天使の休日 7
「やっと捉まった……」

穏やかな低い優しい声。

「ありゃま、捉まっちゃった」

とりあえずおどけてそう答える。

「あなたに会いたい」

はぐらかされることを想定してるのか、逃げられないほどに聖はストレートに切り込んでくる。

「会わないほうがいいよ」

出来るだけ感情を込めずにさらりとそう言い返す。

「なぜですか?」

その切なげな声が、何よりも切なく、心を掴むように締め付ける。

「ほら、あたし、出所不明の女だし、正体不明の女だし……」

語尾を上げる口調で、冗談でも言うようにそう答える。

「戸籍がないのはお互い様でしょう?それに私は、あなたがどこの誰でも構わない。また、過去の あなたがどこの誰であっても構わない。今のあなただけを見ています」

その言葉には、常に流浪の身である自身の哀しみやるせなささえも漂う。 今が全てであるという人生しか選択できないという、その特異な哀しみが……。

「あなたは私に会いたくないのですか?」

どれほど誘っても素直になびかないことが分かると、聖は質問という形で、天使から言葉を引き出そうとする。

会いたくないわけがない……。

胸を押し上げる塊のような思い。荒く呼吸をしながら、なんとかそれを砕くようにして押し戻す。

「今日はだめ。これから、マヤちゃんをシャチョーのもとにデリバリーするから」

砕いてしまった気持ちを少しも滲ませないように、明るい声を装う。

「まったくねぇ、あの二人、これだけアタシたちが尽力してあげたってのに、まぁだ、痴話喧嘩とかふざけたこと やってるのよ。世話が焼けるったらありゃしない。ま、とにもかくにもですね、あたしとしては きっちり二人の幸せな姿を見届けないことにはですねぇ、もう死んでも死に切れないぜチクショーな心境なわけで、 最終ラウンドをこれから戦わねばならないんですよ」

どこまでが本気でどこからが冗談なのか、巧みに境界線を曖昧にさせながら、得意の話術で天使は全てを煙に巻こうとする。

「なぜ、あなたがそこまであのお二人に尽くすのですか?」

素朴な疑問のように、それは聖の口からこぼれ落ちる。

「責任……かな……。
アタシが悪戯に動かしてしまった人の人生が、少しでも幸せであるように、いつまでも幸せであるように、 そう祈る気持ちがアタシにはあるから……」

少しも冗談を挟まない、天使のその声は清らかに聖の耳を洗う。

「あの二人が好きなの。大好きなの。あんな二人は他にいないわ。あの二人を傷つける全てのものから、守ってあげたいの。 あなたも同じでしょ?」

突然同意を求められ、聖は戸惑う。

「ええ……」

そう短く答えると、フフフと天使の笑う声が聞こえる。

「あたしたち、似てるね。
戸籍ないでしょ、怪しいでしょ、ヤバイ仕事してるでしょ、あの二人が大好きでしょ。あ、そうそう、背も馬鹿デカイしね」

そう言って、クスクスと笑う。

「こりゃ、気があっちゃってもしょうがないかぁ〜?」

冗談のように言う。冗談のように、決して冗談にもならないことを言う。

「さてと、杏樹さんは、そろそろ宅配のお時間です。じゃーねっ」

明るく言う。けれども、その明るさは軽い拒絶を含んだ明るさで、聖はかける言葉も失う。

「電話くれてありがと。声が聞けて嬉しかった」

それだけ早口に言うと、聖が何か言う前に天使は受話器を置いた。
唐突に切られた二人の空気が、パラパラと割れたガラスのように落ちて来る。切れてしまった電話の受話器の上にいつまでも 手を置きながら、何度も深呼吸して、割れたガラスの刺さる痛みに天使は耐えた。






「マヤちゃん、マヤちゃん、明日からは速水マヤの北島マヤちゃんっ!」

いまだ、クッションを抱きしめたまま床の上に座りこんでいる、マヤを天使は無理矢理立たせる。

「独身最後の夜、天使のオネーサンとデートでもしませんか?」

突然の天使の提案に、マヤは目を白黒させる。

「きちょーーーな、独身最後の夜、家でクッション抱えて、速水さーーーんなんて叫んでるなんて、ダサいわよ。あぁ、もぉ、ダッサダサ! ねねね、ここは一つ杏樹のおばちゃまと楽しく行きましょうよ。ねねね?!」

