永遠(とわ)の愛に生きて 3
 一体どのくらいの間、眠っていたのか検討もつかない。自分が生きているのか、死んでいるのかその事さえ、意識の奥深くに押しやられたようで、何を感じる事も何を考える事も出来ない。自分自身の肉体の存在を疎ましく思う。

(生きてるわけではない、ただ死んでないだけだ…)

ゆっくりと視界を辿ると、無機質な白い壁と、温かみのない蛍光灯の光に目を潰され、咄嗟に目を閉じる。

(病院か…)

他人事のように真澄は自分の居場所を確認し、ぐったりとして言う事を聞きそうもない体を無理矢理に起こす。 …っ!!
思わぬ激痛が上腹部に走る。途端に乱れた呼吸を察知したのか、部屋の隅で書類の確認をしていた水城が顔を上げ、駆け寄る。

「お気づきですか、真澄さま」

まるで、生まれて初めて見たような表情で真澄は水城を見やる。ゆっくりと、記憶の棚からそれが自分の秘書である事を今更思い出し、苦笑する。

「ああ…。どれくらい眠っていたのか?」

「丸一日眠っていられました。もっとも、真澄さまの健康状態から申し上げますと、もう数日ベッドに居て頂く事になりますが…」

哀れむような表情で真澄を見つめながら、穏やかな声で答える。

「急性胃炎です。それも、かなりの悪性の」

自分の病状など聞いてないという素振りの真澄を無視して水城は続ける。

「突発的なものですが、2週間ほどで完治するそうです。慢性化する種類のものではないそうですので、ご安心くださいませ」

完全に色を失った真澄の表情は、何を聞いても1mmも動かない。

「吐血まで症状が達していたので、しばらくは点滴で治療していただく事になります。アルコールはもちろんですが、しばらくは絶食です。ストレスが最たる原因だそうですから、一刻も早くストレスを取り除く事が…」

淡々と病状と治療法を述べる水城を遮るように真澄はぐらりと、視線を動かして、水城を見つめる。なんの表情もない、濁った虚ろなその瞳に射すくめられ水城は何も言えなくなる。

「…マヤ…は?」

鉛のような沈黙の後、水城は力なく首を横に振る。

「マヤさんに関するその後の情報は一切入っておりません。ただ、事態は急転してきています」

無意識のように水城はその冷たい真澄の手を握り締め、少しでも自分の熱が移ればとすがるような思いで、言う。

「アメリカ政府が具体的な交渉に乗り出したため、その後の犠牲者は食い止められてます。時間稼ぎとの見方も向こう側に出てきてるようですので、おそらく今夜が山場かと思われます」

一段と強く水城は真澄の手を握り締めるが、その手はなんの反応も示さない。

「いずれにしても、今夜中に交渉が決裂した場合は、軍事的解決に踏み込むものと思われます。どちらに転んでも、厳しい状況である事に変りありませんが、何かしらの答えが出されるという事です」

「水城くん…。
俺はマヤを守ってやれなかった。
目の前で、何の手立ても出来ぬまま、見す見す死なせてしまった…。
こんな俺にまだ出来る事があるというのか?」

それは、一切のものを拒否するものなのか、それとも運命の神に自らの全てを差し出し降伏するものなのか、水城は言葉を失い硬直する。水城はその問いには答えず、

「大都の人間が一人でもあそこで生きている限り、私は大都の人間としての仕事をさせて頂きます」

固く握り締めていた手をゆっくりと放し、最後の理性のかけらを集めて言う。

「何か進展がありしだい、すぐにこちらに連絡します。真澄さまは、今はただお休みくださいませ…」

踵を返し、病室を飛び出した瞬間、水城のサングラスの奥に熱いものが零れ落ちる。これ以上、魂が不在の肉体だけの存在である真澄を見る事が出来なかった。


2時間後、交渉が決裂した事を悟ったアメリカ側から、特殊部隊100人が劇場内に送り込まれ、特殊催眠ガスにより一瞬にして劇場は沈黙の闇に包まれる。





催眠ガスにより気を失った患者の蘇生手当てのため、ハンブルグ市内の病院はさながら野戦病院のような混乱に陥る。
水城は対策本部から手に入れた搬送先リストを手がかりに、一人一人の無事を確認していく。
テロリストが自害もいとわない爆破体勢にいる事を視野にいれ、用いられた催眠ガスはかなりの濃度のものだったらしく、中毒症状を誘発された者、昏睡状態から覚めやらぬ者、多々存在し、一時的な生存確認後も予断を許さない状態が続く。
しかし、奇跡的に人質に死者は今のところ出ていない模様である。安堵のため息が水城から洩れる。最悪の事態を想定した者にとって、このような終結は考えうる最良のものであった。
北島マヤの件を除けば…。
本部から与えられた生存者搬送先リストにマヤの名前はなかった。





