| 追憶 2
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| written by lapin
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パタン。 マヤの後ろで扉が閉まった瞬間、真澄は広げた両手に顔を埋めた。 彼女は知っていた…!いつから知っていたのだろう。憎んでいた相手が誰よりも大切に思ってきた足長おじさんだと気づいて、ずっとひとりで苦しんでいたのだろうか。悩みぬいた結果、上演権を差し出す決意をしたのだろうか。 彼女にろくに話をさせようともせず、一方的に壁を作って追い払ってしまったことが心に重くのしかかる。しかし、彼女との間に壁を作らなければ、とても自分を抑えられなかった。 マヤの素直な態度は真澄を激しく動揺させた。呆然と自分を見つめる彼女の傷ついた顔が閉じた瞼の裏に鮮やかに浮かぶ。頼りない足取りでふらふらと去っていく小さな背中をどれほど抱きしめたいと思ったか。 わかっていたことだった。 仕方がなかった。 いつかはこんな日が来ると知っていた。 しかし。 自分の胸でありがとうと繰り返しながら柔らかい心をさらけ出して泣いていたマヤ。真澄の心に近づこうと一生懸命だったマヤ。もしあのとき彼女の質問に正直に答えていたらどうなっていただろう?愛しているから紫のバラを贈り続けたのだと告げていたら? だが、もう遅い。最後の繋がりさえ、たった今自分の手で切ってしまった。もう、彼女が自分に心を開くことはないだろう。そして2週間後には刑が執行されるのだ。じりじりと生を奪われる終身刑の日々の始まり。 …そうだ。上演権。至急書類の手配をしなくては。 ソファから立ち上がる気力もなく、のろのろとタバコに火を付けながら、真澄は必死で仕事に考えを集中させようとした。 ![]() 終わった…。 あまりにあっけない結末に涙も出ない。上演権は渡したし、紫のバラの人の正体も明らかになった。それなのに、彼との距離はむしろ以前よりも遠くなってしまった。 彼は最後まで態度を崩さなかった。 待っていたのに。 何でもいいから一言、彼の心のこもった言葉を待っていたのに。たとえそれが自分が望んでいるような愛の言葉なんかではないとしても、気持ちがこもった言葉をかけてもらえたら諦められると思った。 納得できると思った。 でも、舞台は始まる前に終わってしまった。自分の出番なんて最初からなかったのだ。宙吊りになったままの言葉と行き場を失った気持ち。 愛していると告げたかった。 拒絶されてもかまわなかった。 でも、自分にはその言葉を口にする機会すら与えられなかった。そして、この胸の痛みは当分消えそうにない…。 ![]() 眩しい照明と華やかに着飾った女たち。談笑が低いざわめきとなって波のように押し寄せてくる。マヤは壁際に立って、目の前で繰り広げられる光景をぼんやりと眺めていた。 何もする気が起きず、塞ぎ込んでいたマヤを強引に誘い出したのは桜小路だった。桜小路はいつもとても優しい。彼を利用しているのだとマヤは自覚している。 拒絶もしない代わりに、受け入れることもない。彼も無理強いはしない。ずるい自分が時々嫌になる。 彼に熱心に勧められると嫌と言えないのは、彼が一番聞きたいことにイエスと言えないことから来る罪悪感のせいだ。だから、今夜もここにいる。 オンディーヌ主催のパーティー。本当は、真澄と会えることを恐れながらもどこかで期待している自分にもマヤは気づいている。もう、顔を合わせても仕方がないのに。 少し側を離れているとすぐに壁際に引っ込んでしまうマヤを愛しく思いながら、桜小路は彼女を優しくエスコートしていた。 