| 月が見えない夜は 3
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| written by lapin
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「開きましたよ!」
びっしょりと汗をかいていた。白昼夢のように生々しい映像の余韻が、じっとりと体中にへばりついている。スタジオの中は騒然としていた。 「マヤちゃん、マヤちゃん」 共演者が腕の中のマヤに必死で呼びかけている。 嘘だ。こんなことがあってたまるか。 駆け寄ると、乱暴に彼女を抱き取る。脈に触れる。微かだが脈はあった。 「それが、歌っているときから彼女、様子がおかしくて。何か具合が悪そうだったんですよ」 共演者が血相を変えた俺の様子に怖気づいたのか、ぼそぼそと言う。 「至急、救急車を呼んでください。それから、そのポットと湯呑みに触れないでください」 スタッフが息を呑んで頷いた。方々へ散って行く。俺は傍らにあったペットボトルの封を切ると、水を口に含んでマヤの口に移した。げほっと彼女が水を戻す。 「そうだ。全部吐くんだ。吐いてしまえ」 俺は辛抱強くマヤに水を飲ませ、背中を擦りながら、胃の中味を吐かせた。急性の毒物。それしか考えられなかった。すぐに対処すればきっと助かる。 頼む、生きてくれ。俺の前から消えないでくれ。 俺は祈るような気持ちでマヤを抱いていた。 ![]() 「申し訳ありません。私が付いていながら」 深く頭を下げる。 「霧島さん、顔を上げてください。あなたの処置のおかげで、大事には至らなかったと聞きました。私からもお礼を言います」 速水は落ち着いた口調で話していたが、顔色が悪かった。ひどく疲れているようだった。 「ちょっと、よろしいですか。ここではタバコも吸えない」 冗談めかして言うと、速水は病室の前を通り過ぎ、突き当りのバルコニーに出た。空いた物干し竿が何本も並んでいる。夜風が速水の髪を揺らす。手すりに両腕を乗せると、速水は空を仰いだ。半月が端正な横顔を白く照らす。 「油断していましたよ。まさか、そう来るとは」 速水が呟く。 「それは、犯人の目星がついたということでしょうか」 「…私も遊んでいたわけではありませんから。ただ、思った以上に裏がありそうです。今日のことは完全に予想外でした」 速水は眉を寄せると、苦しげに顔を歪めた。 「やはり、あなたへの怨恨の線ですか?」 速水の顔が険しくなる。タバコを取り出して、一本咥えると、ゆっくり火を付ける。闇の中に、速水の横顔が一瞬浮かび上がった。 「思い通りに生きるのは本当に難しいものです。私はこれまで数え切れないほどの過ちを犯してきました。ビジネスのために傷つけてきた相手は顔さえ覚えていません」 淡々とした言葉の中に、速水の背負っているものの重さを感じる。この男は、他人から羨まれ、妬まれ、隙があれば引き摺り下ろそうとする輩の中で、ずっと戦ってきたのだ。それは並大抵のことではないだろう。でも、俺は企業家としての速水の苦悩にそれ以上の同情はできなかった。この男がひとりで何を背負おうと勝手だ。でも、マヤには何の関係もない。 「なぜ、北島さんは狙われなければならないのでしょう?」 「なぜでしょうね。私も犯人に聞きたいくらいです。私が狙いなら、私に向かってくればいい」 激しさを秘めた、低い声で速水が言い切る。 「なぜです?なぜ、彼女が苦しむことをわかっていて、あなたは…」 思わず口走りそうになった言葉を慌ててのむ。速水が驚いたようにこちらに目を向ける。一瞬俺の目を見つめると、速水は微苦笑を浮かべながら視線を外した。しばらく黙って煙の行方を眺めていたが、やがてゆっくりと口を開く。 「私は、マヤを愛しています」 速水は静かに言った。 「私は無力な男です。背負っているものが多すぎる。身動きが取れない。それにマヤは女優です。素晴らしい天分を持っている。その才能を守るためには、私には現在の立場が必要なのです」 「大都芸能の社長という立場ですか?」 「ええ、そうです。彼女を守るためには力がいる」 違うと思った。 