22歳の春





 









「すまない、少し遅れる」

 真澄からの短いメッセージを受信して、カフェのガラステーブルの上の携帯が震えた。待つことには慣れている。この一年、忙しいその人と付き合うには、待つことは常に当たり前だったから。
 小さく息を吐くと、マヤは窓の外に視線を移す。行き交う人々の中に、華やかな袴姿の学生が混じっている事に気づく。そういえば青山にあるこのカフェのすぐそばには、有名な私立大学がある。今日が卒業式なのだと思い当たった。

 ふと気づいてしまう。
 もしも自分が大学に進学していたら、まさに今年、卒業する年であることに。女優になる事を選んでいなかったら、こうやって袴姿でこれからの人生への期待 に胸を膨らませ、この世の春を謳歌するように歩くもう一人の自分の姿があっただろうか。想像してみたが、上手く浮かばなかった。
 女優への道を自分の全てを懸けて進む、以外はやはり自分には出来なかった。後悔などは全くしていない。本当にギリギリで掴んだ紅天女だったから、少しでも他の事をしていたらきっと辿り着けなかった。


 二十二歳の春。
 それは多くの学生が社会に出る年だ。

 期待と不安と、そして責任というものを背負って、世に出ていく。一生会社勤めなど務まりそうもない自分からしたら、そうして一斉に羽ばたく学生たちは眩しく、そして頼もしく見える。
 思えば十三歳で芝居に出会ってから今に至るまで、ただ夢中にがむしゃらに好きな芝居を続けてきただけで、社会に出たとか、大人になったと思える節目や瞬間が自分にはなかった。
 自分の子供っぽさと頼りなさに、マヤは途方もない不安を覚える。

 先月、こんな自分も二十二歳になったというのに……。









「誕生日おめでとう」

 細かな気泡を抱いたシャンパングラスを真澄が掲げる。真澄と正式に付き合うようになって約一年。去年の二月末から付き合い始めたから、こうしてマヤの誕生日を一緒に祝うのは初めての事だ。

「ありがとうございます」

 レストランで向かい合って座っても、ようやく照れずに顔を見られるようになってきた。

「一年、あっという間でしたね」

 付き合い始めてからの時間の流れは、仕事のピークとも重なり、瞬く間に過ぎていった。

「いや……、長かった。俺には長かった」

 一年を振り返って「あっという間だった」と軽い気持ちで口をついて出た言葉はよくある台詞で、そんな重さを伴った言葉が真澄から返ってくるとは思っていなかったマヤは驚いてしまう。

「長……かった?」

「君にしてみれば、俺への気持ちを自覚して、割とすぐに付き合うことになったかもしれないが、俺はその前の八年がある。君が大人になるのを俺は随分待ったのだからな」

 そう言って、手に取ったマヤの指先に口づける。こうなると、もう完全に真澄のペースだ。顔を真っ赤にしてマヤは俯くしかない。大体、指先にキスなんて、現代の日本人で様になる人がどれぐらいいるのか。

「誕生日プレゼント。まだ早いと君に断られそうな自覚はあったが、俺が一番渡したかった物を渡してもいいか?」

 目の前に差し出される、ベルベットのジュエリーケース。

「結婚しよう」

 真澄は流れるようなスマートさでやってのけた。
 けれども嬉しいよりも先に戸惑いがマヤの中に広がる。

「えっと……、ど、どうしよう……」

 どうしてもジュエリーケースに触れる事が出来ずにいると、苦笑した真澄がケースをマヤの手のひらに乗せる。

「まだ、はめなくていい。ただ持っていて欲しい。君の準備が出来たら、はめてくれ」

 そうしてつい指輪を受け取ってしまったのが先月の二月二十日のマヤの誕生日だった。

(結婚なんかしなくても──)

