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第一話 |
駅に向かう人の波と、これからまさに酒場へと繰り出す人の波が複雑に交差する午後9時という時間帯。酔いのために大声で話しながら歩く人々、その声に負けじと携帯電話に大声で応える人、そして店先に立った店員の呼び込む声。そのあまりの喧噪に、ひっきりなしに高架上を行き来する電車の通過音さえ、この街の一部となっている。その音が騒音とは認定されない空気がここにはあるのだ。 新橋という街のたくましさは”新橋のガード下”というその名の通り、どんな場所へでも寄生する雑草のように、それが例え電車のガード下という立地であても、そこに酒と肴があれば大声をあげ、杯を酌み交わす、働く男たちの生きざまそのものかもしれない。 青山や代官山の気取った店が好きなわけでは毛頭ないが、かといってここもまた自分にとっては来慣れない場所であることには間違いない。 「っ!ごめんなさい!」 上手く人ごみをよけられず、グレーの背広を着たサラリーマンの肩にぶつかる。謝った時には、サラリーマンはとっくに次の人の波に消えていた。もう30分近くも同じ場所をうろうろしているが、黒沼が指定してきた店をマヤはみつけることが出来ない。 (新橋の改札出て、右行って左に行ったらある目立つ赤ちょうちんの店って、そんなお店100軒ぐらいあるじゃない!馬鹿でも分かるとかいって、監督ぅ〜) 心の中で悪態をつくが、それでも見つからないものは見つからない。どうしたものかと深いため息をついた瞬間、それは目の前に飛び込んできた。 (だから監督、すぐに分かるって言ったのね……) 深いため息はすぐに苦笑と抑えきれないほどの笑いの虫を腹の中に呼び寄せる。いったいなんて大声をあげて、のれんをくぐってやろうか、笑いをかみ殺しながら、マヤは居酒屋の茶色の格子扉に手をかける。 赤ちょうちんには ”つれない天女” と書かれていた。 「それでは本物のつれない天女に乾杯!」 上機嫌の黒沼が小さな杯を無理やりぶつけてきた。 「監督、私のいったいどこが”つれない”って言うんですかっ!私、監督に会えるんだったらいつだって飛んでくるのに!」 思ったとおりの反応を示すマヤに対して、黒沼はますます上機嫌に笑い出す。 「しょうがないだろ。あの紅天女以来、おまえさんは今や大スターだ。俺みたいな小汚いオヤジがほいほい会えるもんでもないだろうが」 「監督っ!!」 ついにマヤが本気ともつかない様子で声を荒げると、杯をテーブルに音をたてて置いた。 「冗談だ、冗談だ。ったくおまえさんは、そういうところも全く変わってないな。それも結構!」 そう言ってもう一度、不服そうにマヤが手を添えているテーブルの上の杯に自らのをぶつけた。 マヤが黒沼の演出のもと、大方の予想を大きく裏切り、亜弓を抑えて紅天女を手にしたのが2年前。普段は観劇に行かないような階層の人間もが大都劇場に連日足を運び、社会現象の一つにまでなるほどの大成功をおさめた。 知る人ぞ知る女優から、日本中の誰もが知っている女優に至るまではほんの一瞬の出来事だった。 つれなくしているつもりなどマヤには微塵もなくても、女優として今売れに売れているマヤは確かにプライベートの時間も皆無で、こうしてまともに黒沼と話をするのも紅天女以来である。望んだわけではなくても、こうなってしまう現実に、マヤはかすかな戸惑いを隠せない。 「監督、私……、監督の目から見て大丈夫ですか?ちゃんとやってると思いますか?」 不安がないわけではなかった。むしろ不安だらけだった。次々と舞い込むドラマや映画の出演依頼とそれに伴う露出。演技をおろそかにしているつもりは微塵もなかったが、それでも恥ずかしくない演技をしているのか、そして女優以前に人として恥ずかしくない行いをしているのか、誰かに大丈夫だとでも言って貰わないと不安で不安でならなかった。 