白いビキニの女 1
何もこの時期に、こんなところに来ることもなかったか……。

今更考えてもしょうがないことが聖の脳裏をよぎる。
例年にないほどの寒い夏となった今年、いつもなら海水浴の観光客で溢れかえっているはずの海岸もまばらな人影で、厚い雲に覆われた寒空の下、季節を問わずにサーフィンを楽しむような若者が、ときたま波間に浮かぶ程度だった。

夏休み、というわけではなかった。
いや、夏休みなのかもしれないが、聖の辞書に夏休みという言葉はない。そもそも、いつ何時でもすぐに任務につけること、そのこと自体がこの仕事において、もっとも重要な責務であるわけで、休日や休暇という概念は存在しない。
ただ、 「たまには休め」 という真澄からのそっけないようでいて、真澄らしいその言葉に、なんの予定も入っていない2日間を持て余すように、聖はここへやってきたのだ。けれども、肌に振動がいつでも伝わる距離に置かれた携帯電話が、完全には自分をそのような束の間の休暇にも手放しで放り出してくれるということは、ありえないことに変わりはなかった。

これと言ってやりたいことも、行きたい所もなかった。ただ一つ、無理だとどれほど分かってはいても、自分が欲することがあるとすれば、それは世界でたった一つ、その人に会いたい、というそれだけであった。
それ以外は、何もないのである。

けれども、聖は海へやってきた。
季節外れなわけでもないのに、季節外れのような天気の海へ。

マヤが初めてその人に会った場所だという、その海へ……。






「それでね、首の骨が折れてもいいっ!って思って、ぐって顔を上げたら、もうそこには誰もいなかったの。 でもね、真冬の海に素足ですよ。それから、砂浜の上に大きな天使の羽根の影まで見たから、ああ、この人が天使なんだってすぐに分かった。
実際に杏樹さんを初めてちゃんと見たのは、次の日病院でだったけど、やっぱりあの海であたしは初めて杏樹さんに会ったの。絶対、忘れられないな……」

そう言ってマヤは、透き通った遠い目で聖の肩の向こうを見る。ゆっくりと、その視線が戻ってきて、再び聖の目を覗き込むと、先ほどとは違う色がそこには浮かぶ。

「あたし、杏樹さん大好き。すっごい好き。
もう、普通には会えなくなっちゃって、凄く残念だし、実際会えなくて寂しいけど、でも……」

そこまで言うと、マヤは少しだけ言葉を探す。自分の気持ちを適切に言葉に出来ないことを歯がゆく思うような、そんな空気が数秒流れたあと、諭すように穏やかに、呟いた。それはマヤ自身に対しての呟きであると同時に、どこか聖に対して言っているふうにも響く。

「見えなくても、側にいるものを信じる力をくれたのは、杏樹さんだから。見えるものよりも、見えないものを大切にすることを教えてくれたのは杏樹さんだから……」

聖がすぅっと息を飲む。

「だから、杏樹さん、いつも側に居てくれてるって、あたし信じてる」

聖は止めていた息をゆっくりと吐き出すと、かすかに頭を立てに動かす。そうやって、言葉をしっかりと胸の奥に送り込むように。

「今もきっと側に居るよ。聖さんの側に……」

自らの杏樹に対する恋心など知らないはずのマヤのその確信めいた言葉に、聖は動揺する。一瞬のうちに、悟られまいとする体に染み込んだ防御装置が作動する。

「そうかもしれませんね」

どちらでもいいようなぞんざいな返事。肯定するでもなく否定するでもなく。 一瞬、マヤの瞳に落胆の色が浮かぶ。

 ――どうして?

大きな黒い瞳は、純粋に残酷に、無防備に問う。

「聖さん、杏樹さんのこと好きなんじゃないの?」

他人に自分の不確かな感情を知られることが苦手だった。そういうことの処理には長けていたが、処理するつもりのない感情を他人に見せることはどうしても出来ない気がした。
慣れていないのだ。こんなことは……。

「大人をからかうもんじゃありませんよ」

誤魔化したつもりだった。けれども、ホッと息を吐いたところとは別の場所で、何かがキリリと痛みを持って縮む。

心臓だった。

「真澄さまがいらっしゃいました。それでは、私はこれで……」

それ以上のマヤの追及をかわすように、ようやく待ち合わせの場所まで辿り着いた真澄に目をやり、聖はその場をあとにする。 すれ違いざまに何かを口走った真澄の言葉を聞き逃すほどに、動揺していた。



黒のジャガーに差し込んだキーを持つ指にまで、おかしな動揺が伝わったのか、エンジンをかけるのに二度失敗する。 キーを回す手を休め、静かにたった今起こったことを振り返る。
心臓が発作的に痛くなった理由を。

『聖さん、杏樹さんのことが好きなんじゃないの?』

答えられなかった。そうだと、そのとおりだ、と答えられなかった。
心臓の痛みは、おそらく側で聞いていた杏樹の痛みだろう。
そう静かに思うと、瞼を閉じた瞬間に、もう一度同じ場所が先ほどの倍の深さで痛んだ……。






海に来たからといって、水着などもちろん持って来ている訳でもなく、白いシャツにベージュのパンツという、おおよそ海辺に相応しくない装いで、聖は砂浜の岩場に腰掛ける。
マヤが初めて杏樹を見た時に座っていた岩はこの岩だろうか……、そんなことを考える。

もしも、杏樹が天使でなかったら、こんな心の迷いはなかったのか、とふとそんな考えが、寄せては返す波間に浮かぶ。その思いを一瞬肯定しながらも、それでは彼女が普通の人間だったとして、自分は普通の男として彼女を幸せにしてやれたか、というとたちまち壁にぶち当たり、途方にくれる。

戸籍などない不確かな存在であることを義務付けられた自分の人生において、特定の誰かの記憶に残るということは、どう考えても許されないことであると、ずっと昔から分かっていた。だからこそ、誰とも関係を持たずにきた。 逆に言えば誰とでも関係を持った。次の関係を持たないために、関係を持った。
そんな人生が死ぬまで続くはずだった。
それに対してはなんの迷いもためらいもなかったはずだ……。

まだ、杏樹が天使だとは知らなかったとき、真澄との関係を疑って、真澄に詰め寄ったことがあった。

『聖……、あの女はやめておけ。お前の相手にはならない』

その言葉の真意を知る今、あの時のように思い切れる勢いと、強さが欲しいと思う。

(恋に溺れるか……)

目の前に広がる、青い海の波間に沈む自分の姿を一瞬思い浮かべると、自嘲的に笑い、足元の砂浜に目を落とした。

と、ポタポタと垂れる水滴が、目の前の灰色の砂の上に窪んだ水玉を作る。視界に飛び込んできた濡れた足には、浜の細かい砂が砂糖のように、塗してある。長い黒い髪の先からこぼれる透明な雫が、ベージュのパンツの上に染みを作る。

「な〜に、こんなとこまで来て、シケた顔してんのよっ!」

親指の腹を中指で弾くようにして、手のひらに滴る水を顔にかけられる。 見上げた濡れた足の主は、雲の向こうに隠れていた太陽までも連れてきたのか、逆光で聖の目を潰しながら、眩しい笑顔を輝かせる。



01.07.2003



...to be continued






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