 それがマヤの偽らざる正直な気持ちだ。一緒にいられるだけで十分幸せだし、本当に自分なぞが大都芸能の代表取締役社長である真澄の妻が務まるとは到底思えなかった。
 ようやく真澄への気持ちを認め、そして真澄からも同じ気持ちを貰い、それを受け止め、隣に並ぶ事にどうにかこうにか慣れてきた、そんな立ち位置の自分だから、今起きている事に対応するのが精一杯で、遠い未来まで見通す事が出来ない。
 自分のそういった所が真澄を苛立たせている自覚はある。
 ままごと遊びにつき合わせてしまっているのでは、と思う事もある。

 けれども一足飛びに、煌めくダイヤの指輪をためらいもなく指につけ、結婚という選択を受け入れるには、まだまだ自分は幼なすぎたのだ。

 あの日からお互い仕事が忙しくて会えていなかった。
 こうしてホワイトデーを名目にようやく会う約束が叶ったが、あの誕生日の夜のプロポーズ以来、というのがどうしたって少し気まずい。指輪は勿論つけてい ない。失くしたら大変だからと、結局真澄に持ち帰って貰った。「随分酷い事をするな」と真澄は呆れていたが、確かに物を自分がよく失くすのは事実と真澄も 知っているので、渋々持ち帰ってくれた。
 準備が出来たらはめてくれ、と真澄は言ったが、そんな日が本当に来るのか、マヤには全く想像出来なかった。







「悪い、待たせたな。会社に寄ったら、見事につかまった」

 そう言って苦笑しながら、二十分の遅刻で真澄はマヤの目の前に着席した。道行く人々の人間観察と、誕生日の夜の出来事の回想一周で、二十分は程よく過ぎていった。

「全然大丈夫です。人間ウォッチングしてましたから」

 素早くコーヒーを頼んだ真澄は、”人間ウォッチング”というマヤの言葉に笑う。

「今日、大学の卒業式みたいです。さっきから沢山袴姿の学生さんが通ってて──」

 目線を外に移した真澄が、あぁ、と納得したように頷く。ここに来るまでの道すがらもきっと沢山の袴姿の卒業生とすれ違った事だろう。

「みんな社会に出るんですよね。私もその年だから、凄いなって……」

 まるでここではない何処かにいる、存在するはずもないもう一人の自分の姿を探すようにマヤはつぶやく。今はまだ分からないけれど、女優になる事で得たものと失った物の存在と大きさに気づくのはきっともっと後だ。

「亜弓さんも、今年卒業だそうです。凄いですよね、あんなに忙しいのに仕事と学業ちゃんと両立させて。私なんて全然まだ子供みたいで、みんな凄いな……」

「逆だろ」

 コーヒーカップに口をつけ目を伏せると、一口コーヒーを味わった真澄が落ち着いた声で言う。

「君は北島マヤという君だけの看板で仕事をしている、出来も評価も君次第だ。すぐに切られるかもしれないし、責任も賞賛もどちらも君に返ってくる。とてもじゃないが並の人間には務まらない。君の方がよっぽど凄いだろ」

 そんな言葉を掛けて貰えるなど全く思っていなかったので、マヤは驚いて真澄をまじまじと見返す。

「むしろ、君のほうが一足先に社会に出た」

「そんな実感ないですけど」

 紅天女の後継者に選ばれた後、大都芸能に所属し、給与を貰うようになった。確かに今思えば、あそこが”社会に出た”ターニングポイントだったかもしれない。

「でも女優のお仕事って、私には働いてるというより、好きな事をしているっていう感覚だし……」

 それもまた偽らざる本音だ。

「紅天女を君の社会人生活スタートと考えると、君がそういう社会の場に出てもう2年だ。よく頑張ってる。もう少し、気持ちを楽にできる時間や場所があると、なおいいんだがな」