と、マヤが突然顔色を変えて桜小路のジャケットを強く掴んだ。かたかたと震え出した彼女の視線の先に真澄を見つけると、桜小路の中に何かが沸きあがってくる。それは決然とした意志のようなもの。真澄とマヤの関係が世間で思われているような犬猿の仲などでは片付かないことは認めざるを得ない。あの日、紫のバラを持って現れた真澄を見つけたときの彼女の顔を桜小路は忘れられない。それに、ちょっとした仕草や彼を追う視線。桜小路も役者だ。彼女の気持ちには薄々気づいている。 ただ、それを認めたくなかった。 「ほう、これはこれは。紅天女のおふたりじゃないか」 余裕に満ちた微笑を浮かべて真澄が近づいてくる。その腕には当然のように紫織が捉まっている。辺りを払うような圧倒的な存在感を持つ美しいふたり。マヤは立っているだけでやっとだ。真澄を見る勇気がなかった。紫織を見るのは考えただけで胸が痛かった。 彼女を守りたい。マヤの様子を見て桜小路は思う。ジャケットの端を掴んだまま固まっている彼女の細い腰に手を回し、力を込めて抱きしめる。僕がついているよ、と言うように。そして、決然と真澄に向かう。 「速水社長。紫織さんも。先日はどうもありがとうございました」 真澄は、動かない笑顔の仮面の下でそんなふたりをじっと観察していた。桜小路のジャケットを掴んでいるマヤの白い小さな手と、彼女の腰に回された桜小路の逞しい腕を。 「おふたりは本当に仲がおよろしいのね。舞台を降りても息がぴったりですわ。ね、真澄さま」 紫織の言葉に真澄はつられたようにうなずく。 「まったくですね。…この調子で本公演も成功させてほしいものだな」 真澄の言葉にマヤの中で何かが悲鳴を上げる。もう限界。 「ありがとうございます…。ご期待に添えるように頑張ります。…すみません、あたし、失礼しますっ」 早口にまくしたてると桜小路の腕を振り切って走り出す。 「マヤちゃん!」 桜小路が慌てて後を追っていく。紫織は、ふたりをじっと目で追っている真澄の横顔を不安が隠せない様子で見つめていた。 ![]() ばかなことをした…! 思わず逃げ出してしまった自分が情けなくて涙が出る。何とか桜小路を説き伏せてひとりにしてもらった。 パーティー会場になっている屋敷の外に出てみると、鬱蒼と木立が生い茂った庭が広がっている。誰もいない場所を探しながら緑の暗がりの中を彷徨う。夜風がほてった頬に心地いい。見上げると夜空に星がぽつぽつと光っている。 星。 梅の里で真澄と共に見た星を思い出す。 何を見ても、何を聞いても、真澄を思い出す。身を斬られるような切なさに身悶えして思わず自分で自分を抱きしめる。と、そのとき、肩にふわっと何かがかかる。驚いて振り返ったマヤの目に真澄が飛び込んでくる。 「外は冷えるからな。羽織っておけ」 無造作に言い捨てると、シルクのシャツ姿になった真澄はくだけた様子でタバコに火を付ける。 「速水さん…。何しに来たんですか?」 突然ふたりきりになった気まずさを誤魔化すようにマヤは口走る。 「これはまたずいぶんなごあいさつだな、チビちゃん。俺がここにいちゃいけないか。中が息苦しくなったから、一息つきに出てきただけだ。それとも、なんだ。君を探しに来たとでも言ってほしかったのか」 意地の悪い言葉にマヤは一瞬むっとした顔をする。ふっと真澄が笑う。多少ぎこちないものの、かつてのふたりの間にあった空気が蘇る。 「気分でも悪いのか?桜小路が血相変えてたぞ」 さり気なく訊く。ぴくっとマヤが肩を震わせる。 「別に…。ただ、窮屈になっただけです。あたし、速水さんと違ってパーティーとか好きじゃないから」 「俺だって好きじゃないさ。