| 太陽と月に背いて 6
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約束の時間より少し前に社長室にやってきたマヤを、真澄は視界の端で確実に追いながら、今済ませなくてもいいような電話を数件かける。受話器を顎に挟み、左上をホッチキスで止められた書類を、無意味に何度も忙しくめくっていた。
マヤは応接セットの革張りの黒いソファーの中央に、浅く腰掛け、所在なさげに、広げた自らの手のひらの指紋の模様などを確認してしまう。しばらくして、思い切ったように上げられたその虚ろな視線は、真澄と一度目が合うと、慌てて窓の外へと逸らされた。 (社長室は苦手だ…) そんな思いがマヤを捉える。あの日、唐突に唇を奪われて以来、一体何度その罪深い感触を思い出しただろう。あの日、目を開けたままキスを受け、そのとき真澄の肩 越しに一瞬見えた、壁にかかった青い絵や、その壁の模様に目をやると、あの日の感覚を呼び起こされる。 (この部屋は苦手だ…) もう一度、マヤは思う。 『唐突に髪を切り、ドラマの撮影及び製作に支障をきたしたことに対する責任』 それがマヤを今日ここへ呼び出したことへの、大義名分である。実際、それは問い詰めるべき事項であり、真澄自身、マヤのこの唐突且つ極端な行動に戸惑っていた。 しかし、昨日の今日である今、真澄が何よりもマヤに聞きたいことは、あの手紙の内容であった。 自分が紫のバラのひとであることを、もう随分前から知っていたかのような事を示唆するあの手紙。真澄は一体どこから話し始めれば、うまくマヤから言葉を引き出せるか必死に、脳内の色々な引出しを開けてみては、切り出すに相応しい言葉を探す。 が、結局、上手い言葉も見つからず、とりあえずは社長としてその一件に言及することから始める事をようやく決心する。 真澄は話中の電話に舌打ちをした振りをすると、乱暴に受話器を戻し、書類も無造作にデスクの上に放り投げた。顎の下で組んだ両手の指を無意識にポキポキと鳴らす。 「どうして切った? …製作サイドはカンカンだ。例え撮影が始まっていなくとも、ポスターのスチール撮影も済んで、宣伝の方もすでに入っていたのは知っていたはずだ。問題になると分かっていて、なぜそんな事をした?」 真澄の厳しい調子の声を聞きながら、マヤは問いに対する答えとは全く別のことを考える。 (昨日と今日とでは、速水さんの何が違うんだろう…) 顔も、声も、その姿も何一つ、真澄のそれらは今までと変わりないのに、決定的に違うこと…。 真澄はもう、独身ではないということ…。 それがどういうことなのか、どれほどまでに今日からの真澄を変えてしまったのか、マヤにはまだよく分からない…。 ぼんやりとした調子のマヤに、真澄は手応えがないことの焦りと苛立ちを隠し切れず、少し声を荒げる。 「勝手に髪を切った理由を言え、と言ってるんだ。なんとか言ったらどうだっ!」 マヤの瞳の中の黒い部分が、一瞬怯えた様に揺れたのを見て、真澄は大声を出した事を後悔する。 「…切らなきゃ…、切らなきゃ生きていけないと、思ったから…」 そのか細い消え入りそうな声が、この日マヤが発した初めての言葉だった。 鈍い衝撃が真澄を襲う。やっと聞き出した答えは、あまりに漠然としていて要領を得ず、真澄をますます苛立たせる。しかし、その一方で何か得体の知れないものが、じわじわと押し寄せてくるのを感じる。それは、壁のヒビに染み込んだ水が、時間をかけてしかし確実に、壁に謎の模様を浮かび上がらせるかのように…。 「意味がわからないな。ちゃんと説明しろ」 「…嫌です。そんなこと…、速水さんに言えません…」 マヤは目線も合わせず、俯いたまま、ただそう答えた。 「俺が切るなと言ったからか?それは俺への嫌がらせなのか?それ程君は、俺のことが嫌いなのか?」 冷静沈着なはずのいつもの自分は、もうどこにも居なかった。感情ばかりが先走り、言葉だけが後からついて来る。 真澄はマヤが泣き出すと思った。冷静さを失った自分の辛らつな言葉に傷つき、きっと今にも涙を零すだろうと思った。 