08 境界
"白い境界 1"
written by チカチカ
 覚悟を決めてきたはずなのに、そびえたつその白い建物を見た途端、足がすくんでしまいそうになった。
 慣れないヒールにふらつきながら、入口までの短い石段を踏みしめる。

 金モールのついた白い制服を着たドアマンが、マヤの姿に目をとめると、うやうやしく頭を下げた。
 回転扉をくぐり足を踏み入れると、豪奢なロビーが広がる。
 華やいだざわめきがマヤを包みこんだ。

「あれ、紅天女の北島マヤじゃないか」
「彼女も、呼ばれたのか」
「そりゃそうでしょう看板女優だもの」

 マヤの姿に目を止めた数人が囁きあう。
 自分に向けられた好奇な視線に気付くこともなく、マヤは思いつめた表情で、ゆっくりとエレベーターホールへ足を向けた。

ふいにマヤの目の前に華やかなドレス姿の女性が立ちはだかる。

「ごきげんよう、マヤちゃん」

「水城さん…」

「一人で来たの?」

「あ、はい…。あとで桜小路くんたちと合流するんですけど。水城さんも、今日は?」

「大仕事なのよ。我社あげての大プロジェクトですからね」
と言って、片目を軽くつむってみせる。

 マヤは水城のおどけた仕種ににこりともせず、青ざめた顔で問い掛けた。

「あの、速水さんは…」

「ああ、もう、そろそろ準備はできているんじゃないかしら」

「あの…一言ご挨拶してもいいですか…」

   水城はそれには答えず、マヤの微かに震えた唇をしばらく見つめた後、静かに口を開いた。

「挨拶だけでいいのね」

「え?…」

 水城は疑問符を投げたマヤを無言で促すと、ちょうどドアの開いたエレベーターに乗り込んだ。

 赤いマニキュアを施した指先が、3Fのパネルを点灯させる。
 マヤは、ぼんやりした頭の中で、点灯していく数字を順に数えていった。

『どこへ、行くんですか』

 口にしようした言葉を飲み込む。
 わかっているのに、わからないふりをしたかった。
 これから始まる形式通りの儀式を、見ないふりをしてしまえるものならば、そうしたかった。

 心の中は、全部からっぽにしたままで。


 チン、と音を立てて、エレベーターが止まり二人が吐き出される。

 水城は、先に立って絨毯の敷き詰められた廊下を歩いていった。
 マヤは、ゆっくりと水城のあとをついていく。やがて、小さなゲートをくぐると、着飾った人達が行き交うロビーに出た。
 眼前で交わされる挨拶をぼんやりと眺めていると、水城が
「マヤちゃん、こっちよ」
 と、手招きした。マヤは、奥まった部屋の前に歩いていき、ドアに貼られた文字を、魅入られたように見つめた。


『速水家、鷹宮家ご結婚披露宴式 ご新郎御控室』


 水城がノックをした。

「どうぞ」

 低い、いらえがあった。

「失礼します、真澄さま」

「水城くんか。藤村食品の社長が先ほど挨拶にきて、例の件の進展を聞いてい…」

 窓辺に立ち、煙草をくゆらせながら、物憂そうに言葉を紡いでいた真澄は、水城の後ろからのろのろと姿を現わしたマヤの姿を見つけると、言葉を途切らせた。

「チビちゃん…」

 真澄の言葉に、部屋に入ってからも俯いたままだったマヤがびくりと肩を震わせる。

「チビちゃん、来ていたのか…」

 掠れた真澄の声が、マヤの中の何かを揺り動かす。

「来ちゃいけなかったですか」

 顔を上げ、厳然と真澄を見据えて、マヤが言葉を返した。

「いや、そんなことはない。来てくれて嬉しいよ。世間の注目を集める紅天女どのに来ていただいて、光栄だ 」

 どこか投げやりなその口調に、マヤは不思議なものを見る気持ちになる。


 なぜ、この人は、幸せそうではないのだろう…


「改めて、ご招待頂きありがとうございます。今日は、本当におめでとうございます」

 背筋をのばして、明るい笑顔で、お辞儀は90度の最敬礼。お祝いの気持ちを伝えましょう。

 昨日読んだ冠婚葬祭のマニュアルを思い出して、マヤは懸命に微笑んでみせる。

「お幸せそうでなによりで…」

「幸せそうに、見えるのか」

 みなまで言わせず、真澄が鋭い言葉を投げ返した。

「真澄さま」

 機先を制して、水城が口をはさむ。

「マヤちゃんは、お祝いを言いにきてくれたんですのよ。喧嘩ごしの態度はおやめなさいまし。私、用がありますので、ち ょっと失礼いたします。 30分後に参りますので。」

