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| 第3話
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「速水さん!」 思わずそう叫んでしまったあと、驚いた拍子に風に煽られ口に入ってしまった髪の毛を、マヤは右手の人差し指で戻す。 「奇遇だな、チビちゃん。君にこんなところで会うとは」 取り乱した自分とは対照的に落ち着き払った目の前の真澄の声。この人はいつだってそうなのだ。この程度のことで、驚いたりなどしない。偶然を運命と取り違え、取り乱すのはいつも恋愛において弱い立場にいる者だけなのだ。 「速水さんこそ、こんなところで何してるんですか」 弱気な本心を悟られたくなくて、都合そうやって尖った声を出してしまう。そして出してしまった後で、自らが口走った内容の馬鹿馬鹿しさに気づき、慌てるのもいつもこと。 「って待ち合わせ、ですよね。こんなナイトクルージングの名所で、一人で散歩とか仕事とか、ないですよね……」 「いや、俺は降りるところだ」 先ほどの言葉を最後に俯いていたマヤは、その意外な言葉に驚き真澄の顔を見上げる。 「え、だって船、今から出るところですよ」 「用は済んだ。もうこの船にいる必要がなくなった」 乾いたその声には、それ以上のなにものをも寄せ付けない、何かがあった。それ以上は聞いていけないような、それ以上は探ってはいけないような。以前から思っていたことだが、時々、真澄の声にはそういう近寄りがたい硬質な響きがする。それが真澄特有のものなのか、大人の男の持つ鎧のようなものなのか、マヤには分からなかったが、分かっているのはそれ以上は近づいてはいけないということだった。 「チビちゃんは、待ち合わせか」 どこかからかうような声音。 そうだ、この人はわかっているのだ。自分が今、誰と待ち合わせ、なぜここにいるのか。分かっているから、そんなからかうような声が出せるのだ。 週刊誌に桜小路との一件が取り沙汰された時、それとなくマネージャーに聞いてみた。社長はこの一件について、どう言っているのかと。 『仕事に支障が出ないなら放っておけ』 そう真澄が言い放ったと聞いて、少なからず傷ついた。分かってはいたつもりでいたはずなのに、それでも傷ついた。自分という人間が投げた小石ごときでは、真澄の心の中には少しの波紋も広がらないという今更の事実に。 「つきあっているのか」 夜風がまた二人の間を吹き抜ける。真澄の抑揚のない低い声。 その声の持ち主を辿るように目線を上げ、真澄の瞳を見る。 この人なら、説明しなくても分かってくれるのではないか、そんな漠然とした想いがふとよぎる。何が、というよりも、全てを。 「つきあっていません」 予想外にその言葉は、迷いなくまっすぐに響いた。それだけのことなのに、マヤはその自分の声にひどく満足した。 「周りはそう思ってはいないぞ」 それは自分もそうは思っていない、そう言っているようにも聞こえた。他の誰にそう誤解されても、この人にだけはそう思われたくない、その焦りから、一瞬にしてカッと体温が上がり、言葉がもつれる。 「そんな……、でもほんとにただのいい友達なんです。芝居の仲間で、家族みたいなもので――」 「だからそう思っているのは君だけだろ。少なくと彼は、君のことをいい友達だとも、ただの芝居の仲間の一人だとも、ましてや家族だとも思っていない」 苛立ちが棘となって、言葉の端々に刺さったような真澄の声。自分の弱さと甘さを責められているようで、呼吸の仕方がおかしくなりそうになる。 「そうやって自分は悪者にならずに、都合よく相手に諦めてもらうのを待つつもりか」 「あなたに何が分かるんですかっ!」 自分の中に怒りの沸点があるとすれば、それはまさにそこであったかもしれない。けれども心のなかに瞬時に湧き上がったその感情は、それが最も触れて欲しくはない真実を突かれたからこそ、噴出したことも否定できない。 ――自分は悪者にならずに、都合よく相手に諦めてもらう 「だって、だって……、しょうがないじゃないですか。私だって桜小路君、好きになれれば苦労しなかった。そしたらもっと簡単に幸せになれてた。でも違う人好きになっちゃったから、とんでもない人を好きになっちゃったから――」 想いは絡まり、言葉はもつれる。 「だから気持ちには応えられないって、彼にもちゃんと言ったけれど、報われない相手をいつまでも好きでいるなんて、誰も信じてくれないんです。一生叶わなくてもいいから、想っていたいなんて、そんなの誰も認めてくれないんです。