そんなマヤの不安を黒い瞳の中に的確に見て取ると、黒沼は上手そうに酒を一口あおる。 「大丈夫だ。立派にやってる。大した女優だよ」 ほんの一瞬、居酒屋の喧噪がマヤの耳から遠のく。心が息をついたように。 「ありがとう……ございます」 ホッとした瞬間、心の鍵が緩んだのかあとは自然と言葉がこぼれてきた。 「これで……、いいんですよね。私、幸せですよね?」 「そんなこと人に確認してどうする。幸せなんておまえさんが自分で確認するものだろうが」 突き放したつもりはなかったが、自らが放った言葉に急に途方に暮れたような顔をするマヤに黒沼は持ちかけた杯をテーブルに戻す。 「いいか、よく聞け。おまえさんにも分かる、簡単な話だ。 人が幸せを感じる条件は4つある」 「幸せの条件……?」 「そうだ、幸せの条件だ。一つ、必要とされること、二つ、役に立つこと、三つ、ほめられること、そして最後、愛されることだ」 必要とされること 役に立つこと ほめられること 愛されること 心の中でマヤは繰り返す。 「腐るほど金を持ってても幸せじゃない奴なんて沢山いる、人から羨まれるような立場にいても不幸な奴も沢山いる、逆に平凡でも貧しくても何も持ってないように見えても、誰かに必要とされて、誰かの役に立てて、そしてほめられて愛されている人間は間違いなく幸せなんだよ」 突然始まった黒沼の幸せをめぐる講義に、マヤは戸惑いながらもじっと耳を傾ける。 「女優として北島マヤは、今まさに世の中に必要とされていて、皆を楽しませるという点だけでも、多くの人間の役に立ってる。おえらい評論家連中なんかどうでもいいが、滅多に役者をほめない俺にまでこうしてほめられてる。おまえさんほど、今世間に愛されている女優はいないだろうが」 マヤはまばたきもせずに黒沼の話に聞き入っていたが、黒沼のその話は本当にその通りにも思え、まずは小さく、そして段々大きく頭を上下させて頷く。 「監督、ありがとうございます。なんか私、元気出ました」 「なんだ、天女様は元気がなかったのか。だったら飲めや」 そういって、今宵三度目、白地に青い模様の入った杯をぶつけた。 黒沼に言われた幸せの4条件は、とてもわかりやすく、だからこそマヤの心に残った。女優として自分が今、とても幸せな立場にいるということもなんとなくだが理解できた。 けれどもそれでは人として、一人の女として幸せかと考え、同じ4条件を自らに当てはめると急に電池が切れたように体の機能が止まり、立ちすくんでしまう。 必要とされること 役に立つこと ほめられること そして、 愛されること 永遠にそろわないと思われる4つ目の条件が、心のどこか、落ち着かない場所にとどまって離れない。黒沼と新橋で会って以来、ずっとその落ち着かない場所を気付くと自分は覗き込んでいる。 こんなことばかり考えてしまうのは、これからあの人に会うからだ。 会えるとわかると、心は不必要なまでに騒ぎ出す。余計なおしゃべりを山ほどしながら。 会っても仕事の話ばかりで、切なくなるのはわかっていたが、それでも会えないより会えたほうがいい。もちろんいい。仕事の話があるだけでも、幸せなのだ。だって、会えるのだから。 堂々めぐりをする思考を持て余しながらも、どこか心に僅かに色がついたような高揚感も間違いなく引き連れて、こうしてマヤはその人の待つ場所へと向かう。 真澄のいる大都芸能に所属して、もう2年になる。 「これが今度の公演のチラシだ。今、本刷りに入っている。君のその裏面の顔は傑作だな」 半年後に予定されている大都劇場で上演予定の新春特別企画の”あしながおじさん”のチラシ。手渡されたそれをあわててひっくり返して言われた通りに裏面を見れば、白眼を剥きだして棒立ちしている自分がいた。 