真澄の機嫌はすこぶる悪かった。
朝一番の会議の書類を整えながら、水城は部屋の隅でひっそりとため息を吐いた。
“よりによって月曜の朝から。本当にやめていただきたいものだわ。まあ、原因はわかりきってるけれど。いつまで経っても進歩がないこと。真澄様、いい加減にしてくださいませ!”
真澄がマヤと付き合い始めて3ヶ月になる。マヤは紅天女に選ばれ、大都芸能と契約した。真澄も紫織との婚約を何とか解消し、マヤに積年の想いを告げた。そして、何とマヤは自分も同じ気持ちだったと言ってくれたのだった。ここ数年の悶々とした日々を考えたら、夢のような毎日、のはずだった。いや、幸せなのは間違いない。無理に用事を作らなくてもマヤに会える。マヤと何気ない会話を楽しみ、一緒に過ごせる。幸せでないはずがない。しかし。
昨日のデートを思い出すと、真澄はやるせない怒りをぶつけるように、コーヒーカップをどすんとデスクに置いた。
ふたりは次のオフの予定について話し合っていた。
「どこか行きたいところはないか?」
ガラス張りのティーサロンで午後の陽を受けながら、マヤが顔を上げる。3つ目のケーキにちょうどフォークを入れたところだった。仄かに蒸気した、桜色の頬。幸せそうにケーキにぱくつく艶やかな唇。心持首を傾けながら、じっとこちらを見つめる大きな瞳。不意に眩暈を覚えるほどの幸せの発作に襲われて、真澄は呆然とマヤを見つめる。
「行きたいところ、ですか?別にどこでもいいですよ」
マヤは真澄の視線に気付くことなく、ナプキンで口元を拭うとティーカップを持ち上げる。ふうと息を吐き、紅茶をひと口飲むと、おもむろにケーキに取り掛かる。秋のケーキフェアの目玉、大粒の栗のモンブランだった。
「ずいぶんつれないんだな。張り合いがないじゃないか」
ケーキに完全に関心が向いているマヤが少し不満で、真澄はついそんなことを言ってしまう。マヤが心外そうに真澄を見る。
「何ですか、張り合いって。あたしは速水さんに任せるって言ってるだけじゃないですか」
雲行きがだんだん怪しくなってくる。しかし、真澄は自分を止められない。
「…遊園地が今度オープンするな」
10月1日に、湾岸の再開発地区に大型の遊園地がオープンすることになっていた。大都グループも一枚噛んでいる一大プロジェクトの一環だった。
「そうみたいですね。速水さん、よく知ってますね」
話が見えないことにわずかに眉を顰めつつ、マヤが答える。
「ああ、うちも出資しているからな」
ふうん、と頷きながらマヤが再びケーキに取り掛かる。
「…行きたいんだろう?」
マヤがえっ、と手を止める。不審そうに真澄を窺う。
「桜小路に誘われたんだろう?小耳に挟んだんだ。湾岸に新しくできる遊園地に君がすごく行きたがっていたから、頑張って先行販売のチケットを手に入れたそうじゃないか」
小耳に挟んだのではない。聖に調べさせたのだ。紫織への配慮もあり、ふたりの交際を知っているのは身近の少数の人間に限られていた。もちろん桜小路はそんなことは夢にも知らない。
「あたし、断りましたよ」
マヤが固い声で言う。
「でも、行きたいんだろう?素直にそう言えばいいじゃないか」
真澄の絡むような物言いに、マヤも頭に血が上ってくる。
「何が言いたいんですか?じゃあ、あたしに遊園地に行こうって言われたら速水さんはどうするんですか?一緒に行ってくれるんですか?すごく人目につくし、速水さん人込み大嫌いだし、だいたい遊園地なんて興味ないくせに」
「・・・・・・・・・」
気まずい沈黙が漂う。真澄もマヤの言っていることが当たっているだけに咄嗟に言い返せない。しかし、納得したわけではない。マヤが、自分には行きたいところはないと言いながら、一方で桜小路に無邪気に遊園地に行きたいと言っていることが気に入らない。つい、いらないことを考えてしまう。
“やはりマヤはそれほど俺を好きではないのかもしれない。本当は年恰好も釣り合った桜小路なんかと遊園地に行ってはしゃいでいる方が楽しいのだ。”
「…ごめんなさいっ」
見る見る眉間に皺を寄せて黙り込んだ真澄を見て、マヤが慌てて謝る。ひどく怒らせてしまったようだった。
