14 きせき
" 秘書として"
written by まゆ
 パソコンのディスプレイを見続けていた目に疲れを感じて、水城はキーボードを打つ手を止めた。時刻はすでに午後十一時を回っている。

 「もうこんな時間なのね」

 画面右下の時刻表示を見て、彼女は小さく声に出した。
 いつもなら秘書室の奥に位置する社長室にもまだ灯りがともっている時間だが、今夜はすでに部屋の主の姿はない。七時になる前に 水城がなかば強引に帰宅を勧めた。

 「あとのことは私がいたしますので、今夜くらい、早くお帰りになってくださいませ!」

 水城の勢いに気圧されてか、彼女のボスは特に反論もせず、「よろしく頼む」とだけ言い残して帰っていった。



 いつの間にかスクリーンセーバーが画面いっぱいに星屑を飛ばしているのを見て、水城はふう、と息を吐いた。ほんの少しマウスを 動かせば、再び画面には作成中の資料が映し出される。だが、彼女はあえて画面に星を舞わせたまま席を立った。二度三度、首を左右に 倒して凝りをほぐす。

 「そうよ、真澄さま……今夜くらい、早くお帰りにならなくちゃ。独身最後の夜ですもの」

 明日、彼女の上司は積年の想いを実らせて華燭の典を挙げる。
 窓の外には見慣れた街の夜景。だが、彼女の視界の中でサングラス越しの風景が不意にぼやけた。






 水城は速水真澄と初めて会った頃のことを今でも鮮明に覚えている。
 彼女は当時、大都グループを率いる速水英介の第一秘書をしていたが、ある日、会長直々に異動の打診をされた。

 「水城くん。今度、わしは兼務していた大都芸能の社長職を息子に任せることにした。わしなりに息子を鍛えてはきたが、 なんと言ってもヤツはまだまだ若造だ。きみのようなしっかりとした秘書が必要だろう。真澄のために力を貸してはもらえんか」

 速水真澄。会長の養子。いずれ大都グループの総帥となる日のために、幼い頃から英介が経営者としての哲学、帝王学を みっちり仕込み、さらに大都芸能で義父の秘書をして、経営者修行をつんできた人物であることはもちろん知っていた。大都芸能での彼は、 多忙をきわめる英介に代わって、秘書というよりむしろ社長代行的な立場にあり、そのやり手ぶりは社内外問わずつとに有名だった。
 とは言っても、大企業グループを動かすカリスマ経営者の第一秘書としてビジネスの最前線で仕事ができることに心からの やりがいを感じていた水城としては、最初は気乗りがしなかった。いくら優秀だといっても、所詮は二代目のお坊ちゃん。秘書というより、 実際はお守り役かお目付け役をさせられるに違いない。だが、あのワンマン会長が頭を下げてまで実現させようとした人事に否が言える はずもなかった。

 「承知いたしました。真澄さまのもとで微力を尽くします」

 水城は、本音を映した瞳を眼鏡で隠して、深々と一礼して、異動の辞令を受け取ったのだった。



 さっそく、大都芸能へ職場を移した水城は、初めて直接まみえた若き後継者が噂に違わぬ切れ者であることをすぐに悟った。

 「速水真澄です。よろしく」

 会長の御曹司は自分に付くことになった秘書を前にしてにこりともしなかったが、水城は彼の瞳の奥にたゆたう炎を見て取って、 言いようのない高揚感に包まれた。この人とならいい仕事ができるに違いない。その予感は日を置かずして実感に変わっていった。 激務の連続で体はきついはずなのに、不思議と疲れは感じなかった。正式に権限を手にした新社長は、まさに水を得た魚の例え通り、 自ら陣頭指揮に立ち、采配を振るう。その成果は目に見える形で彼の会社を潤し、その後もずっと業界トップを走り続けている。

