| 桜の花の咲くころに… 3
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日本庭園を望む、ホテルのティールームで二人は向き合っていた。
「お元気そうですね…。TVでも舞台でも大活躍ですわね」 全く刺のない声でそう言う紫織をマヤは、眩しいものでも見るように見つめてしまった。改めて見ると、本当に綺麗な人だと思う。目も鼻も口もその全てが付くべき場所に付いている、というようなとても完璧な美しさだと…。 「でも…、少しお痩せになった?」 その美しい顔が心配そうに、少し歪んだのでマヤはまた困ってしまう。この人に心配されるということが、あまりにもあり得ないことに思われて、どう答えていいのか分からず困ってしまう。 「あ、はい…。舞台稽古が今、厳しいんで…、ちょっと、痩せちゃったかもしれません…。あ、でも、体はすっごい元気ですんで…。 し…紫織さんも、お元気そうで、何より…」 一言ごとにまるで小石にけつまずくようで、少しも滑らかに会話が進まないことにマヤは戸惑う。 「お久しぶりですね…、一年ぶりぐらいかしら…」 穏やかだが確実に核心に触れる紫織のその言葉に、マヤはいよいよ体がガチリと音をたてて固まってしまったような気がする。 「お二人はご結婚なさらないの?」 あまりにストレートに切り込んできた紫織のそれに、マヤはすすっていたアイスティーを喉に詰まらせる。 「えっ…、あ…、あの…け、結婚なんてそんな…」 あまりにマヤが狼狽するので、紫織はクスクスと笑い声を立てる。 「あなたって本当に面白い方ね。舞台の上ではあんなに堂々としていらっしゃるのに、降りてしまえば、こんな些細なことを聞かれただけで、ちゃんとお話も出来ないほどに取り乱してしまうんですもの…」 そう言ってまたおかしそうに笑う。マヤは一緒になって笑うべきなのか、それともここは笑うべきところではないのか、思案するような表情で固まっていると、紫織はハンカチで目じりに浮かんだ涙を拭いながら、慌てて言葉を繋ぐ。 「あら…、ごめんなさいね。決して意地悪で言った訳ではないのよ。こんなこと、わたくしが言っても、あなた信じて下さらないかもしれないけれど…。 でも…、わたくしがあなたに意地悪を言う理由も、もうないですし…」 『意地悪』という言葉の持つきつい響きとは裏腹に、そこで紫織がどこか寂しそうな表情をするので、マヤは正直にやはり聞いてしまった。 「紫織さんは…?紫織さんは、ご結婚なさらないんですか?」 「しますわ…」 あまりにあっさりと返されてしまって、マヤは言葉を失う。 「え…、えっ…、あの…、紫織さん、け、結婚なさるんですか?」 馬鹿みたいに結局同じ質問をもう一度繰り返してしまう。 「今日もその方とこちらでお会いしていたのよ…」 なるほど、紫織のその洗練された美しさは昼下がりの休日のホテルによく似合っている。きっとお茶でもしたところだったのだろう。 「そ、そうなんですか?あ…あの、お相手の方は…」 聞いてしまったあとで、マヤはしまったと思う。自分などが口を出すべきことではなかっただろうに…。しかし、紫織は少しも嫌な顔をせずに淡々と答える。 「わたくしのお相手になる方が、おじいさまが見つけてきたお見合いの相手以外にいらっしゃるわけないじゃないですか…」 その口調がどこか少し投げやりで、そしてそのあとの表情に陰りが差したので、マヤは胸に痛みを感じた。どこか、哀しい胸の痛みを…。 「いい方なのよ、とっても…。お優しくて、誠実で、お家柄も申し分なくてね…」 マヤが返答に困っているのを察して、紫織は相手を肯定する事柄を述べていく。 「そ…、そうですよね。紫織さんほどの方と結婚なさる人だもの、きっと物凄い素敵な方なんでしょうね」 嫌味でも、お世辞でもなく、それはマヤの本心から出た言葉であったが、どこか白々しさが漂ってしまったのに、さすがのマヤでも気づいた。けれども、紫織は聞こえていないかのように、淡々と言葉を繋いでいく。 「真澄さまほど、ハンサムではないけれど…」 呟くように何気なくこぼれた、『真澄』という言葉に、マヤの奥歯がガチリと噛み合う。 あれほど真澄のことを愛し、婚約までしていたのだ、そう簡単に忘れられるわけなどないのだ…。今まで、会わないのをいいことに、直接知る機会がないのをいいことに、ずっと目を背けていた事実を目の前に晒され、マヤは言うべき言葉も見つからず、膝の上で組んだ両手の指を何度も組替える。 「最初のころはね、『真澄さまと結婚できないのであれば、誰としても同じ』と思い込んで、誰彼構わずお見合いしていたんですの。