 そう言って真澄が静かにマヤを見つめる。自分の事をとても大切に考えてくれる人の目線だ。

「あのプロポーズから一ヶ月近く経ったが、少しは考えてくれたのか?」

「か、考えましたよ、勿論、ちゃんと。でも……、やっぱりすぐには答でないです。私は今のままでも十分幸せなので……。むしろ速水さんと結婚なんて恐れ多くて……」

 その言葉に真澄が柔らかく笑う。苦笑とも少し違う、穏やかな笑みだった。

「芸能という仕事は、渦中にいると流れるように時が過ぎていく。会社員のように昇進も昇格もない。新年度もないし、入社式もない。いつのまにか消えていく 奴も多い。事務所という組織には属していても、仕事の上では常に自分と向き合い続けていく、ある意味孤独な仕事だ。十年なんてあっという間に過ぎる」

 芸能事務所の社長の言葉として、あるいは十一歳年上の人生の先輩として、その言葉は真実を含んだ分、重く響く。

「二十二歳の春か……。君も何か一つ、卒業したらどうだ?」

「え? 何を?」

 唐突な振りに驚いて、マヤは飲みかけのカフェラテを喉に詰まらせる。

「独身でいることを。嬉しい事に俺も同時に卒業できるぞ」

 真澄は冗談のように笑い、思わずマヤもつられたように笑いかけたが、あの日見たベルベットのジュエリーケースを真澄が再び取り出すと、冗談ではない空気にマヤは硬直してヒュっと息を呑む。

「卒業証書、北島マヤさん」

 カフェの喧騒が一瞬で遠くなり、シンとした空気がテーブルの上に広がる。ジュエリーケースの蓋が開けられ、眩い光を放つダイヤの指輪がじっとこちらを見ていた。

「あなたは精一杯、一人でここまで強く生きてきました。そして立派な素晴らしい女優の道を歩き始めました。一人を卒業し、この先の人生は二人で支え合いながら、私と生きていきませんか?」

 その言葉はなぜかとても自然にマヤの中にある、小さな歪な窪みの中に収まる。母を亡くし、天涯孤独な身となってから、意識して見ないようにしていた窪み だ。家族もなく、自分はこの世でたった一人の存在であると、急に夜中に一人で膝を抱えたまま、マンションの片隅で感じてしまう、あの窪みだ。

「私でいいんですか?」

 まっすぐに真澄の瞳を見つめる。その瞳に映るのは紛れもないマヤ自身だ。

「君がいい。君じゃないとだめなんだ」

 その言葉にマヤは、まっすぐ左手を差し出す。

「よろしく……お願いします」

 不意をつかれたように、今度は真澄が硬直している。あれだけプロポーズの返事を迫っておきながら、いざ本当に返事をしたら、接続不良のロボットのようになってしまうとは。
 ようやく真澄がマヤの左手を取る。指先をなぞりあげるようにして、存在を確かめられる。まるでプロポーズの返事がそこに書いてあるかのように。
 煌めくダイヤの指輪がゆっくりと薬指の定位置にはめられる。
 確かにこの石がここに辿り着くまでの道のりは、あっという間ではなく、長く、長く、とてつもなく長い道のりだったと思える。
 思わず目の前にかざして、光の反射で輝く美しい様をマヤはしばらく眺めていた。その向こうには未だかつてないほどに穏やかに、そして満足気に笑う真澄がいた。








 