 ――― しかし。

 冷血漢とも仕事の鬼とも呼ばれて、誰からも畏敬と畏怖とを同居させた目で見られていた男が、心の裡では十一歳も年下の 少女に寄せる不器用な片思いに苦しんでいた。水城がそれに気付いたのはいつ頃のことだっただろうか。
 芸能界に関わる誰もが彼の歓心を得たいと思うというのに、その少女だけは面と向かって「大嫌い」と言って憚らなかった。だが、 その少女が「紫のばらの人」と呼んで心からの感謝を寄せる匿名の後援者が、実は速水だと知った時の驚愕と、ある種の得心。 水城は、紫のばらに込められたボスの一途な想いを笑うことなどできなかった。
 事業の発展のために心を殺して政略結婚を受け入れようとする彼に、何度、本当にそれでいいのか、あの少女への愛を忘れられる のか、と詰め寄ったか知れない。そんなことは秘書の職分を越えた振る舞いだとわかっていても言わずにはおれなかった。本心を 押し隠して、うつろな目をしている上司を直視できなかった。
 ある朝、悟りを開いたかのような清々しい笑顔で社長室に現れた彼を見たときの衝撃と感激を、水城は一生忘れないだろうと 思っている。

 「水城くん、余分な仕事を君に頼むことになってしまうが、引き受けてくれるだろうか。披露宴の招待客に披露宴の中止と 婚約解消の挨拶状を出す。マスコミ各社にもその旨、ファックスで流してくれ」

 速水が多くを語らなくとも、彼の表情からすべてを窺い知れた。本当に愛する人に気持ちが通じて、勇気を奮うことができたのだと。その後に待ち受けていた一連の煩雑な作業も、ボスの幸せを願い続けていた水城にはむしろ喜びに満ちたものとなったのだった。






 あれから一年。
 いよいよ明日だ。明日、やっと水城は肩の荷をひとつ下ろすことができる。

 「本当に、長かったですわね、真澄さま……」

 眼下の夜景の煌きをぼんやり見つめながら、水城は自分にとっても決して短くはなかった日々に思いを馳せた。

 「マヤちゃんにも、本当につらい道のりだったわよね……」

 誰にもまさる才能と情熱を持ちながら、処世術も保身の術も知らない無垢な少女に、いつの間にか自分も魅せられていた。 舞台の上での輝きも、素のあどけなさも、どちらも水城にとっては愛おしい。あれほど憎しみを向けた相手を愛してしまった自分に 気付いた少女の苦悩が、同性としてもよく理解できたから、ボスがぐずぐずといつまでも決断しないことが腹立たしくてたまらなかった。

 だが、明日、少女は花嫁になる。

 ウェディングドレスの仮縫いの時の少女の様子が不意に脳裏に浮んだ。ふだんはどちらかといえば地味な、平凡な顔立ちの 少女が、あの時は輝くばかりに美しかった。

 「水城さん、私、おかしくない?なんだか、恥ずかしいよぉ。速水さんのことだから、馬子にも衣装だな、なんて言ってまた 大笑いするに決まってるわ!でも、速水さんは燕尾服がビシッと似合って、私、何も言い返せないんだろうなあ。ああ、なんか悔しい!」

 淡い乳白色のドレスに包まれた自分の姿を映す鏡の前で、ひとりで大騒ぎしていた彼女のくるくると変わる表情が思い出されて、 水城はふふっと忍び笑いを漏らした。彼女も今では『紅天女』を受け継ぐ者として若いながら大女優と呼ばれるまでになっているのだが、 こういうところは昔と少しもかわっていない、と旧知としては嬉しくなる。

 (大丈夫よ。あなたの花嫁姿を見たら、真澄さま、感激してきっと何も言えなくなるわ……)

 時刻が零時を回ったらしい。水城の瞳を照らしていたネオンのいくつかが消灯された。

 「さて、もうひとがんばりして、私も帰りましょう」

 両手を挙げて大きく伸びをすると、水城はパソコンの前に戻った。明日、マスコミ各社に配布するためのプレスシートや 記者会見の手配をもう一度確認する。
 業界一の芸能社の社長と日本を代表する女優の結婚は、芸能界のみならず、日本中が注目している大イベントでもある。それを スタッフとして支える水城にとっても、明日は晴れ舞台であった。






 やわらかな秋の陽射しが、ステンドグラスを通って教会の床に美しい影を描き出している。
 参列者もすでに着席し、祭壇の前には牧師も姿を見せている。今日の主役のひとりである新郎と言えば、もぞもぞと落ち着かない そぶりで、彼らしくもなくかなり緊張しているようだ。
 水城は礼拝堂の一番うしろの席からぼんやりとその様子を眺め、今更ながらに考えていた。自分はなぜ速水真澄を男性として 愛さなかったのだろうか、と。
 最初は確かにそうならないように自分を戒めていた。若くハンサムな独身の上司だ。恋愛感情など抱いたら絶対に仕事にならなく なるのは明白だった。だが、いつのまにか性別を越えて、同じ目的に向かって進む同志のような心地になっていたように思う。おそらく それは自分だけの感情ではなく、速水の方も同じだろう。

