太陽と月に背いて 12
待ち合わせまであと10分。

ウインドウに薄く映った自分の前髪に手をやる。今まで特になにも考えずに、真中で分けていた分け目を、ドラマで担当になったヘアメイクの人に、

「長さを変えなくても、分け目を横に持ってくるだけで、大分印象変わるよ」

と言われ、少しずらしてみた。なるほど、斜めになった前髪はなんだか大人っぽく、少し違う自分な気がした。



待ち合わせまであと5分。

薄く映る自分の向こうに見える、ウインドウの中で輝く透明な石に視線が移る。
白い正方形の台座の上に鎮座する、銀色の細いリング。中央には6本の立て爪によって固定された、透明な石が眩い光を照明のもとで放っている。台座の向こうには、白い小さなブーケが無造作に置かれていた。
見てはいけないものを見てしまったようで、マヤはあわてて視線を逸らした。

(指輪かぁ…)

ポツリと胸のうちで呟いてみたけれど、見てしまったものはただの指輪ではなかった。

━婚約指輪…。

指輪だったら前に一つ持っていた。下北沢の芝居小屋で芝居を見た帰り、高揚感に襲われ、路上で衝動的に買ってしまった、安物のシルバーのイルカのリングだった。宝石に興味も無く、何より自分の指には高価なものは似合わない、と思い込むマヤの小さな散財であった。けれども、一ヶ月もしないうちに、イルカはどこかへ行ってしまった。撮影の度に私物のアクセサリーは外さなければならず、そうこうしてる内になくしてしまったようだった。どこでなくしたのかも結局思い出せず、以来アクセサリーはつけないようにしていたぐらいだ。

(もしも、一生外さなくてもいい指輪だったら、なくさなくて済むのかな…)

そんなことを考える。深い意味は無かったつもりなのに、そこで思考が止まってしまう。なんの装飾品も持たない、自分の左手に目をやる。
メイクの人に施してもらった、薄いピンクのマニキュアと、指先から数ミリ伸びた長さで美しくファイリングされたそれは、自分が思うよりもずっと大人びた表情を見せていた。

(あたしの指じゃないみたい…)

そう心の中で呟いた瞬間、真澄のあの声が、耳の奥で甦る。この爪をなぞられ、『綺麗な爪だ』と言われた。そして、似合わないと否定する自分に対して、
『似合うよ…。君ももう大人だ…』
そう言って甘く肯定してくれた。

そろえた指先を少し、手の甲に向かって反らしてみる。
細くて小さなその指先は、前よりも美しくなった分、寂しそうな顔をした。



「待ったか?」

いつまでたってもそんな風に声をかけられることに、慣れる事が出来なくて、後ろから聞こえたその声にマヤの心臓は飛び上がる。

「いえ、今来たばっかりだし…」

そう言って、約束時間よりも勝手に早く来てしまったことを、少し恥ずかしく思いながら、定時にやってきた真澄を迎えるのも、もう片手の数では数えられない数になった。
俯くマヤの表情がいつものはにかんだ表情だけではないのが、なんとなく気になって、真澄はマヤが見ていたウインドウに目をやる。

(これか…)

すぐに合点がいくと、思ったままのことを声に出してしまう。

「欲しいんだったら、買ってあげるよ」

気軽過ぎる優しさは時に短絡的で、残酷であることに真澄は気がつかない。マヤは一瞬大きく目を見開いたあと、すぐに真澄から目を逸らす。

「…いりません。欲しくないです…」

もっとさり気ない言い回しができればいいのに、言葉を探す前にそれはこぼれ落ちてしまった。

「でも、見ていたんだろ?綺麗じゃないか、君も指輪ぐらいするといい。せっかく綺麗な指をしているんだから」

そんな風に誉められても、嬉しいどころか、涙が出るほど胸が痛いことに、マヤは動揺する。自分の胸の痛みだというのに、こんなに簡単に真澄の一言に傷つく自分にショックを受けたぐらいだ。