カフェを後にして、二人は骨董通りを並んで歩く。

「結婚したら、何が変わるのかな?」

「一番最初に俺に連絡がくる」

「え?」

 左手を目の前にかざしながら歩いていたマヤは、その答が想定外過ぎて、驚いてダイヤから視線を外す。

「君にもしもの事があったり、何か不測の事態が起きた場合、真っ先に俺に連絡がくる。家族だからな」

 思った以上に現実的な答に、マヤは慌てて頷く。

「それから一緒の墓に入れる」

「お、お墓?!」

 さらなる想定外の言葉にマヤは今度こそ絶句する。

「あとは世界中に向かって、君は僕の奥さんだと言える。君が誰の恋人を演じようと、誰の奥さんになろうと、誰とキスしようと、君が本当に愛しているのは俺だけだと」

 そう言って、繋いだ手に素早くキスをされる。

「た、大変! 女優の夫って大変なんですね」

「今更気づいたのか? 俺は嫉妬心と独占欲の塊だ。悪いがこればかりはどうにもならない。諦めてくれ」

「あ、諦め?! どういうふうに?」
 
 またまたとんでもない事を要求されそうな予感にマヤは身構える。

「いつもそばにいて欲しい。俺が安心できる距離で、隣で笑っていて欲しい」

「意外にザックリなんですね。もっと凄い細かい事要求されるのかと思ってました」

 拍子抜けしたようにマヤは笑う。

「自分が充分酷い悪い男だという自覚あるからな。二十二歳なんてまだまだ子供だ。これからたくさん出会いもあるだろうし、俺よりいい男もいっぱいいる。恋愛経験だってもっと楽しめたかもしれない。俺はそんな君の未来を根こそぎ全部奪うんだ」
 
 またしても想定外の事を言われ、そんな事まで思っていたなんてとマヤは心底驚く。

「考え方がネガティブ過ぎません? もう辛い思いする必要ないとか、もう一人で泣く必要ないぞとか、それこそ速水さんぐらいの自信家だったら、『俺よりいい男なんてどうせこの世にいない、時間の無駄だからさっさと俺に決めて結婚しろ』ぐらい思ってるのだとばかり」

「君に対してはそうじゃない事、いい加減気付いているだろ? 余裕があった事なんて、一度もない」

 ふとこれまでの自分に対する真澄のいくつもの姿が蘇る。冷静沈着で大人の余裕を見せつけられていたとずっと思っていたが、そうでない瞬間も沢山あった。真澄のそういった人間らしい姿を愛おしく思う自分がいる。

「そうですね。確かに気づきました」

 まっすぐにその瞳を見つめ返す。自分に自信がなかった時は、この瞳をまっすぐに見つめ返す事がとても難しかった。

「だから……、約束します。ずっとそばにいます。不安になんかさせません。この先ずっと、速水さんだけです」


 北島マヤ、二十二歳の春に誓う。
 幸せにして貰うのではなく、自分こそが必ずこの人を幸せすると。










 翌朝、珍しく朝九時を過ぎても起きない真澄の寝顔をマヤは静かに見つめる。
 どんな時でもマヤよりも早くに目を覚まし、隙のない姿しか見せない真澄が無防備に隣で眠っている。
 ようやく自分がプロポーズを受け入れた事で、安心したのだろうか。目覚ましもセットしなかったようだ。

(やっと安心させてあげられたんだ)

 言いようのない温かな気持ちが込み上げてくる。
 ふいに透明なものが、眼尻から伝う。

 自分の中から思いがけず溢れ出たそれに、マヤはそっと指先で触れる。
 きっとこれが、今の二十二歳の自分にとっての ”愛” だ。
 

 白いカーテンの向こうから春の光が降り注ぎ、ようやく二人に訪れたこの世の春をそっと祝福していた。

 
 






 


2025 . 2. 20





< FIN >






あとがき、のような

今年の1月でESCAPEはお陰様で22周年を迎える事が出来ました。
22って、子供だったら成人通り越して、大学まで卒業しちまうじゃねーか、と呟いたんですけれど、その時ふっと残像のように、袴姿の女子大生達が行き交う姿に、同じ22歳であるマヤちゃんの胸に去来したものについて思いを馳せてみました。

22歳で結婚って、早いですよね。
社会人生活を始めて、新しい出会いが沢山あって、これからっていうタイミングで。でも、この二人ならもうしちゃっていいと思うんですよ。だってこの二人以外、ありえない訳ですからお互い。
気持ちが通じ合ったら、もう即日上等で。笑
ってか、して、お願いだから。

今回、朝チュン前のマヤちゃんの”22歳の誓い”で終わる予定だったんですけれど、
”プロポーズ快諾で安心のあまり寝坊する速水さん”
がどうしても書きたくて、つけたしました。マンガだったら上半身裸のサービスショットですw
省略された部分は、同人誌になる時、手が滑ったら書き足しておきますw









励みになります!
拍手
novels top/home