どうせお相手にとっても、必要なのは私個人ではなくて、『鷹宮』という家でしょうから…。誰と結婚しても、きっと大差ない良家の平凡な日常が待っているのだから…と」 マヤに話し掛けるというよりも、まるで自分自身に呟くように紫織は話し出す。持ち上げたティーカップが傍目にも分かるほどに震えるのに気づいたのか、口も付けずに再びそれを受け皿の上に戻す。 「わたくしの今のお相手の方、真澄さまとまるで違う方なの…」 「違う…?ど、どういうところが?」 思ったままにマヤは口にする。 「そうね…、一番の違いは、わたくし以外に好きな方がいらしゃらないということと、わたくしだけを愛してくださっているということかしら…」 あまりにもサラリと核心部を晒す紫織に、マヤは言葉を失う以上に、放心する。 「わたくしね、今でも真澄さまのこと、忘れてないんですの。きっと、今でも愛しているんです…」 紫織はまっすぐにマヤを見つめて言う。けれども、そこにはいつか見たようなの攻撃的な色は少しも含まれていなくて…。 「そうしたら、その方にこう言われましたの。 『忘れる必要はないから、思い出にしなさい』って…」 マヤは頭の片隅で、まだ見たこともないその人物が穏やかに微笑む様子を思い浮かべる。 「その方にね、わたくし何もかも話したんです。真澄さまとのこと…。手首を切ったことまで…。今まで誰にも話したことがなかったのに、その方には聞いて欲しくて話してしまったの。もしかしたら、この縁談も断られるかしらなんて思いながら…。 そうしたらね、その方、こう仰ったんです。 『本気で恋をしたことのあるお嬢様は初めてだ。ずっとあなたのような方を探してました』 って。それから、こうも仰ったの…。 『恋も二度めならもっと上手に出来ますよ。それから、一人でする恋よりも、二人でする恋の方がずっと楽しいから、恋をしませんか』 って…。フフフ、面白い方でしょ。お見合いをしたら誰も彼も結婚することしか考えていないのに、その方は『恋をしましょう』って仰ったのよ…」 紫織はそう言って、フフフフフと心地良さそうな笑い声を立てる。 「紫織さん、変わりましたね…。なんだか、とっても素敵です…。 あ、あの、これお世辞とかそういんじゃないですよ」 マヤは言葉を知らない自分の表現力の乏しさが、こういう時ほど情けなくなる。 「恋は女を変えますから…。良くも悪くも…」 紫織は静かにそう言うと、冷めかかった紅茶をようやく口に運んだ。マヤはその言葉の意味を何度も心の中で繰り返したあと、思い切って話題を変えるように訊ねる。 「それで、お式はいつなんですか?」 「いつなのかしらね…」 予想外の紫織のその言葉と悪戯っぽい笑みに、マヤはあっけに取られる。 「え…、あの…、いつって…?」 「今日もね、正式にプロポーズされたのだけれど、断ってしまったの」 「えええっ?!」 マヤは、ティールーム中に響き渡るような奇声を上げてしまう。 「え、だって、紫織さん、さっきも結婚なさるって仰ってたじゃにですか。それに、そんな素敵な人がお相手なのに、断ったって…、な、なんでですかっ?」 ティーカップをゆっくりと受け皿に戻しながら、紫織は節目がちに笑う。 「あら、わたくし結婚しないなんて、言ってませんわよ」 ますますマヤは訳がわからなくなる。 「だってその方が『恋をしませんか』なんて仰るから、もう少し恋をしていたいな、と思ったものですから…。それから…」 そこまで言って、紫織は、これはもういいことだけれど…、となぜか曖昧に誤魔化し、視線を遠くへやった。 そこでマヤはようやく気が付いた。 紫織は待っていたのだ。 ━思い出に変わるまでを…。 「でもわたくし、今、決めました。今日にでも、その方にお返事しますわ」 マヤは今度こそあっけに取られ、目を白黒させる。 「し、紫織さん…?」 「だって、このままだとマヤさんと真澄さまにまで、先を越されてしまいそうなんですもの。そうはさせませんことよっ…」 言葉ではとても強がりを言ったのに、なぜかその語尾は震えてしまうのを紫織は隠せなかった。 その紫織の精一杯の強がりと、全てを今この瞬間に思い出に変えようとするそのけなげな努力を、マヤは同じように恋に不器用な女として、散っていく花を眺めるような物悲しさでもって、見つめていた…。 ![]() 「今日ね、紫織さんに会ったの…」 真澄のマンションのソファーの上であぐらをかいたようなポーズでマヤは言う。上着だけ無造作に脱ぎ捨て、グラスに氷を落していた真澄の手が止まる。 「あ、偶然なんだけど…」 付け足すようにマヤはそう言うと、なんとなく気まずく、無意識に右手でさすっていた左手中指の指輪に目を落す。 