22 ふたり
"あなたのいない場所で"
written by YOYO
北島マヤを主演とした初の紅天女本公演は3日前に大成功の内に千秋楽を迎えた。俺は相変わらず匿名で紫の薔薇を贈り紅天女になった彼女を賞賛した。そして、一週間後に自身の結婚式を控えている。

「食事でも行かないか…。」

結婚の期日が迫り、どうにもならない状況から抜け出せるわけもなかったが、ただ彼女とわずかな時間だけでも過ごしたいと、無理を承知で誘ってみる。マヤは、少し驚いた顔をしていたが、黙ってついてきた。
たわいもない話をしながら、ふと、ここで正直な気持ちを話したらどうなるのだろう…などと馬鹿な想像をしてしまう。今、告白したところで、どうなるというのだ…。もう、何もかも遅すぎるというのに…。

「マヤ…、俺は…」

頭の考えとはうらはらな事を俺の口が言い出そうとしたときだった。

「あたし…、ロンドンに行くんです。」

マヤが俺の話しを遮るようにして、かねて用意してあった台詞を読み上げるように語り出した。

「え…?」

「だから、あたし、速水さんの結婚式には出席できません。どうか、お幸せになってください…。」

突然の展開に、脳内が混乱をきたす。いきなり何を言い出すのか?マヤの行動にはいつもいつも驚かされては来たが、…いったい何を考えているのか…。

「ロンドンなんて…なぜ…?」

明らかに動揺している俺を、マヤは静かに眺めながら言葉を繋ぐ。

「紅天女を観てくれたロンドンの演出家が私に来て欲しいって言ってくれたんです。中日に来てくれてましたよね、グレッグ・ジャーマン。」

「…どれぐらいの間、行くんだ?…まさか帰ってこないなんてことは…?」

「ふふ…、それもいいかなぁ…。せっかく英語の勉強するんだし…その方が世界的な女優になれちゃうかも…なんて。」

一瞬、二度と会えないような気がして、俺の心臓は剔られるような鈍くて酷い痛みが走る。

「なんちゃって。あたしには紅天女があるので、次の公演には帰ってきます。次は一年後でしたよね。」


ーあたしには紅天女があるー


たったそれだけの言葉を残して、マヤは飛び立っていった。
俺は、秘めた想いを口にすることもできず、ましてや、マヤを引き留める術も知らず、ただ見送ることしかできなかった。






あれから、11ヶ月。

今日、マヤは日本に帰ってくるはずだ。そして、明日この大都芸能本社で紅天女の公演に関する会議に出席する。
俺は、マヤがロンドンに発った2日後に予定通り鷹宮と政略結婚した。妻となった紫織とは、いわゆる普通の夫婦として暮らしている。決してマヤに対するような深い愛情があるわけではない、ただ同情と打算で暮らしているだけだ。だが、それが世間でいう普通の夫婦と何が違うというのか。一組一組調べたわけではないが、愛情だけで繋がっている夫婦がいったい世の中にどれだけいるのか。少なからず打算が絡んだり、同情で繋がっている夫婦だって多くいるはずだ。俺の場合は、極端に愛情が少ない…いや、無いだけだ。

…軽蔑に値するかも知れない。
こんな結婚は、本当は間違っているのかも知れない。

だが、この結婚は、大都グループと鷹通グループに多大な利益をもたらし、そして、紫織はいつも幸せそうにしている。俺は大都の後継者として、その立場を全うしているに過ぎない…。






「社長、お時間ですので、第一会議室に移動してくださいませ。」
水城君に促され、俺は逸る気持ち抑えながら会議室に向かう。マヤに会うのは11ヶ月ぶりだ。その間、ロンドンから届く情報は、どんな些細なものでも見逃さなかった。グレッグ・ジャーマン演出の現代風にアレンジされたシェークスピア劇に主演したマヤは、その素晴らしい演技力でロンドンの目の肥えた観客を魅了した。渡英当初は英語に不自由したマヤも、稽古と英会話の授業とのハードスケジュールを見事こなし、全く危なげのない台詞運びだったそうだ。きっと英会話だけ習ってもあれだけ上達はしなかっただろう。稽古中も全て英語の環境にいたからこその上達なのだろう。そして何より、彼女は日本語の台詞を覚えるのも英語の台詞を覚えるのも、そう大きな違いは感じなかったはずだ。それは彼女の役者としての天賦の才能の一端だ。

聞きたくない噂も時折届いた。共演したロンドンの俳優や、向こうで活躍している日本人ダンサーとの恋の噂。その噂が真実であるかは分からない。自分には真偽を確かめることの出来ないもどかしさ、そして、真偽を確かめたところで自分は何も口出しできない立場であることの苛立ち。自分はもう結婚しているのだ。その上、彼女は大都の所属女優でもない。男としても、社長としても何も言える立場にはない…。


会議室のドアを開けると、すでに演出家をはじめ主な関係者が顔を揃えていた。軽く挨拶を交わしながら目はマヤを探す。会議室の奥の席から女性が立ち上がって、俺に向かって挨拶した。