相変わらずのあっという間に人を引き込んでしまう話法に、マヤは笑い出す。

「杏樹さーん、どっか連れてって!」






「先に行ってちょっくら野暮用を済ませてから行くから、7時半にメタクソお洒落してここに来てね」

そう言って、天使はマヤにレストランの地図を書いて渡す。一緒に出かけられないことに途端に不満を表したマヤに対して、

「結婚祝いのプレゼントぐらい、ご本人の居ないところで選ばせてちょーー!」

と言ってなだめた。



午後7時。約束通り、天使はレストラン・アルポルトの門をくぐる。
奥のテーブルには、待ち構えていたかのように真澄が待っていた。

「マヤは?」

天使の上着を脱がせながら、すぐにそう真澄が口走ると、

「かーーーっ!開口一番それですかい!」

呆れた声で天使が叫ぶ。

「来るわよ、ちゃーんと来ますわよっ! でもね、あまーいお二人の時間の前に、わたくし、ちょっと色々申し上げたいことございますので、 耳かっぽじって聞いてくださいよ」

黒いジャケットの下は、黒い薄手のスリップドレス。恐らく下着は何もつけていないのだろう。けれども、あまりに自然体なこの 天使からは一切の媚やおしつけがましい色気は感じられず、その存在感に真澄はただ感服する。
それがこの女が俗人ではなく、結局のところ天使たる所以なのかもしれない、そんなふうに思いながら…。

「聖とはどうなってるんだ?」

急に形勢逆転を装いつつ、からかうように真澄が尋ねる。

「っ!!」

アペリティフを喉に詰まらせ、天使は咳き込む。

「な、なに?誰から聞いたの?っていうか、なに、どこまで知ってるのよ?!」

天使としては、田辺との一件が真澄の知るところになってしまったのかという意味での言葉だったが、 何も知らされていない真澄は、違うふうにその意味を取る。

「そこまで、深い仲になってるとはね……。
俺は何も聞いてない。ただ、聖の気持ちだけは知っている」

そうやって意味深に真澄は天使を見つめる。

「あいつは本気だぞ」

「知ってるわ」

グラスの口の部分を親指と人差し指でなぞりながら、俯いたまま天使はあっさりと答える。 続きの言葉が聞けるのかと、黙って真澄が待っていると、それは全く違う方角から来たかのように響く。

「明日ね、あなたたちの式のあと、帰るの、あたし」

唐突に、切り落とされたその言葉に、真澄は一瞬、言葉を失う。

「善行が認められたのか?」

真澄のその言葉に訝しげに眉間に皺を寄せると、天使は思い出したように、またあっさりと言う。

「あぁ、あれね、ウソなの。追放なんかされてないし、お仕置きだって受けてないの。言ったでしょ あなたたち、昔は一つのものだったから、問題なしだって」

あまりのことに真澄は顎が外れそうになる。

「なっ!!君、それじゃあ、何しに……!!」

「一年に一回、一週間だけ有給休暇取れるのよ」

抑揚もなく淡々と天使の言葉は落ちていく。

「人間界でも、天上界でも、まぁ、行く人いないけど、地獄でもどこでも行っていいの 。それで、なんだか、見てたらあなた達、結婚間近 だっていうのに、まーだゴチャゴチャゴチャゴチャやってるから、心配になって来ちゃったのよ。1週間休み取って」

そこまで言って天使はアペリティフのグラスで軽く唇を一度濡らすと、まっすぐに真澄の瞳を見て言う。

「一年に一回しかないお休みなんだから、家族の待ってる天国の田舎にでも行けばいいのに、心配になって 来ちゃったわよ」

真澄は言葉を失う。言うべき言葉が見つからなくて、言葉を失う。

「あたしが、勝手にいじくっちゃった人生、ちゃんと幸せに生きてもらいたくて、来ちゃったわよ。もぉ、 あんまり心配かけないでよ……」

「そうだったのか……」

ようやく真澄の言葉が小さくこぼれる。

「明日の式が終わったら、タイムアウト。バタバタバタ〜って飛び立たせていただきます。だから……」

そこまで言って、天使は今まで真澄に一度も見せたこともないような表情で俯く。

「だから、あの人の気持ちには応えられない……」

「それでいいのか?」

愚問だと分かっていてつい真澄はそんなことを口走る。

「天使だから……。
あたしは、天使だから、そんなことで躓いてちゃ、空も飛べません」

そう言って頬の筋肉を震わせながら、不器用に微笑んでみせた。

「それに……、天使は恋なんかしないのよ。しちゃいけないんだから……」

まるで自分に言い聞かせるように呟くその言葉は、アペリティフで濡れた唇から静かにこぼれ落ちる……。


6.16.2003








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