太陽と月に背いて 16
「こちらが、離婚届です…。判も押してあります」

抑揚のない声で紫織はそう言うと、その白い封筒をテーブルの上で滑らせる。
平日のホテルのティールームは、いかにも暇そうな上流階級の主婦の笑い声や、時間を持て余した若い女の声だけがけだるく漂っている。
真澄はだまってそれを受け取ると、背広の内ポケットに滑り込ませた。
先日の紫織の常識を逸脱した狂った様子は今日は見られない。真澄はそれを訝しく思いながらも、触れてはならないことのようにそこには踏み込めず、あれは何かの錯覚であったのではないか、とまで思ってしまう。

「ひとつお伺いしてもいいですか?」

真澄はだされたコーヒーにも手をつけず、紫織をまっすぐに見て言う。その瞳からは何も読み取れない。

「何かしら?」

ティーカップを受け皿にカチャリと音を立てて戻すと、口元に微笑さえ浮かべて紫織は答える。

「どうして、こうも簡単に離婚に応じる気になったのですか?話し合いという話し合いも持たずに…」

真澄のその問いに対して、紫織はクククッと小さく笑う。口の端で…。

「離婚できればそれでいいんじゃありませんの?真澄さま。理由をお聞きになるなんておかしなお方。 …でも、これからが大変ですわね。鷹宮を敵に回して、あなたに何が出来るのか。私もおじいさまもとても楽しみにしておりますのよ」

ぞっとするようなその微笑に真澄の首筋を一瞬、冷たいものが下っていく。

「特に…、あの女優…、北島マヤですか?とても、人気がありますものね、これからとても楽しみですわ」

フフフッと、口の筋肉だけで笑うその異様な笑みに、真澄は得体の知れない闇に呑まれるような感覚に襲われる。

「…脅しですか。構いませんよ、それくらいは覚悟してました。けれども、僕にしても彼女を守るということ以外に、さして重要なことがあるわけでもありませんので、思い通りにはさせないつもりですよ」

言葉に嘘はなかった。裏切られた鷹宮が、自らのアキレス腱であるマヤを標的にしてくるのは、予想できたことであった。それは過去の紫織のマヤに対する個人的な感情や、それに伴う仕打ちからも容易に想像がつく。
けれども、真澄とて自らの手でマヤを壊すぐらいなら、とマヤとともに戦う道を選んだばかりだ。鷹通との提携事業失敗後の政策固めも、ほぼ整ってきたところだ。リスクをゼロにすることは不可能でも、最小限に食い止めるやり方が真澄の頭にはすでに確立されていた。

(マヤさえ失わずに済むのであれば…)

それが全てに通じる真澄の持論であった。

「お頼もしいですわね…」

相変わらず笑みを浮かべたまま、紫織は紅茶のカップに口をつけた。その時、ホテルのフロントから呼び出しがかかる。なぜ、自分がここに居ることを知る人物が居るのか、また携帯電話ではなく、ホテルのフロントに呼び出しなのか?一瞬、訝しく真澄はそう思いながらも、フロントへと向かう。
ティールームを出たところで、向こうから急ぎ足で歩いてきた男と一瞬ぶつかったが、お互い軽く会釈し、真澄はさほど気にもとめずに通り過ぎる。
受け取った電話は、真澄の

「もしもし、速水だが…」

というその言葉を聞いた瞬間、がちゃりと切れた。



この時のこの不可解な出来事の意味を真澄が知ることになるのは、その数時間後になる。






着信音のけたたましさも着メロの煩わしさも好まないマヤは、携帯の音源はいつもオフにしている。電話がかかってきた時も、メールが届いた時も、自らの携帯はブルブルと身震いする。電話の場合は、いつまでも。そして、メールの場合は一度だけ。
今時、携帯を持っている人より持ってない人を探す方が早いというこのご時世で、人より格段に遅くそれを持ったマヤは、本来の社広範囲の狭さも手伝って、電話をかけてくる人もメールを送ってくる人も、極々一部の人間に限られていた。