「ご無沙汰いたしております、速水社長。このたびはまた紅天女を大都芸能プロデュースで公演を打ってくださること、感謝しております。」


それは、

上目使いに恥ずかしそうに俺を見上げるマヤではなく、

俺に向かってけんか腰ではっきりものを言うマヤでもなく、

キラキラとした大きな目で嬉しそうに話しをするマヤでもなく、



大女優の風格さえ漂わせた、俺の知らない一人の女…


北島マヤだった…。






いつまでも自分の手の中にいるような錯覚をしていたのかも知れない。俺が結婚しようとも、例えロンドンなんて手の届かないところに行ってしまおうとも、それでも、いつか自分の手の中に帰ってきてくれるような気がしていたのかも知れない。だが、11ヶ月ぶりの彼女はすっかり見知らぬ女になっていた…。

あのとき、完全に俺の手から飛び立っていってしまっていたんだな…。

俺は一度も稽古の視察に行くことはなかった。事実新しい事業を立ち上げたばかりで忙しかったのは確かだ。だが、あの他人を見るような目で俺を見るマヤに会うのは、何よりも辛かった。昔のように、憎まれて睨まれていたときの方がまだましだ。
今となっては、紫の薔薇と紅天女だけが俺たちを繋ぐものだ。
紅天女の上演権を持つ主演女優。
紅天女の公演をプロデュースする芸能社社長。
ただその肩書きだけ…。
それだけの繋がりに縋っている自分はただの情けない男なのか。
惨めなだけの男なのか…。


大都がプロデュースする舞台の初日には、原則的に自分は出席する運びになっている。去年の紅天女の初日には喜び勇んでマヤの楽屋を訪れたものだった。彼女が紅天女になれた喜び、大都劇場において大都芸能プロデュースで紅天女の公演をする喜び、そして、彼女と自分が同じ舞台に携われる喜びで有頂天になっていたとも言える。
マヤは真剣な顔で「速水さん…。ありがとうございました…。」と言って深々と頭を下げ、そして顔を上げてニッコリ微笑んだ。「ちゃんと観ていて下さいね。あたしの紅天女を。」そう言った笑顔が忘れられない。あの時は、まだ俺の手の中にいた…はずなのに。
それなのに、今日は劇場に行くことすら躊躇われる。恐らく、主演女優としてマヤは俺に挨拶してくるだろう。そつのない大人の女優として。ひどく他人行儀な言葉で。そんな彼女に、それでも会いたいのか、会いたくないのか…。自分の気持ちさえ図りかねている。

「楽しみですわ。今日が初日ですものね。私は直接劇場に参ればよろしいんでしたわよね?」

朝食を食べながら、まるでピクニックに行く子供のように紫織は言う。俺はまるで味を感じないコーヒーを飲みながら、いつもの態度で応える。

「ああ…。そうですね。私は一度会社に行ってから劇場に行きますので。どうぞ、初日を楽しんでください…。」

微笑んで紅茶のカップに手を添える彼女から目をそらし、また味のしないコーヒーを飲んだ。






去年より数倍の迫力と凄味を増した舞台だった。
マヤ演じる阿古夜の情熱が、まるで天龍が襲うがごとく俺を縛る。正視できないほどの、その美しさに…狂おしいまでの愛おしさに、自分の心をコントロールできなくなる恐怖さえ感じた。

今は、今だけは…、紫織と一緒に過ごすことが耐えられない。

それでも、初日祝いの会場で紫織を伴い関係者に挨拶して回る自分は、きっと機械で出来ているのかもしれない。大都の次期総帥という名のロボット…。

「速水社長、奥様…。このたびはありがとうございました。千秋楽まで精一杯勤めさせて頂きます。」

「マヤさん…。とっても素敵な天女でしたわよ。私、感激して思わず泣いてしまいましたわ。まるで初めて観る舞台のように…。」

完璧な挨拶をする俺の知らないマヤ。
隣の“妻”と微笑みながら言葉を交わすマヤ。
狂おしいまでに愛しい、唯一、俺が愛する人…。
手を伸ばせば触れられる距離にいるマヤのその心には、決して触れられないことが、俺を絶望の淵に追い落とす。

「期待しています…。」

俺の口は、まるで似合わない他人行儀な言葉を虚しく吐いた。






「“期待しています”…だってさ…。」

まさか、自分に向かって敬語が飛び出すとは思っていなかったなぁ…。
ふふ…当然の結果かぁ。
あたしの方からあんな態度とっているんだから…。
でも、そうするより他ないじゃない。結婚しちゃったんだもん、速水さん。速水さんが恋しいなんて気持ち…絶対顔に出せない。11ヶ月も遠くに離れて、少しは冷静に速水さんの顔を見られるようになったかと思っていたけど、まるでダメ。気を抜いたら、たぶん顔に『あなたが好きです』って文字が浮かんじゃう。
だから、仮面を被っている。ロンドン帰りでちょっと大人になって大女優を気取っている北島マヤという仮面を。
本当の自分は、結婚する速水さんを見たくなくてロンドンまで逃げて、気持ちを切り替えよう恋を終わらせようと藻掻いたけれど、結局、忘れられなくて顔を見るだけで体の温度が1度上がってしまう情けないヤツ。幸せそうに寄り添う二人を見ると、なりふり構わずその場から逃げ出したくなってしまう情けないヤツ。


