手のひらで融けた雪 13
ゆっくりと真澄は紫織との距離を縮める。すかさず切り裂くような紫織の悲鳴が飛ぶ。

「近寄らないで!!それ以上お近づきになったら、この喉を掻き切りますわよっ!!」

それでも真澄はゆっくりと歩調を進め、目の前のすぐ手の届く距離まで来ると、言葉を選ぶようにして話しかける。

「ここまで来て、私はいかにあなたに正直でなかったか思い知らされています。今だって、あの時だって私が正直にあなたの思いを拒絶していれば、こんな事にはならなかったでしょう…」

また一歩真澄が近づく。紫織の手の震えは最高潮に達している。

いつだって、自分の不用意な優しさが人を悪戯に傷つける。たった一度でも自分の心に正直になっていれば、こんなにも運命の糸がもつれ合う事はなかっただろうに…。
でも、もしも、自分にまだ選べる運命があるとすれば、間違いなく自分はそれを選ぶ。それが、自分に許された唯一の償いであるから…。

「紫織さん…。
あなたが死ぬと言っても、私は行きます。もしそれで、あなたが死んでしまったとしたら、私はとても悲しむでしょう…。
でも、それだけです。
…私はもう、あなたを選ばない…」

もう、残酷な優しさは誰もいらない…。

真澄の手がゆっくりと、紫織の手に伸びる。触れた紫織の震える手は氷のように冷たい。ゆっくりと、その手を掴むとナイフを喉もとから遠ざけ、石のように固まったその指を一本一本丁寧に開かせ、自由にする。その手のひらからようやく、ナイフを奪い取ると、真澄の全身から力が抜ける。

「紫織さん…、あなたはもう充分に傷ついた。私のために、それ以上ご自分を傷つけないで下さい。お願いです…」

真澄はカタリと音を立てて、ナイフをカウンターの上に置いた。

「あぁぁっっ…」

嗚咽と共に紫織はその場に崩れる。人の前でこれほど感情を顕わにして泣き叫んだのは初めてかもしれない。まるで、火の付いた赤ん坊の泣き声のように、少しも自制心を含まない叫びのような泣き声が、響き渡る。
真澄はその姿を、手を差し伸べるでもなく、肩を抱くでもなく、ただ、ぐっと拳を握り締め何かを耐えるように見守るだけだった。





涙が枯れるまで、嗚咽で喉が潰れるまで泣いた後、紫織は真澄の手も借りずゆっくりと立ち上がる。

「随分とここに長居をしてしまった気がします、わたくしは…」

意味深に感慨深そうにその言葉を述べる。

「真澄さま、紫織の事、忘れないでくださいね。紫織が本気で愛した方はあなたお一人です。その事だけでも、覚えていてくださいね…」

そう言って儚げに微笑む。ゆっくりと玄関に向かって歩き出す歩調を一瞬止め、振り返る。

「紫織は真澄さまを苦しめる事ばかりしてしまいました。嫌な女だったと思われてもしょうがない事ばかりしてしまいました。でも、最後に私が犯した過ちだけは、きちんと償ってからあなたの前を去りたいと思います…」

そう言って、赤く腫れた目を一瞬伏せたあと、思い切ったように言い出す。
「昨日、マヤさんに会いました」

真澄の体がビクリと反応する。

「もちろん、偶然に会ったわけではなく、わたくしが待ち伏せしてマヤさんを捕まえたんですけれど…」

そこで一瞬、紫織は弱々しげな微笑を浮かべる。

「『何も持っていないあなたには真澄さまを幸せに出来ない』と私、言ってやりましたの。『女優ごときのあなたのせいで真澄さまの人生を壊して欲しくない』とまで、言いましたわ」

