天使の休日 4
「心配するな、警戒が必要な女じゃない。君と同じように、戸籍のない女だ」

「……真澄さまとのご関係は?」

”戸籍がない”という真澄の言葉は、聖を安心させるどころか、余計な猜疑心を煽る。

「命の恩人だ」

それだけ短く答えると、真澄はそれ以上は語らないということを逸らした視線から聖に分からせる。

「分かりました」

心に引っかかりを覚えながらも、そう短く答え真澄の言う用件を聞いてきたところだった。



バックミラー越しに助手席の女に目をやる。
女は所在なさげに下唇を人差し指で弄んでいたが、ふいに気配を感じたのか鏡越しに目を合わせてきた。
聖が目線を逸らすよりも早く、ニッと口角を上げて笑うと、なんでもないことのように言う。

「で、あなたがシャチョーのヤバイもの処理係のヒジリさんね。ヒジリって名字?名前?」

あまりのことに聖は再び言葉を失う。

『ヤバイもの処理係……』

一体、真澄は自分のことをどうこの女に紹介したというのだろうか。

「名字です」

女にはいつも余裕を持って振舞うことが出来る自分にはずなのに、らしくなく愛想の悪い声を出してしまう。

「あっそ。珍しいわね。で、下の名前は?」

なんとなく、躊躇する。名前を晒すことはあまり好むところではない。けれど、乗りかかった船のようで今更偽名を使う気にもなれず、 聖は投げやりに答える。

「唐人」

「からとぉ?なに、下の名前まで珍しいのね。聖と唐人、どっちで呼ばれたい?」

どことなく、確実に自分のペースを乱す女の空気に、聖は気づかない程度に眉間に皺を寄せながら、短く答える。

「どちらでも、あなたの好きなように……」

女はそんな自分の空気を少しだけ感じ取ったのか、数秒黙ってこちらを見つめたあと、ボソリと言う。

「なんか、あたし、あんまり好かれてないみたいだけど、まぁ、戸籍のない者同士、仲良くやりましょうよ」

聖は再び絶句して、女を見つめる。

(真澄さまは、戸籍の件までバラしていたのか)

女が天使であることなど知りうるはずもない聖は、予想外の真澄の無防備さ、もしくはこの女への真澄の親密度に驚く。

「あ、でも、ヤバイもの処理係ってことはさぁ、あたしもヤバイものってヤツ?あ〜ひゃひゃひゃひゃ」

むき出しになった太ももをパチンと叩いて、女は笑った。

 確実に神経に触れる女だ――。

交差点を少し乱暴に右折しながら、聖は思う。






「ねねねね、どっちがいいと思う?黒と赤」

真澄の言いつけ通り、青山のブティックに聖は天使を案内し、片っ端から服を試着していく様子をぼんやりと眺めていると、 不意をつかれたように声をかけられる。
見れば、真紅のカクテルドレスを着た天使が、同じ型の黒を体にあてがい、小首をかしげてこちらを見ている。

(どちらでもあなたの好きな色を)

そう投げやりに答えようと思ったのに、なぜか目線が釘付けられるようにひきつけられ、言葉は自然に零れ落ちる、

「あなたには、黒が似合う」

その言葉に天使ははにかんだように満足気に微笑むと、

「じゃぁ、黒にする」

そう行ってフィッテングルームに再び消えていった、

「金はいくらかかっても構わん」

真澄がマヤ以外の女に、そんな言葉を使ったことに聖は何かを覆されるほどのショックを受けた。

まさか彼女は――。

そんな思いが頭をもたげた瞬間、再び思考を弾けさせるような声が響く。

「ねぇねぇねぇ、このバック超かわいくない?お揃いでマヤちゃんの分と二つ買ってもいい? あたしは白がいいけど、マヤちゃんは絶対紫だよねぇ」

そう言って、小さなハンドバックを頭上で振り回すので、先ほどの自分の考えが早くも見当違いであることを思い知らされる。

 分からない、この女が分からない――。

そう思って、天使を見つめるたびに、聖は次第に視線を逸らすことができなくなるほどの、強烈な引力を感じ始める。
そして、それは、もう何年も何も感じることのなくなっていた心のある部分を、どこか苦しくさせるのだった。