仕事の一部だからな」 タイを緩めながら真澄が空を仰ぐ。 「さっき、星を見ていただろう。さすがに東京じゃ見える星が限られているな」 静かに空を仰ぐ真澄を見ていると、マヤの心も自然に安らいでくる。彼には婚約者がいる。もうすぐあの美しい人のものになってしまう。でも、今、このひと時は私と一緒に空を見上げていてくれる。それでいいとマヤは思う。ふたりは並んで空を仰いだまま、共に過ごせる短い時間をそれぞれに噛み締めていた。いつか船の甲板で街の灯を眺めていたときのように。刹那刹那に賭けるしかない儚い想いがふたりを細い糸で結び付けていた。 「速水さん…」 「なんだ?」 マヤに呼びかけられて真澄が振り返る。そこには、胸を締め付けられるような切ない眼差しで自分を一途に見つめるマヤがいた。真澄の心臓がどきりと音を立てる。 「この間はごめんなさい。いきなり押しかけて、泣いたりして、びっくりしましたよね…」 「いや、俺は君が押しかけてくるのには慣れている。アポをとっただけ進歩したと感心しているんだ」 思わず茶化してしまう。そうでもしなければ、自分を抑えられないと思った。 「速水さん…あたし、あなたが紫のバラの人でよかったと思ってます。もう紫のバラをもらえなくてもかまいません。ただ…これからも、あたしを見ていてくれませんか。あたし、あなたに喜んでもらえるような女優でいたい…」 精一杯の愛の言葉だった。あなたを愛していると言うことができないなら、女優として語りかけることしか許されないのだとしたら、こう言うことが限界なのだと思った。祈るような気持ちでマヤは真澄を見つめる。 「驚いたな。君からそんな言葉を聞けるとは。最近、君は俺を驚かせっぱなしだ。次は何を仕出かしてくれるんだ?」 マヤから視線を逸らしながら、できるだけ軽く応える。マヤの言葉は確実に真澄を追い詰めていた。真澄は、一歩一歩と後退していく自分を思い浮かべた。やがて足の下の地面がなくなり、自分は落ちるだろう。落ちた先は未知の世界で、底知れぬ恐怖とまだ見ぬ甘美な夢が自分を手招きする。一言自分の本心を告げるだけでそこに行ける…。 「もちろん見ているさ。君はうちの女優になったんだ。君が嫌だと言っても見ているよ」 やはり自分は落ちなかった。大都芸能の速水真澄にそんなことができるはずがなかった。 「そうですよね。あたしは大都の女優なんですよね」 「そうとも。君はうちの看板女優になるんだ。君は大都のものだ」 俺のものだ…。そう心の中で付け加える。 大都のもの。そう、あたしはただの女優。彼にとっては商品。わかっていたことじゃない。何を期待していたの?演技以外に何の取り得もない、きれいでもなければ家柄も良くない、しかも11歳も年下の子供に、速水さんが興味を持ってくれるはずないじゃない。 思いっきり自虐的にマヤは考える。真澄の優しさも、時々見せる切なそうな眼差しも全部忘れようと思った。誤解しそうになる自分が惨めなだけだ。きっと、彼にとっては特別な意味なんかなかったのだ。あんな美しい人がいる彼にとっては。 青ざめて黙り込んだマヤを、真澄は切ない眼差しで見つめていた。たとえ、紫のバラの人としての自分に対してであっても、マヤに好意を持ってもらえるのはうれしかった。その好意に素直に応えられないことが歯痒かった。 「どうした?疲れたか?顔色が悪いが」 真澄が手を伸ばす。こっちを向かせようと彼女の頬に触れた瞬間に、マヤは思いっきりその手を振り払う。 「触らないで!」 ヒステリックな叫び声を上げる。 「商品だからと言って気安く触らないでくださいっ。あたしの気持ちなんて何も知らないくせに。速水さん残酷すぎます!」 突然ぼろぼろと涙を流すマヤを真澄は呆然と見つめる。 