29 おかえり
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" 帰る場所 1" written by まゆ |
マヤと麗は、差し向かいで朝食の卓を囲んでいた。
ご飯、味噌汁、目玉焼き、買い置きの漬物が少し。時計がわりにつけたテレビからは、新聞各紙の注目記事を紹介するアナウンサーの 声が流れてくる。いつもと変わらない朝の光景だ。 「では、先週のプレゼント、当選者の発表です」 女性アナウンサーの声の後に、ジャジャーン、とジングルがかぶさる。その音につられて、ふたりは何とはなしにテレビに目を 向けた。 「先週のプレゼントは平和宝石店提供、パールネックレスを1名さまに、でした。厳正な抽選の結果、東京都世田谷区に お住まいの大場加奈子さんがご当選と決まりました。おめでとうございます!」 画面の下の方には当選者の名前がテロップでも表示された。それを見た麗が、それまで忙しく動かしていた箸をふと止めて 言った。 「大場加奈子・・・大馬鹿な子?」 麗のその言い方にマヤがぷっと吹き出す。 「やだ、麗ったら。もう笑わせないでよ。でも、すごい名前つけられちゃって、なんだかかわいそう」 マヤは、味噌汁の椀をテーブルに戻しながら呟いた。 「マヤ、『大場さん』がわざわざ自分の子供に『加奈子』なんて名前、つけるわけないだろ。これは多分、結婚してからの 名前だよ。この加奈子さんって人、きっと大恋愛の末に結婚したんだろうね」 「どうしてそんなことがわかるの、麗?」 「だって、大馬鹿な子、なんて名前になってもいいと思うほどにこの加奈子さんは大場さんと結婚したかった、ってことだろ」 番組はもうプレゼントコーナーから占いコーナーへと移っていて、麗も今日の自分の運勢をチェックしようと画面に目を戻して しまったが、マヤは箸を持つ手を宙に浮かせたまま、いつまでもぼうっとしている。それに気付いた麗が、やれやれといった表情で軽く ため息をついた。 「ほら、マヤ。何をぼんやりしてるんだ。急がないと稽古に遅れるよ。私だって、今日はバイトがあるから時間がないんだ。さっさと食べちゃっておくれ」 「あ、うん・・・」 結局、マヤは麗に追い立てられるようにして家を出て稽古場に向かったのだった。 マヤは、稽古場の片隅で体をほぐしながら、壁の鏡に映る自分の顔を見つめていた。 「だって、大馬鹿な子、なんて名前になってもいいと思うほどにこの加奈子さんは大場さんと結婚したかった、ってことだろ」 今朝の麗の言葉が頭から離れない。 あの加奈子さんは、もともとは鈴木加奈子さんだったかもしれないし、小野加奈子さんだったかもしれない。それはわからないけれど、 名前を名乗って笑われたりする経験などないままに生きてきたはずだ。その加奈子さんが大場さんと出会って、結婚した。 ――― 「オオバカナコ」になってもいい。 名前は一生自分について回るものなのに、なぜそう思い切れたのだろうか。どれほどの決意が必要だったのだろうか。マヤは 見も知らない「大場加奈子」さんに向かって問いかけ続けていた。 マヤがこの話にこれほどこだわっているのは、自分に引き寄せて考えてしまったからだった。 二週間ほど前に告げられたプロポーズがマヤの脳裏によみがえる。 『公式サイトのプロフィールに載せている君の本名・・・速水マヤ、にしないか・・・その、結婚してほしいんだ、 俺と・・・』 あの時はただ嬉しくて迷わず頷いた。だが、あの時の自分は今朝の加奈子さんほどの覚悟があったのだろうか。 舞い上がっていただけの時間が過ぎて冷静になると、自分が何かとても軽率なことをしでかしてしまったように思えてきて、マヤは 小さく身震いした。 「速水マヤ」になりたい。その気持ちはたしかにある。しかしその思いも好きな人の苗字に自分の名前を続けてみて胸をときめかせるような、 子供じみた憧れに過ぎないのではないだろうか。 「結婚」をそんな軽々しい気持ちで決めてしまってよかったのか。もっと「重大な決意」とか「確固たる意志」とかがないと いけないのではないだろうか。 「よぉーし、稽古始めるぞぉ!」 黒沼の声にマヤも立ち上がった。