太陽と月に背いて 8
何時の間にか降り出した窓の外の雨は、夜陰が深まるとともに、雨脚の強さを増していく。アルコールという名の媚薬が全身にくまなく回った今のマヤの体には、その激しい雨音さえも心地よく、体の表面を流れていく。

「あんまり飲ませないで下さいよ、速水さん…。アタシ、お酒弱いから、帰れなくなります」

マヤはそう言っておちょこに手のひらで蓋をする。御銚子を持った真澄は、真っ赤なとろんとした表情で自分を上目使いに睨むように見つめるそんなマヤに、ニヤリと笑って言う。

「それが狙いだとしたら?」

「え?」

「だから、君が酔っ払って帰れなくなるのが、俺の狙いだとしたら?」

マヤはドクリと一回心臓が跳ね上がったかと思うと、一気に手足が冷え、酔いが覚めた気がした。真っ赤な顔で、呼吸をするのも忘れたように固まったままのマヤの様子に真澄は吹き出す。

「あぁ〜〜〜っ!!速水さんっ!また、からかいましたね!もうっ!!」

「なんだ君、すっかり本気にしたみたいだな。俺はそれでも構わないぞ」

冗談めかして真澄はそう言ったが、自分でもどこまでが本気でどこまでが冗談なのか、その境目は分からなくなっていた。

「そうやって、人のことからかってばかりいて、楽しいですか?」

そう言ってマヤは不満そうに、手のひらで蓋をしたおちょこをぐらぐらと揺らす。

「あぁ、楽しいよ。君と居るのは本当に楽しい。
…こんな気持ちになれるのは、君と居る時だけだ」

そう言って浮かべた真澄の笑顔があまりにも優しくて、あまりにも愛しくて、マヤはアルコール以外の何かが体中を駆け巡り、自分を酔わせているのを感じる。

「それは、本心ですか…?」

真澄は、おちょこを一気に傾け、その甘い液体が喉元を通過する瞬間、口を横に一度伸ばすと、静かな声で答える。

「あぁ、本心だ…」

案内されたお座敷は、離れのような造りで、一切の喧騒から切り離され、二人が口を噤めば文字通り、沈黙だけが横たわる。真澄の計らいで、料理も最初のうちに全て運ばれ、仲居も全て下げられていた。

「じゃぁ…」

座布団の端から出ていたふさをいじくっていたマヤは、そこで顔を上げ、真澄の顔をまっすぐに見つめて言う。

「…紫のバラの人としての本心も教えてくれませんか?どうしてあたしにバラを贈りつづけてくれたのか、どうしてあれほどまでにあたしを助けてくれたのか…。
誤魔化さないであなたの本心を教えてください…」

真澄は注ぎかけた御銚子を持った手を止める。

「…俺の本心か…。いいだろう、教えてやる。
その代り…、君も髪を切った理由を俺に話すんだな」

そう言って自分を見つめる真澄の視線はどこか挑戦的で、そして男性的で、マヤはたちまち心臓の音がうるさくなったのを感じる。

「速水さんしつこ〜い!あたし、酔っ払ってるからあんまりしつこいと、ホントのこと話しますよ」

そう言って誤魔化そうとしたが、鋭く真澄はそこに切り込む。

「誤魔化すな…。
誤魔化すなと言ったのは第一、君の方じゃないか。だいたい、酒の所為にしていいんだったら、俺だって酔った勢いで君を襲うかもしれないぞ」

ニヤリと笑ってそう言う真澄のその表情は、ゾクリとするほど色気を感じさせ、マヤはたちまち不安になる。

(呑まれるかもしれない…)

そんな不安。酒にではなく、真澄に…。
しかし、その一方で酒に呑まれたふりをして、真澄に呑まれるのもいいかもしれない、などと考える自分がどこかに居るのを、マヤは酔った頭の隅で確認していた。

真澄はゆっくりと一度目を瞑る。

あれほど気持ちを知られることを恐れていた。
真実が晒されることを恐れていた。
一生こんな思いは封じ込めるつもりでいた。
なぜ、今さら凍らせた思いを打ち明ける気になったのか…。それは、すでにマヤが自分が紫のバラの人であるということを知っていたから、という衝撃の事実に背中を後押しされたようにも見えたがそうではない、と真澄は思う。ましてや、バレたのならしょうがない、というヤケクソな気持ちでももちろんない。