ブルルル…。

鞄の内ポケットの肌に密着した部分から、振動が伝わる。
ようやく慣れた指使いで、着信したメールを開く。



『今晩9時にインペリアルホテルの1120号室で、待っている。
北島の名前で予約を入れてあるので、先にチェックインしておくこと。
少し遅れていくが、ノックを3回したら開けてくれ。
今日はこれからギリギリまで会議で電話には出れないが、
何かあったらメッセージを残しておくこと』




そっけないような文面だけれど、真澄が自分と会うことをちゃんとこうしていつも準備してくれることに、マヤは胸が熱くなる。電話よりも、メールよりも、会いたくて会いたくてたまらなく、けれどもそれが今では満たされない望みではないことを、マヤはちゃんと知っている。

「インペリアル…かぁ。行ったことないなぁ」

嬉しい時のくせで思わず独り言を呟いた瞬間、予想外の声が背中から降って来る。

「なんだか、嬉しそうね。意中の人からかしら?」

「み、水城さん?!」

背後からひょいと覗き込むように声をかけられ、マヤは飛び上がる。

「あの…、水城さんどうしてここに?」

マヤは最高視聴率39%を記録した、今季最高のドラマとして、取材攻勢を受けている真っ最中であった。この日もテレビ局のスタジオでインタビューを撮り、次の撮影までの休憩を利用して、廊下でメールをチェックしていたのだ。

「テレビ局で偶然会うなんて、この世界では驚くことじゃないでしょ。新番組のスポンサー企業との打ち合わせよ。大都が噛んでる企画だからね」

あれだけの視聴率を記録した局の看板女優になっても、相変わらずのマヤのその自然体に、水城は微笑む。
すぐ横をマネージャーが通りかかり、マヤは咄嗟に声を上げる。

「あ、小熊さん!今日の撮影9時前には終わりますよね?」

「あ〜、8時には上がれるでしょ、多分だけど…」

用があるのか足早に通り過ぎていくマネージャーの背中にほっと安堵のため息を送りながら、マヤは再び水城に向き合う。

「あ…、ごめんなさい。お話の途中で…」

恐縮してそう小さな声で言うと、水城は笑う。

「いいのよ、デートの約束?」

核心を突かれ、一瞬にしてマヤは顔が沸騰してしまったように赤くなったのが、自分でも分かる。

「え…、あの…、違…くない…です」

水城には昔から嘘がつけないマヤは、つい正直にそう言ってしまう。けれども、相手が真澄だと言わなければいい、とは思っていた。

「そう…、いいわね」

水城は穏やかに微笑む。マヤには言わなかったが水城は知っていたのだ。真澄がついに紫織との離婚に踏み切ったことと、そしてそれを紫織も受け入れたことを…。ちょうど、今日の今ごろ、その件で真澄は紫織と会っているはずだ。
長すぎた苦しいすれ違いにようやく終止符が打たれることを、水城は瞳を細めるようにして実感する。

「さてと…、社長にはますますお仕事頑張って頂かないとね!」

水城はそう悪戯っぽく言うと、背を向け、笑いながら背中越しにマヤに手を振り、時間だわ、と去っていった。水城が残していったその言葉の意味を考えれば、考えるほど、マヤはますます血が沸騰するように赤くなる一方で、味方を得たような気持ちになり、どこか心に安心が広がっていったのも事実であった。



『分かりました。9時にお部屋で待ってます。
早く9時にならないかなぁ。なんて。マヤ』




何分もかかってマヤはそれだけ打ち込むと、送信ボタンを押した…。






時計の針は8時45分。
先にシャワーを浴びて待っているなんて芸当など出来ないマヤは、手持ち無沙汰に部屋の中をぐるぐる歩き回る。真澄が押さえた部屋は、最上階のスィートだった。ベッドの端に座っていても落ち着かないので、マヤは窓ガラスの前の立つと、眩い光を放ち、眼下に横たわるその夜景に目をやる。
途端にどこからともなく、小さな不安が押し寄せる。

