第2話





一年前。

始まりは真夜中の電話だった。



AM 0:08

trrrrrrrrrrrr……

携帯電話に慣れきってしまってる今日、突然ホテルの室内に鳴り響く呼び出し音にマヤはビクリと振り返る。見当はずれとしかいいようのない共演者とのスキャンダルが持ち上がり、マネージャーの計らいでしばらくは自宅にもどらずこうしてホテルに幽閉されている。そんな状況だからここの番号を知る者なぞ誰も居ないはずなのに。マネージャーなら携帯にかけてくるはずだと、訝しく思うマヤは鳴り続けるコールをそのままやり過ごす。

4、
5、
6……

もう止むかと思った瞬間、なぜだか分からないが手が動いてしまった。室内には再び静寂が戻る。けれどもそこには明らかに異質な1本の糸が入り込んでいる、そういう静寂だった。
受話器を取ってはみたけれど、声を出すことは出来なかった。もしもしつこく接触を図る記者や不審者であれば、すぐに受話器を置いてしまえばいいと思っていたからだ。
沈黙が数秒。受話器の向こうから聞こえてきた声は、張り詰めた1本の糸の上を真っ直ぐに伝ってマヤの耳に刺さる。

「マヤ……?」

耳の奥が白くなり、ベッドの淵に腰掛けたまま、マヤは壁紙を凝視する。

「俺だ。速水……、真澄だ」

目の前の白い壁が、波を打つように一度だけうねった気がした。








AM 0:25

汐留にオープンしたばかりのコンラッドホテルの最上階のバー。一面ガラス張りの壁面の向こうには、東京の夜を彩る眩いばかりの灯りたちがその黒い空と海の上に縫い付けられたビーズのように光を放つ。
奥に置かれた黒いグランドピアノからは哀しげなバラードが流れていた。1フレーズごとに戻ることは出来ない過去を振り返るような、そんな歌い方だった。ピアニストの顔はマヤが座る位置からは見えなかったが、黒いドレスと黒いピアノから浮き上がるように晒された白い背中を美しいと思った。腕が動くたびに、背中の骨が動くのが見えた。

向かい合わせに置かれた重心の低い一人掛けのソファーは、背もたれも肘掛もマヤの体をすっぽりと隠すような厚みと丸みを帯びていて、そこが人目につきやすい場所であるということを忘れさせてくれるような安心感があった。目を凝らさないと相手の顔を窺うことも出来ないほどの暗い照明がさらにそう思わせる。タバコに火をつけた瞬間、真澄のその美しい顔が暗闇に浮かび上がる。一瞬のことだというのに、マヤはその時見た真澄の伏せた睫の様子が鮮明に脳裏に焼き付けられたことを自覚した。

「奇遇だな。ロビーで君の後ろ姿を見た気がしたが、まさか隣の部屋とは……」

膝頭よりも低い位置にある厚いガラスのローテーブルの上に、無造作に置かれた深緑色のカードキーにマヤは目をやる。
本当に偶然なのだろうか。
何かもっと狡猾な匂いを本能的に感じ取り、俄かに真澄の言うこと全てが信じられない気分になる。

「ほんとは部屋から一歩も出るなって言われてるんですけど。マネージャーから……」

「社長の俺が出ろと言った。誰も文句なんて言わない」

「文句は言わなくても、問題になったら困るのは速水さんでしょ?今、私の画像抑えたい人うじゃうじゃ居るんですよ。こんないかにも、なホテルの最上階で飲んでるところ見られたら――」

言われるままに安易に部屋を出て来た自分のことは棚にあげ、マヤは少しだけ真澄を責める調子の声を上げる。

「所属の社長との2ショットなんて、誰も欲しくもないだろうが」

遮るように落ちてきたその言葉に、見かけた夢があっという間に覚めたような感覚が襲う。

信じたら裏切られる
求めれば両手からすり抜ける
想えば想うほど、怖くなる

真澄の顔を見ていると、いくらでもそんな言葉が浮かんだ。








AM 0:48

「反省してるのか?」

「何がですか?」

分かっていてわざとそう答える。むしろ腹立たしさからだったかもしれない。見当はずれな誤解はマスコミだけで十分だ。

「紅天女の初演も終わって、君の地位も名声も今はゆるぎないものになった。確実に仕事が選べる今が一番大事な時だ。共演者との色恋も楽しげで結構だが――」

「女優って、恋しちゃダメなんですか?」

共演者とのスキャンダルは全くのでっち上げであることは、マネージャーや事務所の人間を通して真澄にも伝わっていることはマヤも分かっていた。それなのにそんなことを言う真澄に対して、言いようのない不快感からマヤは真澄が望んでいるであろう答えとは全く違うことを口にした。

『すみません。でもあれは誤解なんです』
『そんなんじゃないんです。でも今度から気をつけます』

そう答えれば2秒で終わった話だったかもしれない。甘いカクテルをストローで吸い上げ、その甘さの奥に隠れたアルコールの存在を意識しようとする。

「今だからダメなんですか?いつだったら人を好きになっていいんですか?それとも、相手によるとか言うんですか?」

明らかに棘を含む調子のマヤの声に、真澄は不意打ちを食らったようにしばし言葉を探す。けれども探している間も決して目が泳いだりしないのが特徴だった。
どこまでも上手で、どこまでも大人だ。
敵わない、とマヤは思う。