 そう言い置くと、一瞬真澄を見つめて

「心残りをなさいませんように」

 と静かに呟いて、急ぎ足で部屋を出ていった。










           部屋のあちらこちらに、白い薔薇の花が生けてあり、甘く強い香りを放っている。残された二人の間を、わだかまった沈黙が包んだ。
 マヤは、黒いタキシードに包まれた真澄と向かい合いながら、花瓶に生けられた白い花をぼんやり眺めていた。

「すまない」

 真澄の低い呟きに、マヤの心臓が一瞬ビクリと跳ね上がる。

「わざわざ来てくれたのに、あんな言い方をして、すまなかった」

「いえ、私のほうこそ、お忙しいところおじゃまして…」

「俺はどうかしているようだ」

 真澄はマヤにくるりと背を向けると、煙草を手にしたまま、窓辺に近寄った。

「もっとも、君を目の前にすると俺はいつも、どうかしてしまうんだが」

 真澄の自嘲気味な台詞に、マヤは驚いて真澄を見つめる。

「そんなの、嘘です。速水さんはいつだって余裕たっぷりで、いつだって大人で…」

「いや、ずっと昔、君が少女の頃から、俺はペースを狂わされてばかりだ。大都芸能の速水真澄が、一人の少女を前にしただけで、いつもの自分を見失ってしまう。まったく笑い話だ…」

 真澄の低いバリトンの声の響きに、マヤは軽い眩暈を感じる。

「初めて君と出会ったのは、もう8年前のことか…」

 8年…。

 眩暈の中で、マヤはその長い年月をぼんやり反芻する。

 この人と出会い、この人を憎み、この人の心を知り…そして、この人を、愛した…。

   8年…。

「そう、君はまだ中学生で、俺は『つきかげ』を潰すことばかり考えていた。俺の人生の目的は、親父の紅天女を奪うことだけだった。それがすべてだった。君に出会うまでは」

 窓の外を見つめる真澄の背中が、かすかに震えたように見えたのは、気のせいだろうか…。

「一生口にすることはないと思っていた。俺の心は封印したまま、墓場まで持っていくつもりだった」

 マヤの頭の中で、.かすかに警鐘が鳴り始める。
 彼の言葉をきいてはならない、と。
 耳を塞がなければならないと。

 しかし、真澄の声がその警鐘を切り裂き、最後の砦を崩していく。

「今、この時に、その封印を解くことを許して欲しい…」

「速水さ…」

 真澄の言葉をさえぎろうとして叫んだマヤの声が、ふいに途切れた。真澄が振り向いて、マヤの二つの瞳を凝視する。

 心が、射ぬかれる…。

「俺が愛するのは、マヤ、きみひとりだ。今までも、おそらくこれからも」

 真澄の地を這うような、低い、静かな声が唇から流れ出した瞬間。
 マヤの思考はすべて停止した。
 考えることをやめた頭の中を、真澄の言葉だけがぐるぐると回り続ける。

 ーーオレガアイスルノハ、キミヒトリダ…

 声に、ならなかった。
 何度も夢に描き、叶わない思いに涙しながらひたすらに求めた言葉だった。

 マヤはもう一度、自分の口の中で、何か飴玉でも転がすような感覚でゆっくりと、その言葉をつぶやいた。

 ーーオレガアイスルノハ、キミヒトリダ…

 つぶやきとともに、無防備な涙が、一個マヤの頬を滑り落ちていく。

「すまない、驚かせてしまったようだな」

 マヤの零した涙のしずくを、驚いたように凝視めながら、真澄が静かに言葉を紡いだ。

「憎んでいた相手にこんなことをいわれて、驚くのも無理はない。俺も、まさか君に自分の心を伝える日がこようとは、夢にも思わなかった。 ただ、さっき君がこの扉から入ってきたとき、俺にはわかった」