これは現実なのか非現実なのか…。

放っておくと、いつもの癖ですぐに先走りして悪い方へ行ってしまう思考回路にストップをかける。首元で透明に輝く、その石に触れて…。

ダイジョウブ、ダイジョウブ…。

軽いけれど、重い意味をもった、指にははめられないその指輪をマヤはぐっと握り締めた。

愛することしか知らなかった自分が「愛されること」を知ってしまった時、自分はどこまでも破壊的に堕ちていきそうになった。けれども今ならば、自分には分かる。
愛には結局、「愛すること」しかないということを…。
「愛する」「愛される」という言葉は確かにあるけれど、愛の形には「愛する」という行為しかないということを…。
「愛される」というのは、愛したことへの先の場所で結果として、偶然、自分に跳ね返ってきたものにすぎない。愛されることを求めたら、切りがない。どこまでも、どこまでも欲しくなる。完全な形になるまで欲しくなる。それは決してあり得ないことなのに…。
けれども、愛するという行為はこんなにも、自分を満たしてくれる。他人からみれば、どれほど犠牲的で、どれほど非道徳的であったとしても、与えるだけのこの愛に、マヤはようやく自分の置き場所を見つけた。

(これがあたしの一番幸せな愛の形…)

手のひらでダイアが眩いばかりの光を放つ。

時計の針は間もなく9時を指す。

携帯電話を開いてみるが、真澄からの着信はなかった…。






大都芸能社長室、午後9時。
いつもだったら、そこから明かりが漏れ、忙しく動くプリンターの音が聞こえたところで、水城は何も訝しくは思わなかっただろう。

「お先に失礼いたします」

そう一言言って、出ればいいだけのことだった。けれども、軽い驚きを禁じ得ずに水城は社長室の扉を開ける。

「真澄さま、9時ですわよ…」

だからどうした、と言わんばかりの表情でこちらを見つめる真澄に、水城はますます不信感を抱く。

「キャンセルなされたのですか?」

戸惑ったようにそう口にだしたが、戸惑ったのは真澄の方だった。怪訝そうな表情で、タバコを口にくわえたままこちらを見つめ返す。多少の苛立ちさえも、その瞳の色に混ぜて…。

「なんのことだ?」

真澄の口がはっきりとそう動いた時、その表情から水城は真澄が照れ隠しに隠しているとか、そういう状況ではないことを一瞬にして悟る。

「真澄さま…、本日9時にマヤちゃんと待ち合わせはしていないのですか?」

もはや遠回りする必要はない、水城は単刀直入に聞く。真澄はピクリと眉の筋肉を動かした後、すぐに答える。

「していない…。なんだ?なんの話だっ?!」

真澄はすでに沸きあがってきた苛立ちを隠すことなくそう答える。

「それでは、今日、マヤちゃんにメールを送られましたよね、携帯で…」

「送っていない。だいたい、今日は一度も携帯でメールなどやりとりしていないぞ。着信だって…」

そう言って、真澄が上着のあたりをまさぐった瞬間、真澄の顔色が変わる。叩くようにして、上着やズボンのポケットを順番にあたっていく。

「…ない…。いつ、落したんだ…?」

真澄の脳裏に走馬灯のように、今日一日の自分の行動が呼び起こされる。それを遮るような水城の叫び声。

「真澄さまっ!今日、マヤちゃんはあなたから、いえ、あなたの携帯からメールをもらっています。今日の9時にあなたの名前を使って誰かが彼女を呼び出しているはずですっ!!」

一瞬にして、真澄の脳裏は白く染め抜かれ、体が硬直する。
白くなった脳裏に浮かぶ、今日の紫織のあの態度。

そして…。

自らを唐突に呼び出したあの不可解な電話、そしてぶつかってきたあの男…。

 ━間違いない…

明らかにあの時、自分の携帯電話は盗まれたことを、目的を持って盗まれたことを、仕組まれて盗まれたことを、真澄は悟る。
慌てて胸元から、紫織から手渡された白い封筒を取り出すと封を切る。中から現れたのは、離婚届でも、手紙でさえもなく、ただの一枚の白紙であった。

『鷹宮を敵に回して、あなたに何が出来るのか。私もおじいさまもとても楽しみにしておりますのよ』

『特に…、あの女優…、北島マヤですか?とても、人気がありますものね、これからとても楽しみですわ』



ロビーでぶつかってきた男が振り向きざまに笑い出す。そう、あの聞きなれた卑屈な笑い声で…。



クククククッ

ドウスルツモリカナ

クククククッ


2003.4.21


…to be continued










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