「…速水さん、分かりませんか?
これ…、婚約指輪ですよ。あたし、こんなの出来ません…」

マヤのその言葉に、真澄は心臓を一瞬誰かに掴まれたような思いがする。自分の不用意さに腹が立ち、カッと血が熱くなるのを感じた。

「他の指輪でも、君が欲しいものだったら…」

急いで口を突いて出てきた言葉も、マヤの余計に傷ついたと言わんばかりの表情にかき消される。

「…いえ、指輪は結構です。私、普段から指輪なんてしないし、色々、噂になっても困るし…」

そこで一瞬俯きかけたマヤは、貼り付けたような笑みで付け足す。

「それに、ほら、あたし、よく無くすから…。自分で買ったイルカの指輪さえなくしちゃったぐらいで…、あの、こんな高価なもの、貰ったら大変です…」

そう言って、ここは笑うところですよ、と無理に誘うような笑みを浮かべるが、ついに真澄は笑い返すことができなかった。





食事に入ったレストランで真澄はさり気なく、切り出した。けれどいくらさり気なく切り出したところで、それが天気の話をするような気軽さで二人の間を通過することはあり得ない話題であった。

「これから会う時は、もう少し一目につかない場所に限定したほうがいいだろう…。
君のドラマも好調なようだし、クールの間はスキャンダルは避けたほうがいい」

自分を思いやるような真澄の言葉ではあったが、その瞬間にマヤは、体のどこかが一瞬ぎゅっと縮んだ気がした。どこかはわからないけれど、確かな痛みを持って。

「…何か、あったんですか?」

真澄の方は見ずに、グラスを支える自分の手元だけを何度も瞬きしながら見つめて言う。真澄もその瞬間、体のどこかが痛みを持って縮んだ気がしたが、予め用意しておいた答えを急いで述べただけだった。

「何もないよ…。ただ…、君を余計なトラブルに巻き込みたくないだけだ」

「そうですか…」

そう言って頬の筋肉を少し上げて見せたマヤの笑い方を、寂しそうな笑い方だ、と思った途端に真澄の胸がしわりときしんだ。

(いつから自分はこんな笑い方をこの子にさせるようになったのか…)

ワイングラスに添えられた小さなその手を衝動的に掴んでしまいたくなるが、なぜかそれが出来なかった…。

その瞬間、出来た脳裏の隙間に昨晩のあの不気味な笑い声が入り込む。

ククククッ。

「夫の不貞も知らずに、私が暢気に夫の帰りを家で待ちわびているとでも思っていらっしゃったのですか?お生憎さま…」

その様子はまるで何かが壊れてしまったかのようで、また、外れ落ちた扉の向こうから別の人格が顔を出したかのようでもあった。

「でも、ご心配なさらずに…。あなたを困らせるようなことはしませんわ。
だって、それは『不倫』でしょ?そちらは『愛人』でしょ?あなたの家庭は『こちら』で、あなたの妻は『私』なのですから…」

そう言ってまた、クククッと不気味な笑い声を立てる。真澄が硬直したまま言葉を失っていると、紫織はピタリとその笑い声を止め、くるくると動かしていた視線も止め、低い声で言う。

「あら…、やっぱり本当でしたの…。調べる手間が省けましたわ。
お相手は聞くまでもなく分かっていることですしね」

そう言って、調子の外れた声でまた笑い出す。

クククククッ。

トランプのジョーカーの笑い声は仕舞いに紫織のそれと被る。

クククククッ。

「ワナニハマッタヨ」

クククククッ。



「…さん、速水さん?」

遠くから聞こえてきたようなマヤの声に、真澄は闇から引き戻されたように我に返る。

「あぁ、すまない…。なんだ?」

マヤは一瞬訝しげな表情を作るが、すぐに見なかったような振りをして話を続ける。

「やっぱりドラマってすごいですね。前に出た時の反響も凄かったけれど、今度も凄いの。毎日プレゼントとか届いちゃうんですよ、このあたしに…」

そう言ってマヤはおかしそうに笑う。

「ドラマのホームページもあって、放送のあった日なんて、二千件ぐらいの書き込みがあったりするの。あ、あたしへのファンレターもちゃんと届くんですよ、凄いでしょ?」

「どんなことが書いてあるんだ?」

ようやく陰りの無い笑顔で話をするマヤに、真澄はほっとしながら尋ねる。

「うん、なんかね、今回の私の役って、すごく現実的で、見ててみんな自分に被さるみたいなんですよ。普通の平凡な子が、ちょっとありえない相手と恋をして、結局失恋するまでのお話でしょ、だからすごく応援してくれるみたいです。
不倫なのに、みんなに応援されちゃって、なんかいいのかなって、思いますけれど…」