 真澄の声は、まるで乾いたスポンジに吸い込まれる水のように、急速にマヤの心に染み込んでいく。

「俺の偽りだらけの過去の中で、君だけが真実だったのだと。そして、今から迎える偽りだらけの未来、その前にただ一つの真実を君に伝えたかった。俺の真実の心を伝えたかった。今、この瞬間だけが、俺の真実だ…」

「………」

「一方的に押しつけてすまない。笑ってくれてもいいぞ、……どうした、チビちゃん」

 俯いたままのマヤを気遣うように、その長身の背をかがめて真澄はマヤの顔を覗き込んだ。

「泣いているのか?」

 真澄の長い指が、マヤの黒髪の一房に、優しい丁寧な手つきで触れた。

 その瞬間、マヤの髪が感じた。

 もちろん、髪に感覚などあろうはずはない。でも、マヤは真澄のその丁寧な手つきに、確かに髪が麻痺するのを感じた。

 心が震える…。

 恋しい人に触れられたら、感覚を持たない部位でもこんな風に反応するのだ…

 髪の先からつま先まで。
 その甘い震えは、急速に全身に広がっていく。

 真澄はゆっくりと、マヤの髪を指先にからめて下ろし、そのままマヤの肩を手のひらで包み込むようにしてゆっくりと抱き寄せた。

 マヤの華奢な体は、真澄の大きな胸にしっかりと包み込まれている。
 体中を、激しい流れが巡りみなぎっていく。全身を鼓動が貫いていく。
 だんだんに力強くマヤを抱きしめる真澄の腕の中で、マヤは遥か昔、目隠しをした自分を抱きしめたあの広い胸を、ぼんやり思い出していた。

    (あの日から、こんなに…時が流れてしまった…)

 マヤは真澄と知り合ってから過ごした長い時間を、二つの流れがこうして一つに合流する、それまでに費やした長い長い時間を思った。

 その時、確かに二人は一つの流れになっていた。

「一つだけ君にききたいことがある」

 静かな声だった。

 声は、マヤの頭のすぐ上に接している。
 真澄は、ゆっくりゆっくりとマヤの髪をなで始めていた。

 マヤ、と優しい呼び方で彼は言った。

「ずっと昔から、俺は、君との間には越えられない境界があると思っていた」

 細い指が髪を掬う…

「どんなに望んでも越えられないと…そう思っていた」

 長い髪を掬う……

「そうではなかったのか…君は俺の手に届くところにいたのか…こうやって…」

 マヤを抱きしめる手に力が入った。

 真澄に抱かれて、マヤは自分の体がまるで砂糖菓子になったように感じる。真澄の優しい声に、甘く甘く溶かされて、完全に溶けてしまえたら、望むものはもう何もない…

 今、ここで真澄に、一言告げるだけでいい。

 自分の思いを一言告げるだけで、溶けてしまえる…

 一言だけで…。


 その時ふいに、甘く強い香りが、マヤの鼻を掠めて通り過ぎ、それがマヤの心を現実に引き戻した。

 タキシードの襟に挿された白い薔薇のブーケトニア。
 新婦の持つブーケと同じ花をあしらう小さな花束。

 それは真澄が今から迎える華やかな儀式と、幸福そうにブーケを持つ花嫁の姿を、いとも簡単に描き出す。
 バージンロードをゆっくりと歩むふたりの姿が、フラッシュバックのように、頭に閃く。

 もう、何もかもが遅いのだ…。

「速水さん…離してください」

 マヤは真澄から体を離し、静かに言った。

「ダメです。今から結婚する人が何冗談言ってるんですか…。私と速水さんは、昔から住む世界が全然違うんですよ。ほら、ここに境界線があるじゃないですか。境界線の上にはこんなに高ーい壁までありますよ、見えませんか?」

 真澄から一歩後ずさり、自分と真澄との間の空間を指で線引くと、「高ーい」というところで、手のひらを頭上高く上げて、マヤは笑ってみせた。

「この境界線、きっと8年前からあったんですよね。そしてこれからもずっとかわらずにあるんですよ…」

 それを超えることは、きっとできない…





2003.07.11



…to be continued














              
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