「誰がこういう写真を、わざわざよりによってこの写真を使うって決めるんですかっ?」 今更写真映りを気にするわけではもちろんないが、真澄の放った”傑作”という言葉尻に反応してマヤは噛みつく。 「俺だ」 「っ!!!!!」 「迫真の演技だ。いい写真だ」 わざと涼しい顔をして言ってのける。 さんざん噛みついてみたが、本当のところは白眼を剥いていようが、大口を開けてようが、そんなことは自分にとってはどうでもいいのだ。どうでもいいけれど、真澄が振ってくれる話題であれば、それは途端にどうでもよくなくなる。そうでもしていちいち噛みついて、可愛くないことを言って、子供のように膨れてみせでもしなければ、いつか気を抜いた瞬間に、見せてはいけない自分のある部分が顔を出してしまうか分からないからだ。 特にこうして仕事上とはいえ、真澄とこの社長室という密室で二人きりになっている時などは危険極まりない。 「速水さん、私だって女子なんです。そりゃ、見た目で売ってるなんて毛頭思ってませんよ。そうですよ、北島マヤは演技力が勝負ですよ!だからってわざわざこんな白眼剥いた写真選ばれて、私だってそれなりに傷つくんですから」 「すまなかった」 思いの他あっさりと真澄がそう謝って、頭を撫でてきたので、その次に用意していた言葉をそっくり忘れてしまった。まるで頭を撫でられることと引き換えに失ってしまったチケットのように。 仕方なしに、チラシ内容を目で追っているふりをする。喋ることがなくなったら、自分はこの部屋から出ていかなければならないのだから。 ふと、目に入った文字。それはそのままマヤの口からこぼれおちる。 「1万5千円……。高いですね、これ……」 訝しげな真澄の視線。続きを促すように、真澄の目がマヤを見つめる。少しだけ首に角度をつけて。 「チケットの値段、1万5千円って高くないですか?一番安くても8千円って――」 「チビちゃん、君にはその価値がある。あの紅天女の北島マヤが主演の大都劇場の新春公演だ。むしろ安いぐらいで――」 遮るように発せられた真澄の言葉を更に遮るマヤの声。 「でも、この値段じゃぁ、子供とかお金のない人とか来られないよね」 マヤの意図していることが思わぬ方向にあることを察知して、真澄は口をつぐむ。 「私ね、小さい時からとにかくお芝居が大好きだった。よそのお家を屋根づたいに覗き見しちゃうぐらいテレビのドラマとかかじりついて見たりして、それでもいつかは舞台で本物のお芝居を見たいって夢があって、でもそんなの叶いっこなくて。ほら、家が物凄い貧乏だったから、舞台を見るなんてそんな贅沢ありえなかったの」 自らが死へと追いやった春の想い出にもつながっていくマヤの幼少期がふと浮かび、いたたまれなさから真澄は瞳を閉じかける。しかしその先に続くマヤの言葉を信じるように、両あごの下に手を組むと、再びマヤをまっすぐに見つめた。 「そんな時あの舞台を見たの。ほら、速水さんと初めて会った、あの”椿姫”の舞台。あれが私の人生を変えたって、今ならはっきり言える。そのぐらい初めて生で観た舞台は私にとって衝撃だったの」 まるで過去という名前の絵を壁にかけ、それがまっすぐに壁にかかっているか確かめるかのようにマヤの視線が壁を見つめるほんの少しの間が出来る。 「舞台の感動が必要なのって、お金を持ってる人より、もしかしたらそうじゃない人のほうかも……」 言葉は稚拙だが、マヤの放つ言葉は自分に足りない人間の本質をついてきているよう、真澄は心が落ち着かなくなるのを感じる。 「夢を与えたいと?」 「夢……。うん、そうかな……」 「例えば君のように”女優になりたい”とか?」 真澄が顎の下で組んだ指を少し組み替える。 