ROOM 1 |
《 in my room 》 仕事を始めてから此の方、体調を崩した記憶がない。 正確に言うと、疲れからくる多少の体調の悪さなどはあったが、例えば熱を出して寝込んだとか、感染症に罹患して出勤停止になったとか、そういった類の病を患ったことはない。 それ故、突然のそれは想定外の不自由さを真澄に強いることになる。 発熱からの嫌な予感。 幸いマンションの一階にクリニックが入っていたのですぐに受診し、検査をした結果、見事インフルエンザBの陽性反応が出てしまった。 どこか自分の身体を過信してた部分があった。これだけ無茶をしても特に身体を壊さないのだから、自分は無敵なのだろうと。けれども、大都芸能社内でも大流行中の感染症からは、さすがに逃げ切れなかったようだ。 「すまない、俺も流れ弾に当たってしまったようだ。5日の出勤停止だ」 額の辺りにどこか疼くような熱の塊を意識しながら、真澄は水城に電話でそう伝える。 「インフルBですか?」 「あぁ……」 そこで喉に不快感が込み上げ、真澄は小さく咳払いをする。いよいよ、身体のあちこちで何かが悪さをし始めているようだ。 「むしろこちらの管理が行き届かず申し訳ありません。秘書課と企画二課も軒並み感染者が出てます」 「タレントや俳優達にだけはうつさないよう、各自体調管理を徹底してくれ」 それだけ伝えると、二、三の業務内容の確認をして電話を切る。切った瞬間、急な悪寒が足元から這い上がり、とんでもない寒気と倦怠感に、 (リモートで仕事ぐらいすればいい) などと甘く考えていた計画を捨て、真澄はベッドに倒れ込む。 苦しい……。 水を飲みたいと思ったが、身体が起き上がらない。 水は冷蔵庫にあったはずだが、そういえばこれといった食料もないことに気づく。とは言え、今この状態で買いに行けるとはとても思えない。 (どうでもいい……) そんな投げやりな思考がいくらでも浮かんでくる。 シンと静まり返った部屋の中で、自分の荒い呼吸だけが一定間隔で響く。タワーマンションの最上階であるこの部屋には、外部からの生活音など一つも届かない。 ふと自分が図り知れぬほどの孤独の中にいるのだと嫌でも実感させられる。普段、仕事の際には好むと好まざると多くの人に囲まれているが、こうしてそういった社会的な繋がりを断たれた瞬間、自分を気にかける人間など一人もいないと思い知らされる。 (こうやって一人で歳を取って、そのうち孤独死でもするのだろう) そんなネガティブな思考がドミノ倒しのように押し寄せてくる。身体が弱ると、一気に心まで蝕まれていくようだ。 (もしこのまま死んだとしたら一番後悔することは……) 一度傾き始めたネガティブな思考回路は、そんな愚かしい果ての場所までたどり着くと、閉じた瞼の裏にマヤの顔が浮かぶ。 「マヤ……」 思わず、熱のこもった苦しい吐息の合間からその名を呼ぶ。 やがて、日頃の睡眠不足も手伝って、泥のような深い眠りが押し寄せる。 閉じかけた瞼の向こうに、薄らぼんやりとマヤの輪郭が見えた気がした。 ![]() 「うわ……、熱い……」 誰かの手の感触を額に感じて、真澄の覆っていた眠りの膜に僅かな亀裂が入る。熱と疲労がまだここにいろと、重しをつけたように身体を引き止めるが、真澄は何度か瞬きをして、自分が置かれた状況を無意識に図ろうとする。 どのぐらい眠っていたのだろうか──。 ようやくぼんやりとしていた視界が定まってくると、真澄はありえない存在をその瞳に捉える。 「マ……ヤ……?」 喉が張り付いて、上手く発声出来なかった。 問いかけに対してマヤが覗き込むようにして笑う。その瞬間、真澄は気づいてしまう。 「なんだ、夢か……」 「そうです、夢ですよ」 ご丁寧に夢がそう答えてくれる。 