日差しがいっぱいに入る、オープンカフェの一席に座ると、天使は待ち構えていたかのように、テーブルに置かれたグラスの水を 一気に飲み干す。晒された白い喉元が、上下に動くのを見ているだけで、なんともいえない感情に襲われ、 聖は慌てて目を逸らした。
平日の午後の表参道は、まばらな人影だ。けれども、影の存在である自分が、このように昼間から変装もせずに、偽名を使わずに 接する女とオープンカフェに座っているというシチュエーションが、あまりに普段の自分からかけ離れ、聖は思わず苦笑を浮かべる。
そんな聖の様子を見つめながら、天使は言う。

「こういうとこ来るの初めて?」

まるで瞬間的に思考を覗かれたようで、聖は驚きのあまり言うべき言葉を探す。

「あたしも、初めてだよ。見たことはあったけど、ちゃんと座ってご飯なんか食べるのは、初めて。なんか、嬉しいなぁ〜」

無邪気にそう笑う。
からかっているのか、本心なのか、聖は考えあぐねる。

「名前は?……あなたの名前……」

聖の口から初めて天使に対する問いが零れ落ちる。天使は両肘をテーブルの上につき、組んだ両手の上に軽く顎を乗せると、 照れたように答える。

「杏樹……」

「あんじゅ……」

聖はそれを飴玉を転がすように、口の中で確かめるように一度だけ呟く。

「エンジェルみたいですね」

思いついたように聖がそう初めて笑顔を見せながら言った瞬間、天使は驚いたように大きく目を見開き、息を止めた。

6月の風が、ただ、その黒い髪を優しく撫でていた……。






すっかり日も沈んだ頃、二人を乗せた車は湾岸に向かって走る。

「海が見たい……」

という天使の一言に聖はだまって頷いた。
行きがけの車内で感じた気まずい息苦しさとは、別の息苦しさが横たわり、二人の胸を不器用に苦しくさせる。



「こういう展開困るのよのねぇー」

一度だけ、天使が窓の外に向かってなんとはなしに呟いた言葉だった。



港の近くで車を止めると、目の前に広がる夜景に、天使は目を輝かせる。

「あたし、夜景って好きなのー。むこう……、あ、あたしの生まれ育ったところね、むこうには、無いから……。 一つ一つは大したことないのに、こうやって束になって遠くから見ると、ものすごいパワーで迫ってくるじゃない。 そこが好き」

うっとりしたように目を細める。
港の近くは夜にもなると容赦なく夜風が吹き抜ける。出掛けの服は途中のブティックで脱ぎ捨て、着替えた買ったばかりの 黒のホルターネックのワンピースは、無防備に背中を夜風に晒す。
浮き上がった背中の美しい骨に触れてみたい、そんなふうに 聖の思考がさまよった瞬間、 ビクリと悪寒が走ったかのように、一瞬肩を震わせ、天使が小さなくしゃみを2回する。聖は黙って上着を脱ぐと、 長身のくせに異常に華奢なその肩にそっとそれをかけた。
戸惑ったように天使は聖を見つめ返すと、不器用に笑う。

「優しいのね。さすが、女に慣れてる」

からかうようにそう言って、手繰り寄せるように上着の胸元を交差させた手首で、ぎゅっと握り締めた。

「慣れていませんよ」

まっすぐにそう聖に見つめられ、天使は曖昧に視線を逸らす。

「だから、こういう展開、困るのよ……」

力なく呟いた声が夜風にさらわれる。
ほぼ同じ目の高さにある聖の顔をもう一度だけ見ると、自然と左手がその長い前髪に伸びる。

「髪、触ってもいい?」

向き合った体勢の至近距離で、天使の声が囁くように聖の耳に届く。
返事の代わりに聖はただ黙って、射るように天使を見つめ返す。震える天使の指先が、聖の柔らかい長い髪の間を通っていく。
そっとその前髪を持ち上げ、覗いた瞳に呟く。

「きれいな瞳をしてるのに、どうして隠すの?」

「誰かに見つけて欲しかったから……。それまでは、誰にも見せずに、誰とも目を合わせずに生きてきました。 私はそういう生き方しか許されない人間だから……」

どちらからともなく、近づく距離。
唇が触れ合ってしまうまで、あと1秒……。

その瞬間、けたたましく鳴り響く携帯の呼び出し音が 二人の間の空気を切り裂いた。

弾かれたように正気に返った聖が携帯電話を手に、天使に背を向けると、途端にあたりの空気が冷めていくのを二人は容赦ない 温度差の中で感じる。

「なんですって、マヤさまがっ?!」

聖のらしくない取り乱した声に、天使が慌てて振り向くと、バランスを崩した体勢から逃げるように、 聖のジャケットが肩から滑り落ちた。


6.15.2003








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