真澄はゆっくりと二つのグラスを持ったまま近づくと、そっと隣に腰掛け、おもむろにウイスキーで一度唇を湿らせたあと、口を開く。 「それで?何か言われたのか?」 マヤは受け取ったエヴィアン水の入ったグラスを、口を付けるのを躊躇うように両手の手のひらで弄びながら、言葉を探す。 「紫織さんね、すっごく綺麗だった…。前よりも綺麗になったかもしれない…」 問いの答えになっていないマヤのその言葉に真澄はため息をつく。けれども、真澄とてここで声を荒げて問い詰めるつもりはなかった。本題に入るまでに回り道をしながら、じわじわと核心部に近づいていくマヤのその話法は、計算外のものであるからこそ、時に真澄を不安にさせる。 『それで?』 言葉には出さず、目で続きを促す。 「速水さんのこと、きっとまだ好きだって…。まだ、忘れてないって…」 そこまで聞いて、真澄は思わず声を上げそうになる。 『そんなことを聞いてどうする!』 けれども、それよりも早く、マヤの口から接続詞がこぼれ落ちる。 「でもね…、忘れない代わりに、思い出にするんだって…。 『忘れる必要はないから、思い出にしなさい』って言われたんだって…、今度、結婚する人に…」 そこまで聞いて、真澄はようやくマヤの意図したことを理解する。 紫織が結婚する…。 「紫織さん…、幸せになるといいね…。 なれるよね…、だって…紫織さんだもん…!」 そう言って自分を見上げたマヤの目にうっすらと浮かんだ涙に、真澄は胸がしめつけられる。 「そうだな…」 それだけ言うと、真澄の脳裏にいつもあった、怒りと哀しみに打ち震えていた紫織の顔に、ようやく笑顔が浮かんだ。自分の犯した過ちも罪も決して消すことは出来なければ、人間は過去へ向かって生きることも出来ない。 ただ、目の前にあるのは未来だけ…。 ならば、せめてもの償いに、犯した過ちも何一つ忘れず、ともに生きていけばいい。幸せな人生の合間に時折思い出す、小さな心の痛みも、思い出という名のもとに、今ようやく、真澄の中でもふさわしい居場所をみつけた…。 真澄はマヤの左手をおもむろに取ると、指輪の光る中指を長い指でなぞる。 「細い指だな、まったく…。どうして君は7号が中指に入るんだ?」 少し怒ったような、不服そうな声で…。 マヤの誕生日に贈ったアメジストの指輪。婚約の意味も兼ねて、もちろん真澄は薬指用に贈ったのだった。しかし、出張先から贈ったプレゼントは直接手渡すことも出来なかった誤算もあって、次週にマヤと会った時、なんと中指にはめられていた。この時に胸の痛みと失望は、相当なものだった。 「え…、あの、入るかな〜なんて思って、中指に入れたら入っちゃって…、それで、あの…、実は…」 そこまで言ってマヤは決まり悪そうに、俯いた。 「抜けなくなっちゃったんです…」 中指をなぞっていた真澄の手が止まる。と、突然真澄はそのマヤの細い中指を口にくわえたかた思うと、指輪がきつくはまった根元から関節にかけてを舐め上げた。執拗に唾液を行き渡らせるようなその動作に、マヤは体の芯まで一瞬にして熱くなる。 「は、速水さん?!」 その瞬間、一際強く中指の関節に圧迫感を感じたかと思うと、真澄が器用に口で指輪を抜き去った。マヤがあっけに取られてその様子を見ていると、アメジストの指輪はあっという間に、真澄の手によって、薬指へと押し込められる。 「今度はもう抜いてやらないぞ。それから勝手に抜くのも許さない」 有無を言わせぬ真澄のその調子に、マヤは言葉もなく真っ赤になって俯いてしまう。けれども、何か大事なことを言い忘れてる気がして、再び顔を上げると、真澄の瞳をまっすぐに見詰めながら言葉を探す。まるで、真澄の瞳に書いてある台詞を探すように…。 「速水さん…、あの…、あたし…」 その瞬間、深夜の静寂と二人の間を流れていた甘い空気を切り裂く、電話の呼び出し音が響き渡る。 真澄はフッと苦笑を漏らすと、素早くマヤに一度口付け、耳もとで囁く。 「邪魔が入ったな。続きはあとでちゃんと最後まで聞くから、忘れるな」 悪戯っぽくそう言って、受話器を取った。 真澄の電話が終ったら…、と言うべき言葉たちを組み立てながら、マヤは薬指に居場所を見つけたその細い指輪に目をやる。居場所が一つ隣にずれただけなのに、前とは違う輝きを放っている気がした…。 その瞬間、めったに動揺など見せない真澄の声が、響く。 「なに?オヤジが危篤っ?!」 驚いて振り返ったマヤの目には、ただ言葉を失って立ち尽くす真澄の姿が現実のものではないように映った。 4.7.2003 |
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