どれだけ抑えても、溢れ出てきてしまう想いがある。
どれだけ殺しても、殺しきれない想いがある。
どれだけ、握り潰しても、なおも形を成す想いがある。

結局のところ、自分は一生のこの想いから逃れることは出来ないのだ。一生、奴隷のようにこの想いに従って生きていくしかないのだ。

そう気づいてしまっただけのことだった…。
だから、伝える言葉もたった一言でいい。
心の欠片がこぼれ落ちる…。


「君を愛している…」


マヤの呼吸が止まり、耳の奥がキーンと耳鳴りを起こし、奥歯と耳を繋ぐ線が、痛みを持ったように疼き出す。瞬きも忘れ、瞳の表面がぴりぴりとした痛みを持って、乾きを訴え始めると、ようやく一言マヤも言葉を発する。

「簡単に言うんですね…」

その言葉に真澄は一瞬、苦笑する。

「難しく言えばいいのか?」

『冗談を言わないでくれ』
そう言って咎めようと思って見つめ返した、真澄の表情があまりに真剣で、切実で、熱を帯びているのに驚き、マヤは逆に言葉を失う。

「どう…して、今なんですか?どうして、奥さん居るのに、そんなこと言うんですか?速水さん、もう一人じゃないのに…。
変ですよ、そういうの変です…」

真澄の言葉を信じたい一方で、強烈にブレーキをかける自分が居る。俯いたまま、膝の上に置いた両手の拳にマヤはぐっと力を込める。白いスカートに皺が寄る。

「…言えなかった…、君の母親のことを思うと言えなかった…。
言えない代わりに、一生紫のバラとなって、君を見ているつもりだった。
そういう愛し方しか俺には出来なかった。
そういう方法でしか君を愛せないと思った。
全ては、許されない愛だと思っていた…」

あれほど恋焦がれていた人が、自分のことを同じように愛していると言ってくれているという奇跡。何度も甘い夢を思い描いては、その幻想にさめざめと泣いてみたりした。そんな全てを覆すような嘘のようなこの現実。
涙が出るほど嬉しいはずなのに、やっと聞けた真実なのに、ようやく完成したパズルの絵は、幸せの肖像とは程遠かった。

どうして、”今”なんだろう…。

「私が髪を切った理由、知りたいんですよね、速水さん…」

膝の上の拳から目をあげ、首元のネクタイを下からゆっくりと視線で追い、その先にある真澄の瞳に焦点を合わせると、マヤは静かに喋りだす。

「女の子が唐突に髪を切るのに、『綺麗になりたい』とか『イメチェンしたい』とかそういうの以外に理由があるとしたら、そんなの決まってるじゃないですか…。
諦めなければいけない恋があるからじゃないですか…」

自分でも恐ろしいくらい、冷静で落ち着いた声で喋ってるのをマヤは不思議に思う。
マヤの想像では、愛の告白はもっと甘く、美しいもののはずだった。これでは、まるで手遅れになってしまった事実関係をお互いに確認しあいながら、一体どこでボタンを掛け違えたのか探しあってるようではないか…。
真澄の表情が変わる。

「君が諦めたという恋の相手は…」

マヤは真澄が本気でその台詞を言ってるのかと、怒りにも似た気持ちで思う。

(本当に、本当に、この人は何も気づかなかったというのだろうか…)

声が震え、指が震え、心が震える。

「それ、わざとですか?分かっててそういうこと、言ってるんですか?知ってて、私の口から言わせたいんですか?
速水さん…、残酷です…。ホントに残酷です…」

食い入るように自分を見つめる真澄を、こぼれ落ちた涙を拭うことも忘れ、マヤは同じ強さで見つめ返す。

「他に誰が居るって言うんですかっ?!あたしが髪を切るほど好きな人が、あなた以外に誰が居るって言うんですかっ?!結婚してあたしの前から消えて、あたしに恋を諦めさせたのは、速水さん、あなたでしょ!」

それは、怒りをぶつけた振りをして、心の均衡を保っているようなものだった。気を抜けば、それまでずっと堪えてきたものが堰を切ったように溢れ出してしまうように思われた。
こんな時に、全てを忘れて縋るほどの大胆さも、気持ちを隠して踏みとどまるほどの器用さも持ち合わせていないマヤは、文字通り、ただ、どうしたらいいのか分からなかった。
本当に分からなった。

伝えたかった想い。
伝えて欲しかった想い。
そして、伝わりあった想い…。

それなのに、そこに存在するものは、二人の純粋な想い以外のものばかりで、お互いの体を見えない鎖で身動きも取れないほどに縛っていく。その想いが純粋であればあるほど、この状況の残酷さが浮き彫りにされる。