「君の気持ち…?やはり俺が嫌いか?触れられるのが嫌なほど憎いか」 見当はずれな言葉を耳にして、抑えていた想いが堰を切ったように溢れ出す。 「嫌い?あたしが速水さんを嫌い?嫌いだったらよかった!嫌いになんてなれないから、どうしても忘れられないから、だから、あたしはこんなに…」 はっとしたようにマヤは口を押さえる。食い入るように自分を見つめる真澄の視線に気づき、どう取り繕おうかと一瞬考えを巡らせる。でも結局何も思いつけず、マヤは破壊的な衝動に身を委ねながら続ける。 「速水さん、あたし、あなたが好きです。女優としてしか見てもらえなくてもかまわない。結婚してしまうこともわかってる。でも、それでも、あたしはあなたが好きです」 強い光を宿した瞳でこちらを一心に見つめながら、マヤの唇から紡がれる、信じられない愛の告白に、真澄の頭の中が真っ白になる。 アナタガスキデス。 夢にまで見たこのシチュエーションに、どう言葉を返したらいいかわからない。自分こそずっと愛していたと告げたらどうなるだろう。 紫織は?結婚は?大都はどうなる?マヤの将来は? 走り出しそうな想いに急ブレーキがかかる。でも、真っ直ぐに想いをぶつけてくれる彼女から、もう逃げたくはなかった。進むことも後戻りすることもできない。進退窮まった苦悩が真澄の瞳を暗く染める。 彼を困らせてしまった。マヤは悔いていた。 「速水さん。そんな顔しないでください。あたし…」 急に抱きすくめられて言いかけた言葉が宙に浮く。息ができないほど、強く性急な抱擁。 「すまない。君にこんな思いをさせて、すまない。いつも君を傷つけるばかりですまない。君の気持ちに応えられなくて…すまない」 搾り出すような低い、苦しげな声で真澄が言う。真澄のやり場のない苦悩が直にマヤに伝わる。さっきまでの激情が嘘のように気持ちが凪いで行く。 速水さんには速水さんの事情があるんだ。彼なりにあたしを大切に思ってくれているんだ。彼をこれ以上困らせたくない。 「ねぇ、速水さん。あたし、本当に平気ですから。そんなに謝らないでください。これからも、今までと同じようにあたしに接してください」 笑顔さえ浮かべて自分を見るマヤを、真澄は内心歯噛みしたい思いで見つめる。自分が不甲斐なくて、健気な彼女があまりに愛しくて、胸が引き裂かれるようだ。震える指で彼女の涙の痕を拭い、額に額をつける。 至近距離で見た彼の瞼は固く閉じられていて、泣いているかのように細かく震えている。何だか速水さんがかわいそう。マヤは胸が締め付けられる思いがする。思わず手を伸ばして彼の頬に触れる。びくっと真澄の体が震え、薄く目が開かれる。マヤは一生懸命笑顔を作りながら、真澄の瞳を覗き込む。 「あたしなら大丈夫です。そんなに苦しまないでください。速水さんが苦しむ顔、見たくない…」 堪らず、真澄は頬に添えられたマヤの手に自分の手を重ねながら、もう一方の手を彼女の項に回して自分を仰がせる。そして、一気に口付けた。言葉にできない想いのすべてが伝わるように。もう、二度とこうすることができなくても、一生覚えていられるように。 真澄からの突然のキスに、マヤは頭が真っ白になり、目を見開いたまま立ち尽くしていた。でも、真澄が自分のために思い出を作ってくれようとしているのだと理解すると、きつく目を瞑り、溢れ出す涙もかまわず、必死で応えた。初めてのキスは、愛している人とのものにもかかわらず、甘さやときめきよりも、切なさと苦さに満ちていた。 逃れられない現実も、残酷に過ぎ去る時間も締め出すように、ふたりは夢中で求め合っていた。 その姿を、離れたところから凍りついたように紫織が見つめていた。 7.15.2003 ![]() |