真澄の脳裏に哀しげなマヤの顔が浮かぶ。

「酷い事を言ったとお思いでしょうね。でも、わたくしも本気だったんです。この愛を守るために本気だったんです!!」

そう言って今一度、真澄の瞳を強く射るように見つめる。が、すぐに元の弱弱しい微笑を浮かべると、

「言い訳はもう沢山ですわね…。あなたの大切な方を傷つけてしまった事には変りないのですから…」

諦めたようにそう呟く。

「真澄さま…、マヤさんはまだあなたのそのお気持ちをご存知ではありませんのね。あなたがどういうつもりでそのお気持ちをまだ打ち明けていらっしゃらないのか、それはわたくしの知るところではありませんが、もし、わたくしとの事を考えての事でしたら、もうあなたは立派にその役目を果たされましたから…。わたくしの偽りの婚約者という立場をご自身で返上なさいましたから…。早く、彼女の元へ行って差し上げて…」

最後の方は再び、涙に掻き消され聞き取れないほどになる。

「…さようなら、お元気で…」

それだけ呟くと、静かにドアをすり抜け紫織は出て行った。





マヤは電話に出なかった。同居人の麗に言わせれば、

「まだ帰宅してない」

との事だったが、こんな深夜にそれはないだろう。時計の針は間もなく12時を指そうとしている。真澄とて、ここで待つつもりはなかった。

(押してだめなら、引くまでもなく押し続けるのみだ)

そう決心すると、そのまま夜陰に乗じて車を走らせる。



ところがマヤは本当に居なかった。

「散歩だとは思うんですけどねぇ、私も心配だから、そろそろ探しに行こうと思ってたところなんですよ」

やや不安げな表情を浮かべて麗は言った。

(こんな時間にどこをほっつき歩いているのだ!!あまりに無防備だ!!)

こみ上げる不安や心配を、なんとか怒りで押し込めようとする。とりあえずアパートの前に止めた車に戻って、辺りを探そうとした真澄の耳に入った、耳障りな掠れるような金属音。
音のする方に目を凝らせば、誰も居ないはずの公園でブランコがたよりなげに揺れていた。





俯いたままブランコに揺れていたマヤの視界に、黒い革靴を履いた男の足だけが入る。

「公園で遊びたいんだったら、もう少し早い時間を選んだらどうだ?何時だと思ってるんだ」

顔を上げなくても、誰だか一秒でわかった。

(どうし…て?)

その言葉は結局声にならず、マヤは恐る恐るゆっくりと、黒い革靴の主を見上げる。

「あまり、心配させるな…。心臓がいくつあっても、持たない」

会いたい、会いたい、会いたい。

確かにそう思っていた、でも本当に会ってしまったらどうしたらいいかの分からなくなってしまう。

「な…、なんでここに居るの?は、速水さん、何やってるの?」

会えた嬉しさよりも、会ってしまった不安の方が口を突いてでる。

泣き出しそうな顔で自分を見上げるマヤを苦笑しながら見つめると、真澄はサラリと呟く。

「恋人に会いに来た…」

マヤはポカンと口を開ける。

「こ…恋人って…。速水さん、もう終わったんですよ。恋人ごっこは終わったんですよ」

マヤは真澄はまだあの氷の中に残してきたピアスに気付いてないのでは、と思い当たる。

「速水さん、あの…」

そう言って、事実を確認しようとした瞬間、真澄の指が耳の辺りの髪をかき上げる。

「新しいピアス、してるんだな…。自分で買ったのか?」

「え?えと、はい…。はめてないと、穴、塞がっちゃうから…」

真澄の瞳が一瞬切なそうに揺れる。

「いいか、一回しか言わない、よく聞け…」

そう言ってマヤの顎を掴むと、強引にこちらを向かせ目線を合わせる。

「余計なものは全て捨ててきた。俺はいま、俺でしかない。君が恐れたり、遠慮したりするものは何一つ持っていない。今まであまりにも多くのものを抱えすぎて、一度も本当の気持ちを言う事が出来なかったが、これが俺の真実だ」