だが、頭の中にはごちゃごちゃと余計な考えが渦巻いていて、芝居の世界に切り替えられて いないままなのは自分が一番よくわかっている。案の定、その日の稽古は惨憺たる有様で、苦虫を噛み潰したような黒沼の顔をまともに 見られないまま、マヤは稽古場を後にしたのだった。 「どうした?食欲がないなんてマヤらしくないな」 マヤの皿のパスタがいっこうに減らないのを見て、速水はからかうように声をかけた。珍しく仕事を早く終えられた速水は 稽古帰りのマヤを誘って食事に来たのだが、今日のマヤは明らかにふだんの元気がない。 「あ、うん。なんでもないの。今日はちょっと黒沼先生に怒られちゃって」 マヤは慌ててパスタをフォークに巻き取り口に運ぶ。 「そうか。まあ、芝居のことを考え始めると、さすがのマヤも食べることだって後回しになるからな」 「あ、なんかその言い方、ちょっとイジワル」 「事実を言ったまでだ」 「どうせ、ふだんは大食いですよぉ〜だ」 「別にそれが悪いなんて言ってないだろ。君には好きなものを何でも、好きなだけ食べさせてやりたい。君がおいしいって 笑ってくれるのを見るのは俺の楽しみなんだから」 軽い戯れの応酬のはずが、不意に熱い瞳を向けられてマヤは頬を染めて俯いた。そんな目で見られると、心臓が走り出すのでは ないかと思ってしまう。 ――― でも。 「も、もう!そんな顔するなんてずるいよ、速水さん!」 マヤは胸に広がる迷いを振り払うように、わざとおどけた調子の声をあげた。 「どうして?」 速水はマヤから視線をはずさないまま平然と問い返す。 「わかってて聞くんだから!やっぱりずるいよ・・・」 速水の熱を帯びた視線の前では、マヤはすべてがお手上げになる。敵わない、と思い知らされる。自分だけがこれほどオロオロ していることが恥ずかしくなる。本当に自分のような小娘がこの人のそばにいていいのかと、今追い出したはずの不安までが再び頭をよぎる。 「ははは。そう怒るなって。まあ、今夜は芝居のことはちょっと忘れて、俺のことだけ考えてくれないか、マヤ」 他の人が言えば嫌味にさえ聞こえそうな気障な言葉も、速水の口から出るとマヤの心をまっすぐに射抜く。 「速水さん・・・」 結局マヤはそれ以上何も言えなくなってしまったが、その後も速水はワイングラスを次々と空にしながら陽気に話し続けた。 結婚式や披露宴のこと、新婚旅行のこと、これからの生活のこと。普通なら女性の方が夢見心地で語りそうなことまで、速水は 口にした。プロポーズを承諾してもらえたことが彼を有頂天にさせてもいたのだろう。速水はマヤの様子がなんとなくいつもと違うとは 思いつつも、稽古で叱られたから、というマヤの言葉をそのまま信じたようだった。パスタは残したものの、デザートは速水の分まで 平らげて、ふだんのマヤらしさを見せたことも彼を安堵させたのだろう。 いつものように速水はマヤを送ってきた。ふたりは、アパートの少し手前で車を降り、細い路地を手をつないで歩いていく。 「話が急に動き出して、君もまだ実感がわかないのかもしれないが、何も心配することはないからな」 マヤの手のひらに速水の握力が加わった。と同時にマヤは胸の奥も同じ強さできゅっと締め付けられたように感じた。 「あ、はい・・・」 「明日、君のスケジュールは午前中は空いているんだったな。よし、善は急げだ。水城くんを行かせるから、君の希望は彼女に よく伝えておいてくれ。女性の支度のことは女性に相談した方がいいだろう?」 速水は仕事の段取りでも組むような調子でどんどん先を急ぐ。マヤは、はい、と返事をしながらも、本当にそれでいいのか、と 頭の片隅で点滅する黄色い警報ランプから目を背けられない。 「おやすみ、マヤ。愛しているよ」 アパートの前まできたところで、速水はさっとマヤを抱き寄せてくちづけた。だが、マヤは自分の唇が温度を失っているように 思えて、その冷たさが伝わってしまう前に、名残惜しそうな速水をその場に残し、逃げるようにアパートに駆け込んでしまったのだった。 6.9.2003 |
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