こんな気持ち、説明しないとわからない人には、どれだけ説明したって、結局はわからないんです!」 手の中の携帯電話が鳴る。 液晶には桜小路の名前。脅迫じみた電話の呼び出し音。 こんなの、蟻地獄だ――。 「もしもしマヤちゃん、今どこ?もう乗ってる?僕も乗ってるんだけど、マヤちゃん見当たらなくて」 電話の向こうのその声は、近くにいるはずなのに、まるで異次元から聞こえてきている気がした。そう、どれだけ説明してもわかりあえない異次元から。 そんなマヤを射るように凝視する真澄の視線。 ゆっくりと近づくその体は、内側に何か恐ろしいものを秘めているような熱を持っていた。 「それで君はどうしたいんだ」 携帯を握ったマヤの手を耳元から引き離すように強く掴む。 ドウシタイ? 激しい自問自答を瞳の奥に宿したまま、マヤは真澄を見つめ返す。 「なんとかして欲しいなら、俺がなんとかしてやる」 何をどう、なんとかするというのだ。けれども自分にはもう限界だった。どうしたらいいのかも、分からなかった。 『マヤちゃん?マヤちゃん?』 真澄が引き離した携帯から聞こえる桜小路の声が遠のく。 「助けて……くださいっ!!」 その瞬間、ありえない程の強い力で腕を取られる。上がりかかった船のタラップを強引に真澄に腕を引かれ、転がり降りる。 出港の汽笛が鳴り響いた瞬間、全ての闇を押しのけるほどの強さで抱きしめられ、口づけられる。圧倒され、反り返る上半身。 視界の端に、立った今出港した船のデッキから呆然とこちらを見る桜小路が目に入る。それに対して、意識が動きかけたが、真澄の強引なキスがその最後の意識さえも奪い去る。マヤの手の中から、携帯が滑り落ちた。 自由になった手が、自然と真澄を求める。 こんなキス、きっと一生もうできない。 世界中に怒られても構わない。 このまま死んだって構わない。 そんなことが頭の隅に浮かんでは、真澄に奪われるように消えていった。 クルージング船が東京湾の暗闇の向こうに消える。桟橋には、いつしか静けさが戻る。 「速水さん、もう船いないですよ」 それでも終わらない口づけを浴びせる真澄に、マヤは戸惑う。 「そうだな」 「桜小路君、見てましたよ」 「当たり前だ、見せたんだ」 飛び退くようにマヤは真澄の胸に手を付き、上体を離そうとするが、真澄の腕はマヤの細い腰を捕らえたままだった。 「説明してもわからない奴には、説明しないで分からせるまでだ」 涼しい声でそう言い放つ。 「さすがの奴も俺が相手なら諦めるだろう。東京湾を一人で一周してる間に頭も冷える」 楽しそうに笑う声。いったいこの人はどこまでが本気で冗談なのか、まるでマヤには分からなくなる。 「さっき……」 ふと現実に引き戻されたようなマヤの小さな声に、真澄の笑い声が止まる。なんだ?、そう口角だけを引きあげて表情で質す。 「キスする直前、私の耳元で言いましたよね。なんだか恐ろしいことを」 「ああ……」 なんでもないふうに真澄は笑う。些細な思い出し笑いのように。 『高くつくぞ』 キスの直前、マヤの耳元で真澄はそう囁いたのだ。 「いいですよ。なんでもどうぞ。ここまで見事に助けていただいたんですから、私だってそれ相応のお礼は――」 「君が欲しい」 遮るような真澄の一言。冗談では済まされないほどに、それはまっすぐに響いた。呼吸器の一部を不用意に掴まれたかのように、マヤの呼吸が止まる。 「は?何言って……、そんなこと……、だって速水さん、紫織さんは――」 起こり始めたありえない事態を、そう簡単に受け入れることなどできるわけがない。あのキスに続きなんてあるわけないのだ。 「俺は悪者になって、相手に認めてもらった」 冗談ではない静かな声。先ほどの自分を責めた真澄の言葉と対になるそれは、あまりに静かで衝撃的だった。 「君の紅天女が俺を変えてくれた。現代の奇跡を君が信じさせてくれた」 どこまでも落ち着いた真澄の声。振り切れた心臓のメーターが少しずつ落ち着いてくる。 「いきなりそんなこと言われても、信じられない……」 「いきなりじゃない。ずっと君を愛していた。 君が知らない間もずっと……」 先ほどの性急さとは違う、大切なものに触れる温かさでもって、もう一度ゆっくりと二人の唇があわさる。 都会の月の光に照らし出された一組の男女。 それは幾千年もの昔から、何度も姿を変えては出会い、二つに別れた魂を引き寄せあってきた二人の今日の姿。 ようやく巡り合えたその姿は一つの終わりであり、また新たな始まりでもある。 地球はゆっくりと回転を続けている。 絶えることなく、惑わされることなく。 当たり前の事実として。 二つの魂が今一つになる。 当たり前の奇跡として。 ![]() illustrated by ミナ様 |