現にマヤを守れていないじゃないか。マヤはひとりで泣いている。おまえのために命を危険にさらされている。冗談じゃない。何もわかっていないじゃないか。 そう怒鳴りたかった。 マヤは、俺が守る。 ![]() それは真澄の結婚式の1週間前のことだった。 マヤはすでに紅天女に選ばれ、大都芸能と契約を交わして、上演権も譲渡していた。真澄に支えられてきたおかげで手に入れることができたものだった。彼に差し出すことに躊躇いは微塵もなかった。彼を喜ばせることができるなら、何でもする。舞台に立つ。女優として成長し続けられるようにどんな努力もする。そうすれば、彼は見ていてくれるから。たとえ、それが舞台の上の自分でしかないとしても、彼の心の中に小さな場所を占め続けられる。それ以外の場所が何で埋まろうと、そこだけは。 それが自分の愛し方だと思った。秘められた想いを一生背負い続ける覚悟を決めたとき、マヤの紅天女は完成したのだった。 紫のバラはもう届かなかった。わかっていたことだった。彼なりの激励と決別の儀式として、彼はマヤの目の前で紫のバラを踏み付けたのだ。そして、永遠に手が届かない所に行ってしまう。 だから聖から電話がかかって来たとき、マヤは本当に驚いた。もう、紫のバラの人としての真澄から接触はないと思っていた。 「マヤさん。あの方があなたにお会いしたいと仰っています。これからお迎えにあがってもよろしいでしょうか」 2回目だった。以前に一度すっぽかされたことがある。もう名乗り出る気はないのだと思っていた。なぜだろう。しかも今になって。天に昇るほどうれしい気持ちの裏で、警戒信号がちかちかと点滅していた。 聖が運転する車は、都心をどんどん離れて行く。高速に乗る。もうどれくらい走っているだろう。周囲は闇に包まれていて、民家すら見えない。 「聖さん…どこに向かってるんですか?」 聖はハンドルを握って正面を向いたまま、しばらく黙っていた。 「もうすぐですよ。ご心配には及びません。あなたが嫌がることを無理に通される方ではありませんよ。さあ、ちょうどいい時間です」 正面に眩しい光の洪水が近づいてくる。何もない所に突然現れた広大な敷地。聖は車寄せに車を滑り込ませた。そこは、空港だった。 「あちらにいらっしゃいます。さあ、遠慮なさらずに」 聖に軽く背中を押され、こちらに背を向けてロビーの椅子に腰掛けている後姿にゆっくりと近づいていく。コートに包まれた広い肩。柔らかそうな髪。あの人だ。決して間違えたりしない。 「おまたせしました。北島マヤです。今まで本当にありがとうございました」 彼の少し後ろで立ち止まると、そう声をかけて深く頭を下げた。彼が立ち上がり、正面に立つのが見えた。リノリウムの床の上で靴が黒光りしている。 「マヤ…顔を上げてくれ」 顔を上げた瞬間に彼が消えたら、と馬鹿な妄想が一瞬頭をよぎる。思い切って顔を上げると、彼は薄いサングラスを外すところだった。愛しい愛しいあの人が目の前にいる。一気に想いが込み上げてきて、喉までからからになる。 「というわけだ。がっかりしたか」 彼は自嘲的な笑みを浮かべると、こちらを見下ろした。ちょっと苦しげな、でも優しい瞳をしている。今まで見るたびに不思議に思ってきた切ない眼差しの正体がわかる。あれは、紫のバラの人の目だったのだ。何も知らない自分を、彼はどんな思いで見てきたのだろう。 マヤは必死で首を振った。何も言えないのがもどかしい。体が熱くなり、じわりと涙がにじんだ。 真澄は、予想に反して驚きを見せないマヤに戸惑っていた。涙を浮かべているが、拒絶の意思は感じられない。拒絶されるくらいなら最後まで影でいようと思っていた。でも、紫織との関係がこじれて、紫のバラを贈ることさえできなくなってしまった。 黙って消えることもできた。でも、水城と聖は強く反対した。真実を口にすることなく一方的に消えるのはフェアではないと。ふたりの後押しがあったから名乗り出ることにしたわけではない。真澄自身、このまま結婚して、マヤへの想いを凍結させることができるのか不安だった。こうして実際に呼び出して、手の届くところに彼女を置くと、体の中で想いが暴れ出す。