マヤは真澄に無理をさせたくないだけなのだ。紫織との破談とそれに伴う追加の業務…。真澄は何も言わないが、死ぬほど大変な思いをしているのは確かだ。想いが通じたとは言え、我儘を言うような気にはとてもなれない。真澄が自分を好きだと言ってくれたことだけでも夢のようなのに、これ以上何かを要求するなんて…考えられない。
不器用なふたりは見事にすれ違っていた。
「ほら、速水さん毎日お仕事大変だし。きっとすごく疲れてると思うし。あんまり無理しない方が…」
捻じ曲がった真澄の思考は、善意の言葉を即座に読み替えていく。
“要するに年だと言いたいのか。”
ますます眉間の皺を深くした真澄を前に、マヤは途方に暮れていた。気まずい空気を誤魔化すように一生懸命フォークを動かす。それがさらに真澄を苛立たせる。結局、その日、ふたりは誤解を正すことなく別れてしまった。
「…社長、社長、真澄様っ、会議のお時間ですわよ!」
水城の声にはっと顔を上げると、真澄は仏頂面のまま書類を掴んで社長室を後にした。
“もう、何なのよ!あの態度は!次のオフまでこの調子じゃこっちの身が持たないわ。今夜あたり探りを入れてみましょ。”
真澄のスケジュールを確認しながら、水城は考えを巡らせる。待っていても事態は好転しないのだ。できるだけのことをやってみるつもりだった。
「やあ、マヤちゃん!」
着替えを済ませて稽古場を後にしようとしていたマヤに、桜小路が声をかける。帰り支度を済ませて、大きなボストンバッグを肩に背負っている。
「どうしたんだい?何か元気ないね」
真澄との諍いが気にかかって、マヤは沈んでいた。桜小路が気にかけてくれていたことに少し慰められる気がする。
「うん…ちょっとね」
桜小路は首を傾けてしばらくマヤを見つめていたが、不意にマヤの手を取ると走り出した。
「え、ちょ、ちょっと待ってよ!桜小路君ってば!どこ行くの?!」
慌てるマヤの手を楽しそうに引きながら、稽古場を後にする。玄関のところで誰かとぶつかりそうになったが、桜小路はお構いなしに駆け抜ける。マヤは引き摺られるように連れ出されてしまった。
「・・・・・・・・・」
ふたりがすれ違った人物は、去っていくふたつの背中を無言で見つめると、苦渋に満ちた表情でタバコを取り出した。
「…真澄様、ここ禁煙ですわよ」
水城の言葉に忌々しそうにタバコの箱を握りつぶすと、真澄は大きく息を吐いた。
「今夜の接待ですが、先方の都合で延期になりました。代わりと言っては何ですが、私にお付き合いいただけませんでしょうか?」
水城からの意外な申し出に、真澄が目を見開く。
「…いったいどうしたんだ?」
「…大事なお話がございますので」
そう言いながらふたりが去って行った方向に意味深に目を遣った水城を見て、真澄はため息を吐きながら頷いた。
「…いいだろう。君の話とやらを聞こうじゃないか」
「もう!いったいどうしたの?びっくりするじゃない!」
激しく息を吐きながらしゃがみこんだマヤを尻目に、桜小路は大きく伸びをした。ふたりは稽古場の近くにある見晴らしのいい公園に来ていた。公園は高台にあり、街が一望できた。
「ほら、マヤちゃんもおいでよ。いい眺めだよ」
桜小路の呑気な言葉に、マヤが渋々近づいていく。柵の向こうは急な斜面になっていて、遠くに無数のビルが林立しているのが見える。さんさんと降り注ぐ秋の陽を浴びて、街はくっきりと濃い陰影を落としながら青い空に浮かび上がっていた。
「うわあ。すごい!いいとこだね。桜小路君、よく知ってたね!」
隣で無邪気に喜ぶマヤを見ながら、桜小路は目を細めていた。
「やっと笑ってくれた。マヤちゃん、やっぱり君は笑顔が一番だよ」
マヤが戸惑ったように桜小路の方を振り向く。
「…ありがとう。桜小路君って本当にいい人だね」
『いい人』という言葉に自嘲的な笑みが込み上げてくるのを感じながら、桜小路は何気ない風を装って眼下を指差す。
「ほら、あそこ見てごらん。海の側に白いタワーが見えるだろ?あそこが今度オープンする遊園地だよ」
仕切られた広大な敷地にぽつぽつと点在する施設がおもちゃのように目に映る。
「あっ、あれ観覧車?違うかな?よく見えないなあ。でも、何かどきどきするかも」
マヤが身を乗り出して瞳を凝らしながら言う。
「いや、たぶんそうなんじゃないかな」
ふたりはしばらくあちこちを指差して当てたりして遊んだ。