真澄は暗闇の中で抜け殻のように身を横たえていた。病院内が突然、騒がしくなった気配がする。やり過ごそうとするが、気配はますます大きくなりそのうち気配を通り越し、それが騒ぎへと拡大していくのを感じる。
胸騒ぎを覚え、TVのチャンネルを入れる。
溢れ出すように流れる映像劇を数秒見つめたあと、真澄は飛び起き、きしむ胃のあたりを押さえ、騒ぎの中心へと向かう。

病院内は大混乱といって過言でないほどの煩雑ぶりだった。脱水症状を起こしている者、中毒症状を起こしている者への応急処置が行われ、病室という病室は満室となり、軽い症状の者は廊下に担ぎ出されたベッドの上に横たわっているほどだった。
ここが唯一の搬送先で無い事はわかっていたが、それでも真澄は大都芸能の社長としての責任を果たすべく、病室を一つ一つ確認していく。
まだ昏睡状態にあるが、命に別状は無いという黒沼や桜小路の姿を認めると、固く閉ざされた心とは別の部分に安堵が広がる。

(マヤだけが、マヤだけが生き延びれなかった…!!)

強烈な悔恨が真澄を猛烈に襲った瞬間、真澄は視界の隅に、血を逆流させるほどの衝撃的なものを捉える。
廊下の隅に寄せられた荷車のようなベッドに掛けられた白いシーツの端から、はみ出しているのは紅天女の打ちかけだった。

一歩一歩がまるで永遠の一歩であるかのように長く感じる。膝に力が入らず、歩くたびにガクガクと体が震える。すぐ側まで来て、震える手で白いシーツをゆっくり下ろす。

「うぅ…!!」

という嗚咽とともに、真澄はその場に崩れ落ちそうになる。必死で耐え、恐ろしいほどに震える指でその白い頬に触れる。

(マヤっ…!!)

が、その指がマヤの頬に触れた瞬間、真澄は激しく何かに後頭部を殴られたような衝撃を受ける。
死人であるはずのマヤの頬は、温かく柔らかく、いまだこの世に生を持って存在してる事を衝撃的に証明していた。

「マヤっ!!マヤっ!!」

激しく真澄はマヤを抱き起こし、その温もりを少しも逃さないように両腕に閉じ込める。

(どうか、この小さな命を誰も奪わないでくれ!!)

真澄の腕の中で、意識だけは遥か彼方を彷徨いながらも、確実に息をするそれを気が狂ったように掻き抱く。

「真澄さま!!」

再び真澄の居る病院戻った水城は、取り乱す真澄の背中を認め、駆け寄る。水城の存在を振り向きもせずに真澄は確認すると、

「医者を呼べ!今すぐ、医者を呼べ!!早く!!」

一瞬にして事態を悟った水城は走り出す。

「マヤ、死なないでくれ。生きてくれ!頼む、生きてくれ!!」

うわ言のように、真澄はそれだけを繰り返し叫ぶ。意識のない肉体は、ぐにゃりと異様なほどに柔らかく、真澄の腕のなかでこれ以上ないほど儚げで頼りない。頬や額に張り付いた乱れた髪を丁寧によけ、何度も髪を梳いてやる。いくつもの愛撫を額や瞼や唇に落とし、その儚げな命を繋ぎとめるように、話しかける声も、最後は涙声になる。自らの目から零れ落ちた熱い雫はゆっくりとマヤの頬を伝っていく。

「マヤ、マヤ!俺を置いていかないでくれ!マヤ、頼む!いかないでくれ…!」





一時間後、真澄は医師の診断を夢うつつに聞く。全てを聞きとめようと思うのに、ベッドの上で穏やかな表情で眠るマヤに全神経を奪われ、大事な話は耳に入れど、脳内を通過する間もなく、どこかへ出て行ってしまうようだ。

「外傷はゼロです。弾丸の跡ももちろんありません。脱水症状と催眠ガスによる軽い中毒症状が認められますが、2・3日で回復に向かうでしょう。
ですが、肉体的衰弱はもちろんの事、精神的なショックも大きいと思われます。しばらくは絶対安静です。
催眠ガスの効果が切れるのは人にもよりますが、明朝までにはおそらく意識が戻るでしょう」