「本気で恋をしてるのか?」

「してますよ」

揺ぎ無いはずの真澄の瞳の奥が、一度だけ不安定に揺れた気がした。

「相手は彼ではありませんけれど」

挑むように答えたつもりだった。真澄はそれに対して、複雑で曖昧で、どうとでも取れるような苦笑を浮かべただけだった。








AM 1:05

「お仕事ですか?」

唐突に話題を変えると、質問の意味を図りかねたのか、真澄はその言葉だけでは何も反応しないとでも言うように、両手の指の腹を合わせたポーズのまま微動だにしない。

「ホテルに泊まるなんて、どうしてだろうって。だって速水さんのマンション、このホテルの隣でしょ?」

仕方なくマヤは言葉を繋いだ。

「そんなことまで知っているのか?」

「え、だって有名ですよ、結婚間近の大都芸能の速水社長が汐留の天辺にお家を買ったって。やっぱり新居用なのかなー、とか」

白々しいほどの演技力だと、マヤは自分で思う。そのことで心を痛めていることなどきっと一滴も滲んでいないような声。日常生活でもこうして自分は中途半端に女優になっていくのかと、真澄を目の前にして自覚する。
それでも真澄の返事がないことで、マヤはますます自虐的に傷口を広げる。

「会長のいらっしゃるご実家ではなくて、やっぱり新婚だし二人っきりで居たいからですか?」

「一人っきりで居たいからだ」

低い低い声。
聞いてはいけない言葉を、この世に存在するはずのない言葉を聞いてしまったような衝撃がマヤを襲う。それはまるで世界中の誰にも知られずに、海の底で引金を引かれた拳銃のようだった。

「あの部屋は一人で居たい時のために買った」

発射された鉛の弾を肉体に押し込むように、真澄はそう付け加えた。

「じゃあ、なんで今日はこのホテルに泊まるんですか?」

「眺めがいい」

嘘だと思う。

「マンションは何階なんですか?」

「48」

「へんなの、ホテルよりも高いじゃないですか」

「高すぎて見えないものもある」

そう言って真澄は閉じた唇を一度だけ真横に伸ばし、グラスの琥珀色の液体を、曖昧な言葉の影に隠された全てのものと一緒に飲み込むように体内に流し込んだ。

隣の高層ビルの48階にあるという真澄の部屋を想像してみる。
広い玄関。出しっぱなしの靴など一足もなくて、塵1つない黒く磨かれた大理石の冷たさが感触として浮かぶ。
リビングに続くフローリングの廊下。途中に見えるバスルームはやっぱりホテルみたいに生活感のない清潔さだけが漂う。
ここよりももっと高い位置にあるというリビングに、きっとカーテンはなくて、代わりに黒い海と黒い空が眼の前に広がっているのだろう。隣のビルだったら、きっと浜離宮の緑が真下に見えるはずだ。無論夜になればそこも緑ではなく、黒い森であるわけだが。
家具はきっと少ない。一人掛けのソファーが1つ、ローテーブルが1つ。大きな液晶テレビがあるのは想像できた。
寝室にはシンプルな四角いベッドと、パソコンの乗ったデスク。間接照明で統一された室内は、きっといつも暗い。
そこまで思い浮かべてみて、それはあまりこのホテルと変わらない気がした。少なくともそこで人間が生活していることからくる、温かみやいい意味での空気の乱れがそこにあるとは思えなかった。

「速水さん、幸せですか?」

思ったままのことを口にする。

「ずっと欲しかった紅天女も手に入れて、長いこと手を焼いていたじゃじゃ馬もちゃんと大都に入って、最近はめっきり自分の言うことを聞くようになって、会社は業績も好調すぎるほどに好調で、それからもうすぐ素敵な奥様を貰うって、やっぱり幸せですか?」

「何が言いたい」

真澄は口元に運びかけたグラスを止める。

「出来すぎてて、ちょっと怖くないかなって。
私だったらそこまでくると、なんか出来すぎたドラマみたいで怖くなる」

沈黙は数秒。
黒いピアノはますます感傷的なメロディーを奏でている。

「幸せだ」

簡潔すぎて生身の人の声とは思えない声だった。
直感的にマヤは思う。
速水真澄は二人居る、と。平気で自分を偽り嘘もつく、誰もが知っている冷酷で仕事の鬼と呼ばれる大都芸能の速水真澄と、ほの暗い海の底で世界中の誰にも知られずに拳銃の引金を引く、誰も知らない本当の速水真澄と。
そのもう一人の速水真澄を知りたいと、マヤはその時思った。それは願望や希望というよりも、欲望や渇望に近い種類の感情だった。