しかし、予想外にマヤはそこで笑い出した。 「速水さん、すごいうぬぼれですね」 その笑いはつぎはぎを張り合わせたようにぎこちなく、どこか痛々しいものがあったが、涙も見せずにマヤは笑ってみせた。 「そんな速水さんの一言で、髪の毛ばっさり、なんて…。そんなこと、あるわけないじゃないですか・・・」 口角だけを無理やり吊り上げ、マヤは笑ってみせたが、その瞳は決して笑っていなかった。頬の筋肉まで震えている。そして、その視線を真澄と合わせようともしなかった。 大きく息を一度吐きながら、真澄は天井を睨んだ後、ゆっくりとデスクの前から立ち上がる。そのままマヤの目の前に立ちはだかると、有無を言わせぬ調子で言い放つ。 「立て!」 マヤはのろのろと、ソファーから立ち上がる。張り倒されるのかとも思った。 が、真澄はいきなりマヤの顎に手をかけ、上を向かせた。 「そういう事は、俺の目を見て言え」 その厳しい視線の裏に見え隠れする苦悩の表情にマヤは戸惑う。場違いだと分かっていても、真澄の指が触れた顎先だけが、じりじりと熱を持ち、体を痺れさせる。 「言ってみろ!」 無言のまま固まるマヤにとどめを刺すように、真澄は声を強くした。 ふいにマヤの体が小刻みに震えだす。壊れた防御装置は、心のさざなみを体の震えに変え、崩れた心の欠片を目から零れ落ちる滴(しずく)へと姿を変えさせる。 「…は、速水さんだって…、ホントのこと、ずっと言ってくれなかったじゃない…。紫のバラのひとだって、言ってくれなかったじゃない…!」 切り込んできたのはマヤの方だった。 本来ならば、二人がまず最初に話さなければいけないこと、確かめあわなければいけないこと…。 まるでお互い牽制しあうように、言葉と空気を選んでいたつもりだったが、ついにマヤのほうが崩れ落ちた。 「あたしばっかり喋らされて、あたしばっかり責められて、あたしばっかり泣かされて、速水さんずるいです。すっごく、卑怯です。 速水さんこそあたしの目を見て、はっきり言ったらどうです? 『バラごときで、女優のはしくれが一喜一憂してるのを見るのが、楽しかった。面白いほどに操れるのが楽しかった』 って。それとも、こうですか? 『足長おじさんから開放してくれて、ありがとう。これで安心して結婚出来る。紅天女へのいい投資だった』」 本心ではなかった。自分が何を喋っているのか、叫びながら恐ろしくなるぐらいだった。一体自分の体の、いや、心のどの部分がこんな醜いことを口走らせているのか、全く分からなかった。 (自分はいま、世界で一番醜い顔をしている) そんな思いに囚われる。 と、見上げた真澄の表情は見る見るうちに、見たこともないほどに激しく歪み、言葉を失っていた。いや、見たことはある…。ちょうど昨日の式の間に、真澄は一度だけマヤに同じような表情を向けていた。 「余計なことばかり、口走る唇だ…」 そう吐き捨てるように真澄は言ったかと思うと、顎を掴んでいた指に突然力を込め、一気に引き寄せた。 (もしかしたら、本気で、全力で抵抗すれば避けられたのかもしれない…) あとになってマヤはそんな風にも思った。けれど、真澄のその力強い腕力だけではない、抗えない見えないものに引き寄せられ、またしても真澄に唇を切り取られる。 あの一度目のキスが触れるだけのものであったとしたら、2度目のそれは激しく、奪われるものであった。唇を覆った見えない砦を取り壊すかのように、マヤの小さな唇の感覚を麻痺させるような激しさ…。頭の奥が痺れだしてきた瞬間、ようやくマヤは正気を取り戻す。 振り上げた右手が、真澄の頬の上で肉にあたる音がすると思った瞬間、マヤの手首にするどい痛みが一瞬走り、その自由を奪われる。 ようやく、唇を解き放し、上体を起こした真澄は、マヤの細い手首を掴んだまま、まるで射すくめるように見下ろす。 「2度も同じ手は通用しない。 それから、このキスもこの間のキスも、偶然でも遊びでもない。 俺は…、本気だ…」 2003.3.4 ![]() |
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