忘れることなどできるのか。本当にそれでいいのか、と。何とかしなければ、と思った。彼女に拒絶されたらかえって楽になれるとも思った。死ぬほど辛い思いをするのは間違いないが…。 「座らないか」 真澄がマヤに声をかける。ふたりは並んで腰を降ろした。大きな嵌め込みガラスの向こうで、離着陸する飛行機のランプがちかちかと光る。スーツケースを持った人々が目の前を通り過ぎていく。 「速水さん、どこ行くんですか?時間、大丈夫ですか?」 やっと口を開いてくれたと思ったら、マヤは真澄の予定を心配している。緊張の対面、というムードが一気に崩れる。 「なんだ。そんなことを心配していたのか。俺は10時の便でボストンに飛ぶことになっている。ほら、あそこの電光掲示板を見ろ。まだまだだろう。せっかちだな、チビちゃん」 チビちゃんと言われて、マヤは照れくさいようなうれしいような気分になる。真澄は、意地悪で厳しい大都芸能のやり手社長で、変らず励まし続けてくれた紫のバラの人で、それで、やっぱり真澄自身なのだ。そのすべてをマヤは愛している。どちらの彼も等しく愛しい。 「せっかちって、だって、速水さん何も言ってくれなかったじゃないですか。わかるわけないでしょ。ずっと、紫のバラの人だって言ってくれなかったし。あたし、待ってたのに」 マヤの言葉に、真澄が凍りつく。 待っていた?彼女は、俺の正体に気づいていたのか? 「あたし、速水さんに名乗り出てほしくて、いろいろ言ったと思うんですけど。全部無視されてましたけど」 マヤが膨れる。そう言えば、思い当たることはいろいろある。そのたびに、まさかと打ち消してきた。マヤが知っていたとして、なぜ怒らないのか。母親の敵に一方的に援助されて迷惑だ、と怒鳴り込んで来ないのだから、知っているはずはないと思い込んでいた。 「参ったな」 真澄は心からそう言うと、ため息をついた。 「どうしてですか?どうしてあたしに紫のバラを贈ってくれたんですか?今回名乗り出てくれたんですか?」 マヤはずっと疑問に思っていたことを口にした。真澄の横顔が見る見る強張る。マヤは慌てて言葉を重ねた。 「あ、別にいいです。嫌なら応えなくても。あたし、本当に感謝してます。速水さんがどういうつもりだったとしても、あたしの気持ちは変わりません。あなたのおかげで女優になれた。紅天女になれた。あたしのすべてを速水さんがくれたんです」 そんなあなたを一生愛します。そう心の中で付け加えると、マヤは真澄を一心に見つめた。少しでも気持ちが伝わることを願いながら。 マヤの言葉に胸が熱くなる。 一生理解されなくても、彼女の力になれるならそれでいいと思っていた。見返りを求めたことはない。でも、こうして直接マヤから感謝の言葉を聞くと、今までの歳月が走馬灯のように脳裏を駆け抜け、どんな小さな出来事も、そのすべてが物凄い速さでこの一瞬に向かって収束していくのを感じる。圧倒的な感動だった。ハッピーエンドに違いなかった。でも、その影でじわじわと広がる痛みに気づかないふりはできなかった。これで本当にお終いなのか? 「そうか。よかった」 真澄はぽつんと言うと、固く目を閉じた。 マヤは少しがっかりしていた。嫌なら応えなくてもいいと確かに言ったが、本当は真澄の心が知りたかった。実際に聞いたら、しばらくは立ち直れないほど落ち込むかもしれないが、それでも知りたかった。 「速水さ…」 マヤが声をかけようとした瞬間、真澄が目を開いた。怖いほど真剣な目でマヤを見つめる。 「俺は、今日から5日間出張でボストンに行くことになっている」 マヤが不思議そうに真澄を見つめる。話が見えなかった。 「先方の都合で延期になったんだ。数時間前に連絡が入った。このことを知っているのは水城君と俺…そして君だけだ。俺は、5日間この世界から消える」 胸が激しく動悸してくる。まさか…。不安そうに揺れるマヤの瞳を見つめながら、真澄は言った。 「一緒に消えてくれないか」 2003.08.09 |
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