 「女嫌いだという噂だ」
 「きれいな女優がどんなに迫っても冷たく袖にされるらしい」
 「聞きしに勝る冷血漢ぶり」

 まわりは勝手なことを噂したけれど、常に一番身近なところにいて補佐をしてきた水城は、冷たい仮面の下に隠された速水の 素顔を垣間見る機会もそれなりにあった。
 そんなとき、ふと心が揺れる。だが、そこまでだった。それ以上の感情は湧かなかった。

 (そうね、真澄さまへの感情は、もう身内みたいなものになっているわね……)

 先刻、新婦控室でマヤに言われた言葉が水城にそんな思いを強くさせていた。

 「水城さん、ふつつか者ですが、どうぞよろしくお願いします」

 それは真澄さまの親に向かって言う言葉でしょう、と苦笑した水城にマヤはこう答えた。

 「ほら、お姑さんがお嫁さんをしつける、とかってあるでしょう?速水さんにお母さまはいないから……。となると私が 頼れるのは水城さんかなあと思って」

 その場は「もう、人を嫁いびりの小姑のように言って!」と笑ったが、言われてみれば、いつまでたっても煮え切らない速水に 対しても「しっかりしなさい!」と叱咤する姉のような気持ちで接していたのかもしれない。
 教会の長椅子の固い背もたれに身を預けて感慨に耽っていた水城だったが、自分の名前を小さく呼ぶ声に現実に引き戻された。

 「スミマセン、このあとの会見のことで確認をお願いしたいんですが」

 すぐ行くわ、と呼びに来た秘書課の後輩に笑顔を返して、水城は席を立った。
 もう間もなく式が始まる。そろそろマヤも父親役を務める黒沼とともに控室を出てこの礼拝堂へ向かっている頃だろう。

 (真澄さま、どうぞマヤちゃんとお幸せに!)

 煙草を吸うわけにもいかず、立ったり座ったり、まだ落ち着かない様子の速水の背中に向かって心の中で呼びかけてから、 水城はそっと礼拝堂を出た。
 廊下で待ち構えていたスタッフが次々と水城の前に書類を差し出し、まわりを取り囲むようにして報告をする。それを手際よく さばきながら、水城はガラス窓の向こうに広がる抜けるような青空を仰いで、サングラスの下にある目を細めた。

 (私の仕事は、今日という日を滞りなく演出することよ)

 来し方を思ってつい感傷的になりがちな気持ちを引き締め直して、書類に目を戻し、スタッフに指示を与える。
 水城は背筋をしゃんと伸ばすとやや大きな歩幅で歩き出した。その先ではたくさんの仕事が彼女を待ち受けている。

 (おめでとうございます、真澄さま、マヤちゃん)

 もう一度心の中で呟いたその時、澄み渡る秋空に結婚式の始まりを告げる鐘の音が高く響き渡ったのだった。



2003.4.1


<FIN>









□まゆさんより□
「きせき」にどういう漢字を当てはめるか。
速水さんにとってマヤちゃんは「奇跡」であり「輝石」でもある、 そんな意味を重ねつつ、「軌跡」を書いてみました。
王道速水さん&マヤちゃんは院長をはじめ皆さまにお任せして ワタクシは「脇役シリーズ」で突っ走りますわ(^^;







□杏子より□
前回に引き続き、杏子の鬼門である『脇キャラを魅力的に描く』を買ってでてくれました、まゆさんの”きせき”。まゆさんのあとがきにもありますが、”きせき”の漢字の意味、全てを含んだお話で、唸らされました。上手いなぁ。。。と。
水城さんはガラカメ登場人物の優柔不断軍団の中でも、テキパキと切れることこの上なく、読者にも大人気な方ですが、彼女の”らしさ”が余すところなく描かれていて、ワタクシ感動のあまり、ポロっといってしまいました。
うんうん、そうだよね、そうだったよな〜…、と、なんだか、私自身がこの二人を送り出す”親の目”になってしまっていました。いや、実際、みんなそうだと思うけれど、二人の”その日”がきたらね…。
まゆさん、素敵なお話、ありがとうございました!!









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