「…帰ります…。あたし、帰りますっ…」

それだけ言ってマヤは立ち上がる。
本当に帰るつもりだったのか分からなかった。ただ、もう思いつく限りの言葉のストックが出つくしてしまって、頭の中は真っ白で、気が付いたらそう言って立ち上がっていた。

呑まれるのが怖かった…。
真澄に、いや、この底の見えない黒い沼に呑み込まれるのが…。

「外は雨だぞ…」

全く動じる気配も見せずに、真澄は座ったまま、杯を傾ける。そんな真澄の不敵な様子に、マヤは必死で立ち向かう。

「だ、だからなんだって言うんですかっ?雨だって、帰れますよっ」

耳を澄まさなくても、激しく叩きつけるような豪雨の音が、耳を刺す。雨音だけが二人の間に横たわった数秒後、

「白い服が、汚れる…」

それだけ呟くように真澄は言うと、苦しげに顔を歪ませた。
マヤは視界の端に入った、部屋の奥にある障子の格子の木枠を、まるであみだくじでも辿るように、目で追う。ぐるぐると、まるで終わりのない迷路をさまようように…。

と、目の前に差す影。被さる男の香り。
目の前に立ちはだかった、圧倒的なその存在感に、マヤは思わず後ずさりする。

一歩、二歩…。

じりじりと追い詰められたあとに、ついにもう一歩も下がれないことを、背中にあたった襖の感触が伝える。誰かが心臓の内側から、拳でそこを叩いてるかのように、心臓の音がうるさく体内に響く。
真澄が襖に腕を付き、マヤの動きを封じ込める。その距離感が嫌でも、あの日交わってしまった唇の感触を思い起こさせる。

「俺に選択肢はない…。俺の答えはもう言ってある。
俺は君に本気だ…。
だが、君には選ぶ自由がある。逃げるのも、堕ちるのも、君の自由だ…。
決めろ…」

『逃げるのも、堕ちるのも…』

その言葉の意味をマヤは必死で頭の中で、繰り返す。

今この瞬間、この襖を開けて、走り去って逃げていく自分…。
今この瞬間、手のひらのポシェットの紐を手放して、その大きな胸に飛び込んでいく自分…。

「俺は君に断る時間を与えている。でも、そろそろ限界だ…。
このままだと、俺は君の唇を奪うぞ」

そう言って、吐息が混ざり合う距離までぐっと顔を近づける。
混ざった吐息は、お互いの唇の感覚を麻痺させ、そうすることの罪深ささえも、黒い沼の底へと追いやる。

2度あることは、やはり3度あった…。

他人のものになってしまったその人とのキスは、一度目よりも、二度めよりも、息苦しくて、心臓を潰し、唇を爛れさせる。
それなのに、それはどうしようもないほどに甘美で、一度目よりも、二度目よりも、続きを欲しがった。
繋がっていた唇が離れると、真澄は顔の距離は変えずに、唇の端だけ上げてまるで試すように言う。

「…今度は、叩かないのか?」

叩けなかった…。
叩けるわけがなかった。
叩く代わりに、手のひらからポシェット滑り落ち、マヤは真澄の唇に噛み付いた。

獣のようなキス。

キスをしながら、マヤは激しく真澄の胸を拳で叩く。その両手を真澄は奪うようにして取ると、マヤの頭上に押し上げ、そのまま襖に押し付けた。
両手の自由を奪われたマヤは、後はもうなされるがままに、口内を犯される。真澄の舌がまるで、別の生き物のように動き回り、お互いの唾液が混ざり合う。 今まで、食べることと喋ることのためだけに使われてきた自分の口が、その侵入者によって、まったく使われることのなかった細胞まで呼び起こされるのをマヤは感じる。脳のはしっこで。

もう、離れられない…。

唇がつながり、離れていた心がつながり、そして二つの罪悪がつながる。

緊張の波が最高点にまで達したマヤの膝から力が抜け、その場にずるずるとマヤは崩れ落ちる。その細い腰に、しっかりと真澄は腕を回すと、抱え込むようにして同じように畳の上に腰を下ろす。

(今日は満月なのに、月が見えない…)

窓の外に目を向けても、斜めに降り注ぐ雨の幕の向こうには、暗闇が広がるばかりで何も見えない。

雨音はますます激しさを増し、このまま全てを流し去ってくれればいい、などとマヤは思う。けれども、雨は黒い沼に溜まり、濁り、そして渦を巻く。

今夜に限って、月が見えない理由…。その黒い沼に首まで浸かってしまったマヤにははっきりと分かっていた。

(見えないはずだ…。 だって、二人はたった今、月にも背いたのだから…)





2003.3.6




…to be continued










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