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第二話 |
「Corporate Social Responsibility……。大都芸能もそんなことを考える時代になりましたのね、真澄さま」 真澄の指示通り作成された資料をまとめながら、水城の細く長い指先が、表紙のその文字をなぞる。 ”大都芸能 経営改革 〜次世代におけるCSRの重要性〜” 「時代は変わった。企業の価値が資本金や売上だけで語られる時代じゃない。何を残せるか、だ。昨日までの世界的優良企業が、売上マイナス900億にたった数日で転落する。世界のGMは潰れる。絶対に潰れないといわれたあのGMがだ。そんな何もかも信じられない世の中で、金も商品もすべてがなくなったとしても、唯一残るものがある。人々の記憶だ。感動はいつまでも人の心に残る……。 文化とはそういうものだ」 「真澄さま、あなたも変わりましたわね」 有能な秘書のその言葉を否定も肯定もせず、真澄はどちらとも取れる笑みを薄く浮かべるが、すぐにそれは消えた。別の領域に音もなく吸い込まれるように。 「問題は頭の固い経営陣連中だ。CSRなど、考えもしない連中ばかりだ。考えることといえば、時代遅れの政略結婚や吸収合併。俺の一存で何もかも決められれば楽なことはないが、こればかりはしょうがない。徹底的に戦うまでだ」 「最大の敵は……」 「会長だろう」 揃った資料すべてを水城に渡すと、金色のライターから硬質な金属音を響かせた。体中に鬱積した溜息を吐きだすように、薄く開けた口元から煙を吐く。吐き出すそばから捉えどころなく形を変えていく煙は、今の真澄の目の前に立ちはだかる霧のごとく。 「営利主義の経営陣を納得させ、さらに会長をも納得させるには相当の秘策が必要ですわね」 「その通りだ」 「いったいどんな隠し玉をお持ちなのですか、真澄さま――」 遮るように内線電話が鳴る。 「ああ、通してくれ」 無造作にそう答えると、振り返りざまに用意したように笑う。 「隠し玉のご登場だ」 間もなくドアの向こうに現れたその存在に、水城は意外な表情を一秒、そして納得の表情をすぐに浮かべた。 「マヤちゃん、アイスコーヒーでよかったかしら?」 「ついでにアイスクリームでも浮かべてやってくれ」 「いりませんっ!!」 かしこまりました、とドアを閉めつつ、最後にこの有能なボスのこんなに大きな笑い声を聞いたのはいつだったかと思い出せば、それはやはりこの少女といた時だったと思い当たる。いや、この少女といた時しかない。この真澄が声をあげて笑うのは。 真澄にとって北島マヤとは、そういう存在なのだ。 真澄がこの世でただ一人、心を許せる相手……。 「チビちゃん、ほんとにギャラはいらないのか」 企画書の上を万年筆の後ろで軽く叩きながら真澄は言う。来年の”あしながおじさん”の公演に養護施設の子供たちを招待するという例の提案について、真澄が本格的に進めているのだ。マヤをこうして呼び出したのも、細かい内容について本人の意思確認が必要だった上でのことだ。 「いりません。高い出演料もらってやったら意味ないです」 それは確かにその通りなのかもしれないが、それだけでは片付けられない気がして、真澄は少しだけ思案する。万年筆のキャップを外し、そして閉める手ごたえを指先で確かめるという、意味のない動作をしながら。 そんな真澄の気配を感じたのか、言葉足らずな自分のたった今の台詞を補うように、マヤが口を開く。 「守られるものに守られて、それで社会貢献とか、ボランティアとかって、説得力ないじゃないですか。私にできること……、それはそんな大それたことでも凄いことでもないかもしれないけど、でも、私は私にできることを精一杯やっていますって、そういう気持ちとか姿勢だけはきちんと伝えないといけないと思うんです。それには守られてるだけじゃ、ダメなんです……」 そう言って揺るぎない強さで真澄の瞳をまっすぐに見つめる。 真澄はわかった、と黙って頷いた。 いつのまにこの子はこんな大人びたことを言うようになったのだろう。こんな強い瞳で自分のことを見るようになったのだろう。 何もかも自分が守ってやらなければ、育ててやらなければ、教えてやらなければ、そう思っていたが、もうその必要もないのかもしれない。 子供だと思うことで、ふさわしい距離を保っていた。 誰よりも遠くへ、誰よりも高く、その大空の下で羽ばたいて欲しいと思う一方で、いつまでも自分の手の届く範囲にマヤをとどめておこうとしていたことも否めない。 早く大人になれ、と願う一方で、大人になったマヤの瞳に映るものを恐れるこの矛盾。 馬鹿な男とはこういう男なのだと、真澄は自嘲的に笑った。 「思い出し笑い?おじさんぽーい。おじさんって、話が見えないところで、いきなり笑ったりしますよね」 「子供にはわからない種類の大人の笑いだ」 わざとムッとした表情を浮かべて、真澄は答える。悪態を突かれるぐらいが心地よい。少なくともまだマヤは自分の側にいるのだと、手触りで確認できる。少しザラザラとした感触ではあるけれど、嫌いではない。 「そんなんだから、今だに独身なんですよ」 今度は少しチクリとわずかな針先ほどの痛みを持って、その言葉は真澄の心の端に刺さる。 「子供にはわからない種類の大人の事情だ」 できるだけ先ほどと同じイントネーションで、おどけたふうに軽く響けばいいと思った。 そんな真澄の言葉に、マヤは少しだけ不服そうに、鼻のあたりに皺をよせると、わざと音をたててアイスコーヒーをすすった。 