初日の夜はどこか興奮していて、体は疲れているのに眠ることが出来ない。ラフな部屋着の上に白いロングコートを引っかけて外に出た。深夜の空気は凛として肌を刺し興奮した体を冷ますのにはちょうどいい。近所の公園に行ってブランコに腰掛ける。結局ここに一人で座るんだな〜、あたし。そして、たくさん溜め込んだ気持ちと向き合って、折り合いを付けていくんだ。

「楽じゃないんだから。ずっと仮面被ってるのも…。」

そう呟くと、涙が流れた。泣いてもいいよ…と自分に囁く。
ぽろぽろ零れる涙を拭わずに、自然に涙が乾くまで待っていよう。

去年も今日も紅天女で、精一杯愛を語った。
速水さんへの愛を込めた紅天女。
速水さんと気持ちが通じ合えたらそれほど幸せなことはない…と思う。でも、それを自分から拒否した。あの食事の席で速水さんが言おうとしてくれていたこと…おそらく、…たぶん…、私には分かっていた。紫の薔薇の人として私にしてくれていたこと、大都芸能の社長として私にしてくれていたこと、その根幹にある想い…。だけど、あたしはその想いに応えられない。速水さんは自分が生きていく世界にふさわしい人と婚約しているのだから。そして、あたしには、あたしが生きていく世界がある。速水さんの歩む道とあたしの歩む道はきっと同じ道じゃない。あたしには彼を幸せには…きっと、できない…。去年の紅天女は、葛藤する想いと戦いながら、ただ彼の幸せを祈って演じた。

ロンドンに誘われたのは、そんな時だった。きっと神様が行ってきなさいって言っているんだ。ここに踏み止まっていてはいけないって。今の自分を一度壊して、ちゃんと本来の自分を取り戻しなさいって。そう素直に思えたから…決心した。
千秋楽に届いた紫の薔薇…。薔薇を貰うのはこれで最後にしよう。そう心の中で呟いた。
食事の席でロンドン行きを告げた時の、速水さんの悲しそうに歪む顔を二度と忘れられないと思う。でも、あたしも速水さんもそれぞれ違う一歩を踏み出した。
ロンドンでは、分からない言葉に囲まれて身の縮む思いを何度もした。でも怖がらずに何にでも挑戦することに決めて、英会話も家事もショッピングも何でも一生懸命やった。ときどき奇特にもあたしを誘ってくれる人もいて、一緒に食事にだって行った。でもそれだけ。それ以上の愛情なんて私には芽生えなかった。
舞台の稽古は厳しいものだったけれど、台詞さえ何とか頭に入ってしまえば、演じるということは何処にいても同じ。演じる喜びを噛みしめ、役者でいられることを心の底から誇りに思って過ごした。
これが、あたし。
これが、本当のあたしなんだから。
これで、きっと日本に帰って速水さんに会っても、笑顔を見せられる。自分を支えてくれる太い柱…役者である自分への誇りさえあれば…。

あたしと速水さんを繋ぐものは紅天女。

紅天女があれば生きていける。



それなのに、どうだろう…。
久しぶりに大都芸能の会議室で速水さんの顔を見たとき、それまで抑えていた気持ちが一気に噴き出すかと思った。動揺した。席を立ち…いったい何を話しだすところだったんだろう?

本当はずっとずっと、会いたかった…。
あなたのことを愛しています…。

だけど最後の理性があたしに仮面を与えた。素顔では速水さんと会ってはいけない…と。紅天女の繋がりだけで生きていく自分には、もう彼に対する素顔は必要じゃない。むしろ邪魔になるだけなんだって…。
その結果が、あの速水さんの他人行儀な言葉…。

「自業自得じゃない…。」

心の中の整理できない想いを全て流すように、涙は、ただぽろぽろと零れ続ける。この涙が止まったら、そしたら、また前を向いて歩こう。辛い仮面だってなんだって被れる。あたしは役者なんだから…。


「なにが君にそんな涙を流させるんだ…?」

「!!!」

…振り向かなくても分かる。
突然、背後から声を掛けられたって、あたしには悔しいけど分かってしまうよ…。低めの優しい声。どんなに雑音が酷くたって聞き分けられてしまう、その声。

…どうして?
…どうして今、ここにいるの?
…どうして、涙の意味を聞くの?

ゆっくりと振り向くと…、そこには、深くて優しい眼差しをあたしだけに向けている…速水さんがいる。
まだ涙は止まっていない…。涙が止まらなくちゃ仮面は被れないんだよ…速水さん…。

「速水さん…。どうして…ここにいるの?だめだよ…こんなところに来ちゃ…。だめだよ…速水さん…。」






5.30.2003



...to be continued







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