マヤは瞬きもせずに真澄の瞳を吸い込まれるように見つめる。

「…君を愛している…」

時が止まり、全てのものが動きを止め、マヤは自分の心臓まで止まってしまったのでは、と思う。

「う…そ…」

大きく見開いたマヤの瞳の中が揺れる。

「こんな時に嘘をつく奴もいないと思うが…」

マヤを見つめ続ける真澄の顔に苦笑が浮かぶ。

「だ…、だって、速水さん、そんな事一度も言わなかったじゃない…!好きとか、愛してるとか、そんなの…」

必死で訴えるマヤの言葉を遮るように真澄が声を被せる。

「言ったら信じたのか?言葉があればそれで良かったのか?
言葉は嘘と隣り合わせだから…、言葉よりも確かなものを俺は君に上げてきたつもりだ…」

そう言って、そっと梳くようにマヤの顔周りの髪の毛に指を通す。自分の片手に収まってしまうほどの、小さな顔。自分を見上げるそのつぶらな瞳に、愛しさがこみ上げる。

「君が欲しい…。代わりに俺を君に上げるから…」

そう言って真澄は今にも気を失いそうな頼りなげな存在を、強く抱きしめる。意識が飛びそうになるのを必死にマヤは堪えて、真澄の胸に手を突く。

「ま、待って!ちょっと、待って…!!」

少しだけ上体を反らして、距離を取ろうとするが、真澄の強い腕力がそれを許さない。しかたないので、とにかくそのままの体勢でマヤは言葉を繋ぐ。

「だ、だって、速水さん、紫織さんは?結婚は?そんな…」

「捨ててきた」

マヤの言葉を遮るように真澄は言う。

「す、捨て…」

マヤは絶句する。

「どうして?!どうして、そんな事したの?そんな事したら、速水さんお仕事続けられなくなっちゃうんでしょ?大都が大変な事になっちゃうんでしょ?」

「だから、それも捨ててきた」

からかう様な悪戯っぽい笑みさえ浮かべて言う。

「な、何、寝ぼけた事言ってるんですか!!そんな『捨ててきた』なんて、ゴミじゃないんですよ!速水さん、何考えてるんですかっ!!」

マヤは声を震わせ、絶叫する。

「いらないんだよ、君以外のものは、何も…。君さえ居れば、俺はそれでいい。それでいいんだ…」

マヤはついに泣き出してしまう。興奮のあまり、呂律が回らなくなった子どものように、ぽろぽろと大粒の涙をこぼして…。

「速水さんの、ばかぁ…。なんで、なんで、そんな事するのよぉ。速水さん、絶対、後悔する。絶対、あとで『あぁ、なんてバカな事したんだ』って思う…」

「絶対、思わない」

そう言って真澄は、さらに強くマヤを抱きしめる。

「アタシ、速水さんにっ、何にもっ、上げられないよっ。速水さんが必要なものっ、何にも、持ってないよっ」

嗚咽を交えた声でマヤが言う。そんなマヤの言葉を真澄は一つ一つ優しく、打ち消していく。

「もう、貰ってるからこれ以上は何もいらない。俺が欲しいものは、もう君が全部持ってる」

それでもマヤはまだ、負けない。

「でも、アタシを選んだら、速水さん、全部、持ってるもの失っちゃうんでしょ?全部、消えてなくなっちゃうんでしょ?」

真澄はきつく抱きしめていた腕を緩めると、マヤを一度胸から離す。

「全部失っても、全部消えてなくなっても、これだけ残っていれば俺はそれでいいんだ…」

そう言って真澄が差し出した手のひらには、真珠のピアスが2つ…。

真澄の指がゆっくりと、マヤの耳に伸びる。

カチリ

耳元でキャッチャーの外れる音がする。

「どうして、氷の中なんかに入れたんだ?」

ゆっくりと、ピアスの針が耳の穴から抜けていく感覚。

「え…、どうして…って…」

そして、またその小さな穴を丁寧に貫かれていく感覚。

「こんなに苦しい思いは、凍っちゃえばいいと思ったから…」

カチリ。小さな手ごたえで再び穴が塞がれる。真澄の指が別の耳に伸びる。