「よく出来た夢だな」 そう言って、消えてしまいそうな、その夢の欠片に触れるように、すぐそばにあるマヤの頬を指先でなぞる。夢だから、そんな事をしても振り払われたりしない。 「だから安心してちゃんと寝て下さいね」 まるで聖母のような柔らかな笑みに、思わず真澄の腕が伸びると、一気にベッドの上に抱き寄せる。 「夢ならばこうしてもいいな」 そう呟くように言うと、夢でしか手に入らないそのぬくもりを抱きしめる。 「ちょ、ちょっと──」 夢にしては腕の中の存在は取り乱したように暴れている。リアルだ。 「夢なんだから、大人しくしてろ」 そう言って腕の中に閉じ込めると、背後からすっぽりと覆い被せてしまえる小さな体、骨と筋肉だけの己の男の肉体とは明らかに造りが違う肌の柔らかさ、あ るいは髪や素肌から立ちのぼる、香水とも違う、マヤだけが放つ匂い、そういったものが夢とは思えない程のリアリティでもってしっくりと身体に馴染んでしま う事に真澄は戸惑う。それは、慣れない発熱の倦怠感に誘発され、誰もいないこの無機質な部屋の中に強制的に浮かび上がり、そして眠る直前まで自分を苛ん だ、あの”孤独”とは対極にあるような安心感と温もりだった。 (放したくない) 腕の中の存在の髪の間に顔を埋めて、そう願う。 「放したくない」 夢なのだから、と口に出してみる。普段、絶対に口に出せない事を口にするのは、思いの外、心が軽くなる。 「ずっとこうしていたい」 自然と次の言葉も口をついて出てくる。 「じゃぁ、こうしてましょう」 穏やかな優しい声がなだめるようにそう言って、回された真澄の腕に手を重ねる。 これ以上ないほどの安心と心地よさを胸に抱いたまま、真澄は”夢の中”で再度、眠りに堕ちていった。まるで箱の中に存在する箱のように、あるいは開ければ開けるほど深部に近づいていくマトリョーシカの人形のように……。
![]() どのぐらい眠っていたのだろうか。 一瞬だった気もするし、数日経ったと言われても納得してしまう。明るいうちから寝てしまった時特有の時間の流れ方に戸惑いながら、真澄は体内時計の手がかりを探ろうとする。 ふと腕の中でモゾモゾと動く温もりに驚いて見下ろす。 こちらを見上げる、ありえない存在と目が合い、息を呑む。 「おかしいな、まだ夢が覚めないのか?」 「そ、そうなんです。長めの夢なんです」 マヤらしい返答に、夢と言えどもこれほど強く想う相手だからこそ、精度の高い返答をしてくれるのだろうかと思わず真澄は苦笑する。 「熱、どうですか?」 「少し下がった気がする」 明らかに熱源を抱えたあの倦怠感や関節の痛みはすでに峠を超えたように消えている。ベッドサイドに置いてあった体温計を手探りで掴むと、マヤを抱いたまま熱を測る。 37.9度。 クリニックで診断を受けた際には39度を軽く超えていた事を思えば、だいぶ楽だ。おそらく薬も順調に効いてきているのだろう。 「あの、お水置いておきました」 見ると、寝る前にあれほど欲しいと思ったペットボトルの水がベッドサイドテーブルに置いてある。 「助かった」 そう言って、勢いよくペットボトルを煽ると、寝たまま半身を無理やり起こした体勢が災いして、派手に水がこぼれた。 「きゃーーー、大変っ!!」 悲鳴をあげたマヤが 「濡れたもの着てるのよくないです」 と無理やりTシャツを剥ぎ取りにくる。笑いながら、言われるがままにTシャツを引き抜かれるように脱がされた。夢でマヤに服を脱がされるなど、これは自分自身の願望なのかと、思わず呆れたような苦笑がこみ上げる。 部屋を出て、バスルームからタオルを持ってきてマヤが再びベッドの上に戻ってくる。