「う……ん、それもいいけど、でもみんながみんな女優になりたいとか、舞台に立ちたいとか思う必要はないと思うの。でも夢を見るのはみんな必要だと思う。ほんの一瞬、現実から離れて、今ある煩わしさとか辛いこととか、そういうの全部から離れてお芝居の世界に夢中になって欲しい。 その力が舞台にはあると思うの」 「なるほどな。君も女優としてずいぶん立派になったもんだ」 少しも嫌味が入っていない真澄のその言葉に、急に多くを語りすぎてしまった恥ずかしさがこみ上げる。 「え……と、なんか偉そうに語ってしまってすみません。その……、私ビジネス的なこととか興業的なこととか、何もわかってなくて。いえ、何もわかってないからこんなこと簡単に言えるんであって――」 「いや、君の言うことはもっともだ。実は俺も今後の大都芸能の在り方について、最近考えていたところだ。君のいまの話は大いにヒントになったよ」 自分の突拍子もない話が、いったい真澄になんのヒントになったというのか、見当もつかないため訝しげにマヤは真澄を見つめ返す。 「Corporate Social Responsibility。略してCSR。聞いたことあるか?」 「ないです。分かってて聞かないでください」 「君も大人なんだから新聞ぐらいたまには読め」 真澄の苦笑も、それはもっともなことに思えて、マヤは恥ずかしさから俯く。 「日本語に訳すと、企業の社会的責任だ。企業が利益を追求するだけでなく、組織活動が社会へ与える影響に責任を持つということを指す。 まぁ簡単に言うと、金儲けや会社の拡大ばかり考えてないで、それを社会に還元していくことも考えなければいけない時代になってきてるということだ」 「あの……、それと今の私の話がどう関係あるんでしょうか」 とんでもなくトンチンカンなことを聞いている気がして、マヤの言葉はますます尻すぼみになる。 「例えばこうだ。会社の利益を社会に還元するという大義名分から、君が出演する舞台に、東京都の児童養護施設の子供を全員招待するとか、低所得層の子供を招待するとか。 君の舞台を観たくても金銭的な理由で観られない人に、観せてあげるということだ」 「凄いっ!速水さん、それ凄い!!私やりたい!ギャラなんかいらないから、私それやりたいっ!!」 思わずソファーから立ちあがり、真澄の両手を握りしめてしまった。 その手をふりほどこうともせずに、真澄はマヤの手に軽く触れながら言う。 「君は本当に凄いな。大都芸能の速水真澄にこんなことを言える女優は君ぐらいだ」 「あの、それほめてますか?」 「ほめてるよ。君は大都になくてはならない存在だ。君はもはやただの一商品の女優ではない。大都の運命を握っているといっても過言じゃない」 勢いで握りしめてしまった真澄の手が、逆にいつの間にか自分の指を包むように優しく触れている。指先から手首、腕をつたい右肩に真澄の手のひらが置かれる。何かを思案するように、肩に置かれたその手のひらがゆっくりと動く。言葉の代わりのように。 「大切な女優だ……」 「速水……さん?」 行く先の分からない真澄のその熱を持った手のひらの動きにマヤは思わず声をあげる。目を閉じたらここではないどこかへ連れ去られてしまう予感さえして、瞬きもせずに真澄を見つめたまま。 「すまない、なんでもない……」 そう言って、あっという間に肩の温もりは奪われた。 必要とされること 役に立つこと ほめられること 例えこの速水真澄という人を目の前にしても、三つ目までは女優である限り、きっとそれは可能なことで。 けれども 愛されること 四つ目のそれを求めた瞬間、自分の心は途方もなく苦しくなる。女優であることがなんの効力も持たないほどに苦しくなる。 5.30.2009 |
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