意識が戻り次第、もう一度診察に来る事を約束し、医師は部屋を後にした。

水城が意識が戻った他の関係者から聞き出した事実により、マヤ生還のからくりが解けた。全世界に生中継された、マヤのあの処刑劇は、なんとテロリスト集団に強制された芝居であったと。ライフル銃は発射されたが、それはカメラに写っていない別のライフル銃でマヤを背後から撃ちぬいたものではない。マヤの演技力を見込んで、テロリストがとんだ芝居を打ったという訳だが、その真意は図りかねた。
自害をも辞さぬ覚悟の凶暴なテロリスト集団である。現に、見せしめとして逃げ出そうとした観客を2名射殺している。実際に人質の一人や二人殺す事などに、なんの躊躇いもないはずだ。マヤの無事を言葉に尽くせないほどの感動と喜びでもって、噛み締めながらも、真澄はその事実だけは腑に落ちない思いがした。

夜空がゆっくりと白んでくる明け方、固く閉ざされていたマヤの瞼がわずかに動く。一晩中マヤのその細い手を握り締め、一時たりとも目を離さずに側に居た真澄は、その反応に全身が震え立つような思いがする。

「マヤ…?」
3度の瞬きの末、マヤは焦点を合わせるようにじっと真澄の目を見つめる。

「は…やみ…さん?」

「マヤっ…!!」

たまらず真澄はマヤの頬を両手で掴みこみ、お互いの額を合わせる。何か言おうと思っても、言葉は嗚咽に飲み込まれてのど元で絡まるだけで、代わりに今までマヤには一度も見せた事もないものが真澄の瞳から零れ落ちる。マヤの頬に滴り落ちるその熱い雫を、マヤは肌で感じながら言う。

「私…、今、生きてるの?」

「あぁ、生き延びてくれた…。ありがとう…」

そう言って真澄は、マヤの頬に滴り落ちた自らの涙を親指で拭った。

「速水さん…、泣いてるの?」

マヤは申し訳なさそうに、真澄の顔を覗き込む。細い指が真澄の頬に伸び、その涙に触れる。

「ほんとに泣いてるの?…ふふ、鬼の目にも涙…」

かすかな微笑を白く血の気の引いた顔に浮かべる。その幻のような笑顔に真澄の中で抑えていた、最後の高ぶりが破裂する。

「どこにも行かないでくれ!俺をおいて、勝手にどこかにいってしまわないでくれ!俺より先に死んだりしないでくれ…!!」

縋りつくように、マヤの上に倒れこむ真澄の髪に優しく触れながら、マヤは言う。

「速水さん、そういう事は神様にお願いしなくちゃ…。私だって、死にたくなかったよ」

ハッとしたように、真澄は顔を上げる。自分の興奮した感情をぶつける前にしてやるべき事があったはずだ。誰よりも、恐れ、おののき、震えていたのはマヤであったはずなのに…。

「…すまない。君の気持ちも考えず…。
よく、無事に帰って来てくれた。生きてくれて、生き続けてくれて、何にどれだけ感謝したらいいのか、わからないくらいだ…!」

真澄に髪を優しく梳かれながら、マヤは少しずつ言葉を繋いでいく。

「私ね、初めて、わかったの。生きる事も、死ぬ事もどっちもなんて簡単な事なんだろうって。あの時ね、私、ほんとに死ぬと思った。全部、終わっちゃうと思った。
あのテロリストの人は、『死ぬ演技をすればいい』って言ったけれど、もうそんなの、私にはわからなかった。私、紅天女になって絶対死ぬんだと思った。
私が死んで、みんなが助かればそれでいい、って本気で思った」

マヤの瞳が揺れだし、溢れた水面から涙がゆっくりと、こぼれ落ちる。

「でもね、怖くなかった。私、死ぬの怖くなかったの。
今まで生きていく事が、なんで自分にはこんなに大変で、難しいだろうって、いっつも思ってたのが嘘みたいに消えて、あぁ、生きる事も死ぬ事も同じなんじゃないかなって、思ったの。死ぬ前にね、生きる事も死ぬ事もどちらも、もう怖くない、って思ったのに、一つだけ不安だった」

マヤは世界中のものを飲み込むような深い憂いを湛えた瞳で真澄を見つめる。

「もう一度、同じ姿で生まれてくることは、きっとすごく難しいんだろうって。 もう一度同じ姿で生まれ変わった速水さんに、出会って、同じように恋をするのはもしかしたら、もの凄く難しい事なのかもしれないって。
それだけが、怖かった…」