本来ならばタオルを渡されれば自分で拭けばいいことだが、何せ自分は今、重病人だ。 「拭いてくれるのか?」 そう言って裸体をマヤに対して見せつけるというセクハラまがいな事も、夢でならいくらでも出来てしまう。 「も、もうっ、今日だけですからねっ」 真っ赤になりながらもマヤは甲斐甲斐しく水と汗を拭いてくれた。 「胸筋、凄いですね……。鍛えてるんですか?」 マヤの指先がいまだ熱を帯びた胸部に触れる。 「マンション内に住人専用のジムがあるので、時々行く程度だ。言うほど鍛えてる訳でもない」 「十分凄いです。私の体とは全然違う」 無自覚にマヤの指先が煽るように、肩から腕を辿って、また胸部をなぞった。これもそうされたいという願望なのだろうか。自らの中に潜む、とんでもない欲望を必死で抑え込もうとするが、マヤのそれはおかまいなしにその曖昧な境界線を超えてくる。 「いつもスーツしか見たことなかったから、速水さんがこんな凄い筋肉持ってるとか全然知らなかった」 そう言って、明らかにもう水気は拭き取られてなくなったはずの胸部を、確かめるように触れてくる。 「あ、ごめんなさい! 新しいTシャツ着ますよね? どこですか? 取ってきます」 我に返ったように飛び退いて、ベッドから出ようとするので、その手を掴んで再び胸の中に抱いた。 「別に着なくてもいい。君がこうしてくれていれば十分温かい」 夢だと思えば、どんな無理強いでも平気で出来てしまう自分が恐ろしい。そして、夢だからこそマヤは抵抗する素振りも見せず、じっと抱かれている。 「嫌がって出ていかないんだな」 「病人には親切にするって決めてるので」 またしてもマヤらしい精度の高い回答に真澄は吹き出すように笑ってしまう。 「他にも何かして欲しいことありますか?」 瞳をうるませて、こちらを見上げながらそんな事を無防備に口にする。ベッドの中で、真澄の上半身裸の体に抱かれながら密着した体勢で、一心にこちらを見 上げる視線は中々に扇情的だ。頭の芯がクラクラしてくる。それが無理やり薬で押さえたインフルエンザの熱源の復活なのか、あるいは長きに渡って己の肉体の 奥底に禁欲的にしまい込んだマヤに対する劣情なのか、真澄には次第に分からなくなる。 「して欲しいと言ったら、可哀想な病人にこのかわいいナイチンゲールは何でもしてくれるというのか?」 一瞬顔を赤らめ困惑した表情で俯いたマヤが、時間をかけて、もう一度こちらを見上げる。かわいそうに、今にも泣きそうな顔をしている。 「……速水さんがして欲しいことだったら、なんでもします」 消え入りそうな声でとんでもない事を言う。 「かわいいな。これでキスでもしたら、俺はとんでもない犯罪者の気分だ」 「キス……して欲しいんですか?」 あざといにも程がある、死ぬほど可愛い上目遣いでまるで「水が欲しいんですか?」とでも言うような口調で言われ、いったい何の罰ゲームをさせられているのだと、真澄は思わず手で己の目元を覆う。 (夢なんだから、キスぐらいしてもいいだろ) 心の中の悪魔がそう囁く。熱でイかれた野郎が、それに同意する。 「ああ……、してくれるのか?」 じっとこちらを見上げていたマヤが、一度だけ目線を反らした後、ゆっくりと顔を近づけてきて、固まるばかりの真澄の唇に触れた。 それは禁断の果実。 食べてはいけなかったはずの林檎。 触れてしまったからには、もう後には引けなくなる。 真澄はマヤの後頭部の髪の根元に手をいれると強く掴む。そっと触れて、離れていくつもりだったマヤの唇を逃がすつもりはもうなかった。 2026 . 2. 20 …to be continued
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