「バカだな…。凍らせたぐらいじゃ、思いは消えないだろうが…。
俺が手のひらでそんなものは融かしてしまったよ…」

そう言って、二つ目の穴も塞がれる。左右の耳に再び収まった真珠の涙を、真澄は満足そうに眺めると、人差し指で軽くそれを揺らした。

次の瞬間真澄は吐息のかかる距離まで、ぐっと顔を近づけると、マヤの唇を指でなぞりながら止めを刺す。

「悪いが俺は気が短くて、性格も悪い。もうこれ以上君の意見を聞く気はない。聞く、余裕もない」

そう言ったかと思うと、マヤがその言葉の意味を理解するよりも早く、これ以上ないほどに激しくマヤの唇を奪った。

「もう離さない…」

絶え間ないキスの嵐の間に、真澄は一度だけそう呟いた。



生まれて初めて、マヤは胸に痛みを感じないキスをする。キリキリと胸を引き裂くようなあの痛みも、染みのように体中に広がっていく哀しい気持ちも、今は体のどこを探してもない。かわりに、心の奥の小さな小さな灯りに火が灯される。
それは儚げでとても小さな灯りではあったけれど、目に見える耳のあの2つの小さな傷よりも、ずっと信頼できるものである気がマヤにはした。


凍てつくような澄んだ空気の中で、
(心が暖かくなったこの瞬間があれば、自分は生きていける)
今は素直にそう思える。
なぜなら、この灯りはきっと永遠に消えないから…。



見上げた夜空からこの冬最後の粉雪が舞う。
髪に肩に、舞い降りる粉雪がどれほど、お互いの体温を奪っても、二人はもう『寒い』とは思わなかった。 夜空に向かって差し出されたマヤの手のひらの上で、舞い降りる白い粉雪は瞬時に融けていく。悴(かじか)んだその白い指先を真澄がそっと包んだのを合図に、二人は歩き出す…。





1.27.2003


<FIN>






『毎日更新』『長編連載』のプレッシャーに耐え、最終回まで辿りつけ、感無量でございます。 『雪』『ピアス』『史上最強に切ないコイバナ』この3つが頭にひらめいて書きはじめたお話でしたが、まさかここまで長く伸びてくれるとは思ってもみませんでした。文句なく今まで杏子が書いたお話では、最長になりました。かなり、疲れました…。こう、吸い取られるようなというか。
私の思いつく限りの切ないエピソード、描写を詰め込んでみましたが、切なくなっていただけましたでしょうか?甘甘なお話も好きですが、杏子は切ないお話もすごく惹かれます。片思いの恋が多かったからかもしれません。
ちなみに作中で活躍するピアスですが、こんなのをイメージしておりました。
速水さんといえば、『悶マス』『意気地なし』『優柔不断オトコ』とヘタレな事三拍子揃ってますが、(そこがまた愛しいのですが…)今回は、とにかく『カッコイイしゃちょー』をテーマにがんばってみました。
え?キザすぎ?…そうですか…、やっぱり、そうですか…。

全てを失ってもマヤを選ぶシャチョー!これ書いてみたかったんですよねぇ、前から。 でも、我儘な読者としては、やっぱり『仕事の出来る男・速水真澄』『仕事の鬼・速水真澄』も捨てがたいですよねぇ。ねぇ…。

フフフフフフ。

というわけで、これ、続編あります。その名も『桜の花の咲くころに…』。一年後の二人を書いてみたいなぁ、と思ってます。短編の予定ですが、桜の花の咲くころまでにお届けできればいいなぁ。(予定は未定で流してやってね)

ではでは、これだけの長駄文にお付き合い下さいまして、ありがとうございました。もし、この作品を気に入って下さいましたら、完読記念に最後にポチっとして帰っていただけると、とても嬉しいです。よろしくお願いします。

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