「君は幸せなのか」

待っていたように今度はそんな言葉が真澄の口を突いて出てくる。

「幸せですよ。紅天女にもなれて、怖い社長さんはいいお仕事いっぱいくれて、お給料も沢山頂けて、数年前が嘘みたいな生活――」

「それで君は幸せなのか」

何もかも見透かしたようなその瞳に、マヤはほんの一瞬気が遠くなる。

「プライベートな質問にはお答え出来ません。
……って、答えられない質問には言えってマネージャーに教えられました」

顔の半分、目から下の部分の皮膚だけでそう笑うと、真澄も同じように笑った。








AM 1:33

「東京って本当に狭いくせして、大きいんですね」

おかしな日本語だとは自分でも思ったが、真澄は何も否定しなかった。

「紅天女になって突然生活が変わったから、慣れないんですよね、こういう所からこういう景色を眺めるの。
速水さんは最初からこういう所に居て、いつもこうして何もかも上から見下ろして生きてるような、そういう人生だったかもしれないけれど、なんか私はやっとの思いでここまで来てはみたけれど、いつこっから堕ちるのか、それが怖くなるばかりで、素直に綺麗とか素敵とか思えない」

お台場にある巨大な観覧車が、赤や緑の原色の色ゲームのようにチカチカと様々な模様に色を変えるのが見える。

「それは俺も同じだ。人間ほんの些細な事をきっかけにいつ堕ちていくかは分からない。だいたい君は俺を買い被りすぎている」

マヤは観覧車からゆっくりと視線を真澄の顔に戻す。

「人を完全無欠な人間のように呼ぶな。君の目には冷酷で血も涙もない人間のように映っているのかもしれないが、実際は泥臭い感情を山ほど抱えていて、本当に欲しいものを眼の前にして手も足も出ないような、そんな男だ……」

「本当に欲しいもの?
この上まだ欲しいものがあるなんて、ほんとに贅沢な社長さんですね」

「そうだな……」

そう言って、グラスに残っていた琥珀色の液体を真澄がすっかり飲み干すとグラスは透明に戻り、残った氷がわずかにぶつかる音がした。

いつの間にかピアノの演奏は終わっていて、黒いドレスのピアニストの姿ももう見えなかった。
どちらからともなく二人は黙って席を立った。






AM 1:54

「じゃぁ……」

「ああ、明日は早いのか?」

「普通……かな?9時からロケです」

「突然つき合わせて悪かった」

「いえ……。楽しかったですよ。こんなオシャレなところで速水さんとお酒飲むなんて、なんか私じゃないみたいで」

「そうだな、俺も楽しかった」

そこで二人の会話は行き詰る。長いホテルの渡り廊下で、いつまでも立ち話をしている理由はない。ましてやマヤの部屋はもう目の前で、そしてマヤは今誰よりも人目を憚らねばならない存在だった。

「嘘だ。速水さんがこんな子供と飲んで楽しいわけない」

いけないことだと分かっていてもつまらないことを言って、真澄を引き止めてしまう。1分でも1秒でも長く一緒に居たいと思うのは、叶わぬ恋をしている女の叶わぬ願いであるように。

「子供だと思ってたチビちゃんと酒が飲めるから楽しいんじゃないか」

大人な真澄はこうしてさらりと、そんな自分の言葉もかわすように返してくれる。『もうチビちゃんって言わないでください――』そう言葉が出かかった瞬間、エレベーターが到着したことを知らせる短い音が鳴り、人の声が廊下に響く。

「ホントだってー!私見たもん。あれ絶対北島マヤだよ。缶詰になってるって聞いたけど、やっぱ女優だねー、いいホテル泊まってる」

「一緒に居た男誰だろう。一瞬だから見えなかったよ。あの噂のイケメン俳優ではなかったよね?」

「誰だろうねー。今とか一緒に部屋に居たりして」

次第に大きくなるその下世話な声に、真澄はマヤからカードキーを奪うとあっという間にロックを解除しドアの向こうになだれ込むように侵入する。咄嗟のことで訳も分からず真澄に押し込められ、気がつくと自分を抱きしめる格好の真澄の背後でドアがガチャリと閉まった。
あまりのことに何かを喋ろうとしたが、真澄の指が唇に触れる。今は喋るな、そういう意味だとすぐに分かった。ドアの向こうで笑い声が通過していく。続いてドアが開閉する音が聞こえ、廊下は再び静けさに包まれた。
残されたのは不自然に抱き合ったままの二人だけだった。

「あ……の」

真澄の胸に両手を突いて顔を上げた瞬間、熱い吐息が顔にかかり、一気に唇を奪われた。
それは硬直した体にぶつかる熱い鉄の塊のようだった。あまりの力と存在感にもがく事も出来ず、棒立ちになっていたその体に、液体になったその鉄の塊が徐々に流れ込む。
次第に意識が麻痺し、機能が麻痺し、感覚が麻痺し、真澄の舌が無理矢理マヤの唇を抉じ開け、もう1つの汚れた舌を探した瞬間、マヤの舌ももう一方を求め動き始める。
触れてはならないはずだった二つの舌が触れ合ってしまった瞬間、二人の足元だけが跡形もなく崩れ去り、黒い海が深淵となって口を開けて堕ちてくる二人を待ち構える。

あとはただ絡まりあって、
もがき苦しみながら、

1つになって堕ちていくだけだった。





2005.10



…to be continued








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