そう言ったあと、思わぬことを口走ってしまった気まずい空気が一瞬流れる。

「金子はなんと言ってる?」

舵を取り直すような調子で真澄が振る。

「あ、金子さん?うん、最初は凄く心配してくれて、迷惑かけちゃったけれど、今はいいかんじですよ。厳しいのは相変わらずだけど、凄く上手にあたしのこと撮ってくれます。
ドラマって舞台のような、一つの時間がずっと流れていく緊張感がなくて、よくタイミングとかわからなかったんだけれど、瞬間瞬間で演技するコツみたいなの、金子さんに教えてもらってます」

演じるということに対して、随分と大人びた意見を言うようになったマヤに真澄は目を細める。

「頼もしいな…」

そう言って優しい笑顔で笑いかける真澄に、マヤはまた心臓がドキドキしだすのをやはり感じてしまう。

(慣れないなぁ、この笑顔…)

そんな事を思いながら…。

「でも、こういうのって普通なんですか?あの…、金子さん、あたしの演技に合わせて脚本変えたりするんですよ。最初は台詞が少し変わるぐらいだったんだけど、最近では流れそのものが変わったりして…。 それで…」

そこまで言うとマヤは、しばし言葉を探すように、視線を一度横にやる。

「あの…、これのエンディング、もしかしたらハッピーエンドになるかもしれない、って金子さん言ってて…」

常に視聴者の反応を意識してドラマを作る、ヒットメーカーの金子らしい、と真澄は思う。確実に数字を出す男と言われているだけある。

「金子らしいな。君の演技のせいだろう…。君の幸せな笑顔をみな、最後に見たいと読んだのだろうな…」

『幸せな笑顔…』

聞いてはいけない言葉を聞いてしまったようで、マヤ心の奥の自分でも触れられないような場所に、小さな刺がささったような錯覚を覚える。小さな小さな、けれどもチクチクと痛みを与える刺が…。

不安が一つ増えると、約束が一つ欲しくなる。
不安の重さが1mg増えると、2mgの安心が欲しくなる。

「速水さん…、さっきの指輪…。あの、指輪はいらないけれど、一個約束してくれますか?」

マヤの頼みごとならなんでも聞いてやりたいという気持ちと、何かまた突拍子もないことを言われるのではという不安に真澄は包まれる。

「なんだ?」

「あの…、2012年の5月22日、あたしと一緒に居てくれますか?」

「??!!」

あまりの唐突なマヤのその言葉に真澄はやはり言葉を失う。真澄の表情が固まってしまったのにマヤは焦り、慌てて言った言葉を引っ込めようとする。

「あ、あの、ダメだったらいいんです…。あの変なこと言ってごめんなさい…」

例によって独自の思考回路で全てを解決させてしまう、マヤのその短絡さに苦笑しながら真澄は答える。

「ダメだなんて言ってない。ただ、なぜその日なんだ?9年も先のことだから、俺には訳がわからなかっただけだ…」

マヤは真澄に断られたわけではない、と分かるともぞもぞと説明し始める。

「あのね…、その日、東京で金環食が見れるんです。速水さん天体とか詳しいから知りませんか?日食の中でも、太陽が月にすっぽり隠れちゃう金環食って、すっごく珍しいんです。それでね…、太陽の光だけが月の影からはみ出して、それが太陽のリングって言われてて…」

そこまで聞いて真澄はようやく思い当たる。マヤはその太陽のリングが欲しいと言っているのだ。どこで仕入れた情報なのか、そんなことを言い出すマヤに真澄は胸が熱くなる。今は何一つ、形にしてやれない自分のこの状況と自分自身を許せなくなる。

「太陽のリングか…。昔、子どものころ聞いた覚えがある。随分遠い未来のことだと思っていたが…」

そう言って真澄は、少し考えるように視線を遠くにやる。

『未来の約束を一つするたびに、終わりが近づいていく…。約束が一つ破られるたびに、あなたが遠ざかっていく…』

昨日、撮影したシーンの朋子の台詞がマヤの耳のなかでこだまする。

「いいよ…、約束する。君の隣で、太陽のリングを見ることを…」

そう言って真澄の右手が、今度は躊躇うことなくマヤの小さな手を包んだ。指の形を確認されるように、親指で関節のあたりを撫でられながらマヤは思う。



約束をしてしまった。してはいけないはずの未来の約束を…。

2012年、今と変わらずこの人の隣で笑っていられるだろうか。

苗字を変えずに笑っていられるだろうか…。


2003.3.27


…to be continued










Top / next