そこまで聞くと、真澄はマヤの小さな頭を胸の中に抱きこんだ。まるで壊れ物を扱うように、なんども手のひらで頭を優しく撫で、髪の間に口付けを落とす。

「もし、君が今度生まれてくる時、女優でも北島マヤでもなくて、どこか俺の知らない遠くで生まれたとして、俺が大都芸能の社長でも速水真澄でもなく、どこか君の知らない遠くで生まれたとしても、俺はどうにかしてでも必ず君のところへ行く。だから、君も必ずどうにかして俺のところへ来るんだ。
そして、今と同じようにこうして俺は君を抱きしめる」

まるで用意されているかのように、何度でも繰り返し同じ相手に恋をする。その不変的なおとぎ話のような永遠の運命の流れに、二人はゆっくりと身を捧げる。


━あるがままに生き、あるがままに愛し、
そして、あるがままに愛される。━


「そうだね、そうしたら私、生まれ変わる事も怖くない…」

真澄の胸の中でそれだけ呟くと、マヤはゆっくりと目を瞑る。

「なんか、お薬のせいかな?また眠くなっちゃった…」

「あぁ、ゆっくり眠るといい」

そっと布団の中に戻ろうとするマヤに真澄は、ふと思い出したように訊ねる。

「彼らはなぜ、君に演技をさせたんだ?何か、別の目的でもあったのか?」

マヤは不思議そうに真澄をしばらく見つめると、思い出したように、ふっと小さく笑う。

「リーダーだった人がね、一度だけ私に話しかけに来たの。私の紅天女、最後まで見たかったって…。それから、見れなくてごめんって。
だから、もしかしたら、紅天女は殺しちゃいけないって思ったんじゃないかな。だってそしたら、私の紅天女、もう誰も見れなくなっちゃうでしょ?」

無邪気に笑うマヤに、真澄は途端に胸が締め付けられる思いがする。

「じゃぁ、君が生きてるのは、紅天女のおかげだな」

そう言って、真澄は布団をマヤの首元まで引き上げる。

あれは紅天女がもたらした奇跡であったと。テロリストの殺意さえも惑わせる、無垢の存在、紅天女。計り知れないほどのものを抱え込む、この小さな小さな命を守る事の使命を、真澄は今更ながら身震いする思いで心に刻み込んだ。







「もし、神様が一つ願いを叶えてくれるとしたら、北島さんは何をお願いしますか?」

復帰2ヵ月後に行われた、とある雑誌のインタビュー。

「え〜?一個だけですかぁ?」

無邪気な笑顔を浮かべた後、マヤは真剣に悩む。

「そんなに、真剣に悩まなくっても、ちょっと思いついた事でもいいんですよ」

インタビュアーは苦笑しながら、答えを促す。

「だめですよ。『神様にお願い』って口に出したら、きっと神様はどんなに些細な事でも絶対聞いてると思うんですよ。だから、いい加減な事言って、神様に怒られたら私、困るんです」

と、この上なく真剣な表情でインタビュアーを見つめ、ドギマギさせる。

「あ、じゃぁ、これをお願いしよう。
好きな人と同じ瞬間に死なせて下さいって。
どちらかが一秒でも早かったり遅かったりしちゃ、だめなんです。好きな人と手を繋いで一緒に死なせて欲しいな」

あっけに取られて言葉をなくすインタビュアーをマヤは、不思議そうに微笑みながら見返していた。




━そして、それは遠い遠い未来の前触れ。
永遠に繰り返す運命の終わりであり、そして始まり。
なんの恐れも持たずに、二人は運命を受け入れる。



32年後、マヤのアカデミー賞受賞に揃って二人は出席した帰り、不慮の飛行機事故に巻き込まれる。太平洋にまっ逆さまに突っ込んだ機体の中から発見された二人の遺体は、固く手を握り合い、折り重なるように寄り添いあっていた。
安らかな笑みを湛えながら…。



1.7.2003

<Fin>











想いが通じ合ったり、結婚という形で締めくくったハッピーエンドのその先というのが、書いてみたくなり、パロのタブーでもある死にオチに手を出してしまいました。不快な思いをされた方が居ましたら、心よりごめんなさい。
でも、わたしにとってはこれは究極のハッピーエンドかも。何度生まれ変わっても、同じ相手と恋に落ちる。。。現代のおとぎ話のようなそれも、この二人だったら信じられるかなぁ、と。
そして、ふたりが死ぬ事にも生まれ変わる事にも、なんの不安もないって思い切れるまでを描いてみたつもりです。最後までお読みくださいまして、ありがとうございます。
杏子にとって、発表する事にかなり勇気のいる作品でした。
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