持っていってしまうのでしょうね」

木陰に入ると、責めるふうでもないが、投げやりでもない声で聖は言う。

「あなたはそういう人だ」

立ち止まった聖が、手を握っているのとは逆の手を、天使の頬にあてがい、ゆっくりとその親指で唇の輪郭をなぞる。

「あなたは美しくて、魅力的で、強く、そして、残酷だ」

残酷、という言葉の響きに、天使は息を止める。天使の瞳の内側が揺れたのを敏感に読み取って、聖は言葉を繋ぐ。

「優しすぎるという点で、残酷だ……」

何か言おうとして、息継ぎをするが、天使の唇からは音のない吐息が抜け落ちただけで、ただ呆然と聖を見詰め返す。
唇をなぞる聖の親指の動きが止まり、次に強引にそこへ唇が重ねられた。
強く、熱く、心の塊をぶつけるような、そんなキス。その塊がゆっくりと喉元を通り過ぎ、体の底へ落ちていくのを感じながら、 天使はそのキスを受け止める。

「名前を呼んでくれませんか?最後に、私の名前を……」

唇を離し、額を密着させたまま、苦しげに顔を歪め、聖はそう哀願する。

「……唐人……、唐人……、ねぇ、愛してるわ、本当よ、あたし、愛してるわ、唐人……」

言わないつもりでいた言葉が、愛する人の名前の呪文に導かれ、こぼれ落ちる。
その言葉を全身で受け止めるように、聖はきつく、きつく、天使を抱きしめる。
その細い背中の骨が折れてしまうほどに強く、抱きしめる。
聖の大きな手のひらが、晒された背中をまさぐり、ゆっくりと腰のあたりまでなぞるように降りてくる。

「あなたは、美しすぎる。
忘れるにはあまりに美しすぎる。
そして、忘れるにはあまりに私はあなたを愛しすぎている」

その切ないまでに甘美な言葉を、天使は生まれて初めて流す涙とともに受け止める。

終わりの時間がやってくる。
休日という名の泡沫の時が終わりを告げる。

「例え、あなたが私の全ての記憶を持ち去っても、6月の新緑を見るたびにざわめく私の心の震えを止めることは 誰も出来ないでしょう。
この緑はいつまでも私に刺すような痛みを与えるでしょう。
例え、 理由はわからなくても、そうして、そんな痛みであなたと繋がっていられるのであれば、それだけでも私は構わない……」

そう言って、天使の背中に回された腕から力が抜ける。
お互いの繋がっていた両腕が、滑るようにしてゆっくりと離れる。完全に離れてしまう1秒前、聖の指先が最後の ぬくもりを、すれ違いざまに天使の指先に与える。

「いつもあなたを見ているわ」

そう最後に告げると、天使はゆっくりと背中を向ける。その後姿が、刺すように眩しい緑の間に見えなくなったあとも、 聖はいつまでもその場に立ち尽くし、瞼に浮かぶ残像を心に刻み込むように追い求めた……。












その晩、記憶が切り取られる瞬間を、電気をつけることも忘れられた暗い部屋の闇の中で、待ち続けていた聖のもとに 一通のfaxが入る。






『送信元:あの世
送信者:あ・た・し♪


間違えて、あなたの一番辛かった苦しい思い出を
持って帰ってしまいました。

ごめんなさい。


来年の有給休暇に会いにきたら 会ってくれますか?

もしも答えがYESであれば、 その日が来るまで、
毎日窓辺の植木に水を上げてください。


枯れずに来年もその植木が緑の葉をつけた頃に、

あなたに会いに行きます』





慌てて聖が窓辺を振り返ると、そこには、見たこともない小さな植木鉢が一つ。緑の葉をつけた苗木が植わっていた。


聖は毎日かかさず水をやる。
きっと毎日側にいるであろうその存在に話しかけるように、その緑に水をやる。

そして、記憶の中のあの刺すような痛みをもった緑が、 目の前の柔らかな緑の葉に姿を変え、胸を温かく、優しくする。
閉じた瞼の裏では、愛する美しい人が、穏やかに微笑んだ……。





















2ヵ月後、天使の言葉通り、マヤと真澄のもとに結婚祝いが届く。
マヤの体内に芽生えた、新しい愛の息吹という名の贈り物が……。




6.18.2003


<FIN>








脱稿直後、自分でいうのもなんですがとても幸せな気持ちになりました。こんなにお話を書くのが楽しかったのは 初めてかもしれません。そして、せっかくマヤX真澄ではないカップリングなのだから、普段出来ないオチにしよう、と 思いつつもあまりに二人のココロの内を描きすぎてしまい、結局こういう結末になりました。
全10話、なんと5日間で書き上げた計算となりますが、本当に脳内大妄想菌運動に、完全にのっとられた ような、特濃な5日間でした。
キリリクというものに初めて挑戦したわけですが、お題の中から最初の2つを欲張って取り入れた結果、なんだか途中から 全く違うお話になってしまい、冷や汗。きょんさんリクエストでは、きっと天使ちゃん×真澄のカラミが見たかったのだと 思うのですが、どーにもこーにも、私には真澄Xマヤ以外は書けません。きょんさん、ごめんなさいっ!!!
その代わり(代わりでごめんよ、ヒジリ)に白羽の矢が立ったのがヒジリだったわけですが、いやぁ、もぉ、ヒジリの魅力に すっかり開眼してしまい、寝ても覚めてもヒジリ、ヒジリ、ともうウルサイったらありゃしないの、杏子のおばちゃま。
ESCAPE初登場にして、主役乗っ取り級の活躍でしたが、すっかりヒジリ萌えなアテクシ。しばらくはヒジリ熱が冷めそうにありません。
いつもいつも、なんとか違う形で素敵な恋をしてもらおうと、マヤX真澄の鈍感カップルをいじくり回していた杏子ですが、 全く違うカップリングの新鮮さを楽しみ、あ〜気分転換も大事なのだな、と思った次第。マヤちゃん速水さんのお話以外、 興味ない人ごめんなさい。
楽しんでくださった方、心よりありがとう!
今日、9年間のドイツでの生活を終え、に日本に帰ります。ドイツ生活の最後のいい思い出になりました。 (こんな時まで更新してるアホ。菌の強さを実感)

最後に、リクエストくださったきょんさん、おかげさまで杏子の中に眠っていた、知られざる新種の菌に出会うことができました。 本当に書いてて楽しかったです。ありがとうございました。リクからはかけ離れた内容になってしまいましたが、少しでも お楽しみいただけたのであれば、幸いです。

そして、お話の最後の2行は、この連載中、出産間近だというのに毎日足蹴く通って、励ましの感想をくださった、しずかさんに 捧げます。元気な赤ちゃんが生まれるよう、心からお祈りしてます!!
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