「…ねえ、マヤちゃん。この間、遊園地に行こうって言っただろう。それで君は断ったわけだけど…あ、別にそれがどうってわけじゃなくて。僕に悪いなんて感じる必要はないんだ。ただ…」
桜小路の真剣な眼差しに、マヤは得体の知れない緊張を覚える。大事な局面を迎えつつあることを漠然と感じていた。
「君は、遊園地に行けそうかい?僕とじゃなくて…その、君が一番行きたい人と」
「桜小路君…」
彼は気付いていたのだ。ここで誤魔化すことは彼に失礼だと咄嗟に感じた。ぎゅっと唇を噛み締めると、マヤは口を開いた。
「あのね、桜小路君。あたし、好きな人がいるの。その人も、あたしのことを好きって言ってくれてる。でもね、遊園地に一緒に行けるかどうかはわからない。行けたらいいなって思うけど、でも、我儘言えないし…」
桜小路はゆっくりと息を吐くと、眩しそうに空を仰いだ。鳥が一羽、乱れない青の中を右から左に渡っていく。
「…そっか。よかったね。さっきも言ったけど、僕はマヤちゃんが笑顔なのが一番だよ。だから、もっと我儘言った方がいいよ。きっと、その人もマヤちゃんがひとりで我慢しているより、何でも話してくれてたまには我儘のひとつも言ってくれる方がうれしいんじゃないかな」
そう言ってこちらを向いた桜小路の顔があまりに優しかったので、危うく涙が込み上げてきそうになる。
“速水さんも桜小路君くらい優しかったらよかったのに。”
不意にそんな考えが浮かんできて、マヤは慌てて頭を振る。
「そろそろ帰ろうか」
ふたりは公園を後にすると、駅に向かって坂を下りて行った。
窓の外では、夜になっても秋の雨がしとしとと降り続いている。
瞬く間に2週間が過ぎてしまった。その間、真澄からの連絡はなかった。マヤは自分からかけようと毎日思いながら、結局最後の勇気を出せずにいた。よく考えると、最後に会ったときにもう謝っているのだ。それでも黙り込んでいたのは真澄の方だ。真澄からかけてきて許すと言ってもらわない限り、どうにもかけづらい。もちろん、まるで何ごともなかったかのようにかけることもできるが、それには日が経ち過ぎている気がした。
“どうしよう。速水さんまだ怒ってるのかな。あたし、言い過ぎちゃったよね。ああ、本当だったら今週末は一緒にどこかに行くはずだったのに。連絡ないし、きっと無理だよね。まさか…もう二度と会えないなんてことは…”
そこまで考えると、マヤはずぼっと枕に顔を伏せた。雨の音が聴こえる。ずんずん心細くなっていく。閉じた瞼の裏に、怒っている真澄の顔ばかりが浮かぶ。不安で胸が潰れるような気がした。どうしてもっと素直になれなかったのだろう。次に会ったら絶対あんな態度はとらないのに。次…があればの話だが…。
堂堂巡りを始めた思考に閉じ込められて、マヤは鬱々とひとりの夜を過ごした。結局、電話は一晩中鳴らなかった。
翌朝はきれいに晴れていた。雨が汚れをすべて洗い流してくれたかのように、大気は清清しく透明感に満ちている。ぴんと張り詰めた涼しい空気が寝起きの肺に深く染み込んでいく。
よく晴れたオフの前日。いつもなら小躍りしたいほどうれしいはずなのに、稽古場に向かう準備をするマヤの心は暗く沈んでいた。真澄はとても几帳面だ。いつもならオフの前日まで予定が決まっていないなんてことはあり得ない。何も連絡がないということは今回は会えないのだ。
ぼんやりと稽古場に行く。稽古が始まると少し生気が戻ってくる。昼過ぎには乗ってきて、時間を忘れて稽古に打ち込んだ。それでも、休憩時間になるとすぐに携帯に手が伸びてしまう。しかし、いくらこまめにチェックしても、真澄からの着信はおろか、メールの一通も届かなかった。陽はどんどん傾いていく。このままいつまでも稽古していたいと本気で思ったが、ついに黒沼から終了の声がかかる。のろのろと身支度を整えながら、マヤは泣きたいくらい落ち込んでいた。心のどこかで真澄から連絡があることをいつまでも期待してしまいそうな自分がいた。携帯のまっさらな画面を目にするたびに、見捨てられたように哀しくなる。ぎゅっと携帯を握り締めると、マヤは一滴だけ涙を流すことを自分に許した。
2005.01.25
…to be continued
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