本当のことなど、知る必要はない。 この子が知る必要など、どこにもない。 そんな汚い”大人の事情”など、少しもマヤには知られたくないと、なんでもないふうに真澄は手早く書類をまとめた。 鷹宮家の親族である、とある政治家が起こした小さな収賄事件を盾に、真澄が紫織との婚約を引き伸ばして、すでに2年になる。 いたずらに運命の最悪の瞬間を伸ばしても仕方がないと思っていたが、大都芸能の経営方針を見直す機会となった今、真澄は確かな手応えで持って、誰にも頼らずに自社を確立させることについて、真剣に考え始めていた。 ことに女優としてのマヤの成長を、最も近くの立場で見守ってきたこの2年間が、嫌でも自分の人生について考える機会を与えてきた。 この小さなの少女といると、例えば恋心とか、もしくは情熱に任せた性的な欲望とか、そんなものでは済まされない種類の感情が、自らの中に湧き上がる。生きることへの渇望かもしれない。必死に自分の人生を生きてみたい、そんな思い。 一度でも自分は、この少女のように、何かを必死に求め、探し、そして人々に与えてきたことがあっただろうか。 振り返れば自分の人生には、何でもあったが、結局のところ何もなかった。そう言い切れる。マヤに出会うまでは。 長い間自分の中にあったその空白を、この少女はいとも簡単に満たそうとする。乾いた土にゆっくりと水を注ぐように。 今まで自分にとって仕事とは奪ったり、潰したり、騙したりするものだった。だがそうではないと、今本能が叫んでいる。何かを創りたい、残したいという、人としての本能。例え自分は光の中を歩くことは出来なくとも、その光を支える影として、何かを残していきたい。大それて言うなら、生きた証として何かを。 それがマヤであり、紅天女であり、今まさに変わろうとしている大都芸能そのものなのだ。 自分の人生は、もうまるきり変わってしまった。この2年間の間に。 確実に自分の中で動きはじめたその鼓動を確かめるように、真澄はもう一度その企画書をデスクの上で揃える。 「チビちゃん、君のおかげで大都芸能もきっと変わるだろう。君は大都芸能にとって――」 少しだけ、間が出来る。言うか言うまいか逡巡する間というよりも、大切なことを打ち明けるために、体の空気を入れ替えるための間が。 「俺にとって、何よりの宝だ」 その言葉に対して、マヤは困ったように小さく笑った。 大都芸能からの帰り道、まっすぐ家に帰れず、河川敷を通る。土手の緑がすっかり色付き、初夏の訪れを感じさせる。遠くから、金属バットに球があたる硬質な音が、一定の間隔で聞こえた。 今日の午後のひとときの真澄との会話をすべて再生する。頭の中で、何度も何度も。 腰を下ろした土手の斜面にはクローバーが咲いている。手のひらでなでるように、無意識に緑の葉に触れる。 真澄が大都芸能という会社を背負う立場の人間として、自分を必要としていて、そして自分は何かしら役に立てる立場にあり、そして惜しみなくほめられる。それはよくわかった。今まで以上に、よくわかった。よくわかりすぎて、体のどこかが痛くなる。 それは、満たされれば満たされるほど、永遠に満たされることのない4つ目が逆に際立ちすぎて、痛みを持って自らの体内で暴れ始めるかのごとく。 いっそ誰かのものにでもなってしまえば、もっと早くにでも諦めがついたかもしれないのに、と乱暴に思ってはみても、それが答えにはならないことももうよくわかっている。 『子供にはわからない種類の大人の事情だ』 数時間前に確かに聞こえた真澄の声。 ”君には関係ないことだ” そう言われたような気がして、心臓の一部が抉られたように引きつった。 足元一面に広がるクローバー。目線だけで四つ葉を探してみるが、見つかるわけがなかった。あるのはありきたりの三つ葉のクローバーばかり。 当たり前だ、そんなに簡単に幸せが転がっているわけがない。 うまい話には必ず落とし穴がある。 どれだけ必要とされたところで、役に立てたところで、ほめられてみたところで、愛されない限り、自分はありきたりのこの三つ葉のクローバーでしかないのだ。どこにでもある。何の変哲のない。 諦めているはずなのに、視界と指先はあるはずのない四枚の葉を求めてさまよう。 その時、 求めていた輪郭と違わぬそれが、人差し指に触れる。葉が重なりあってそう見えるのではなく、本当にそれが四つ葉であるか、震える指先で確かめる。 『俺にとって、何よりの宝だ』 いたずらに意味を取り違えてしまえるほどに甘美な響きを持ったあの言葉を、正確に真澄のイントネーションでそう響かせると、マヤはまるで宝物をそっとしまうように緑の四つ葉をハンカチに包んだ。 その日の夜、自分の持っている一番分厚い本の中にそっとクローバーを忍ばせた。まるで世界中に対して秘密をそこへ隠すかのように。 ゆっくりと本を閉じた瞬間、電話が鳴った。まるで運命の合図とは、いつもそんな分厚い魔術の本でも閉じた瞬間に鳴ることが決められているかのように。 「マヤちゃん、大変なの!真澄さまがっ!!」 動揺とは無縁と思われた、有能なはずの秘書の取り乱す声。 何かが動き始めた。 まるで誰も知らない深い森の奥で、動物たちが一斉に目を覚ましたように。 何かが起こっている。直感でそう悟る。 「真澄さまが……、社長を辞任されるのっ!」 6.05.2009 |
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