第三話




翌日、水城から一通りの状況説明をタクシーの中で受けながら、マヤは大都芸能での取締役会へ出向く。経営のことなど何もわからない一女優でしかない自分ごときに一体何ができるのかと、ためらいがあったのも事実だが、

「真澄様を助けられるのは、あなたしかいない」

と強く水城に言われ、こうして緊張ばかりが増すタクシーの中で言うべき言葉を探している。それは取締役会などという場違いな場所へ行きたいという気持ちよりも、真澄が窮地に立たされているというこの状況で、何もしないという選択肢は、どう考えても自分の中にはありえないという、ただそれだけのことだった。

「辞任はもちろん真澄様の本意ではないわ。昨日の経営方針会議で、今回のマヤちゃんの”あしながおじさん”の舞台の例の企画を含めた大々的なCSRの必要性や、大都運輸の縮小や大都芸能への増資などが真澄様から提案されたの」

聞き慣れない言葉を並べられ、視点がおぼつかないマヤの様子に気が付くと、あわてて水城は言葉をつなぐ。

「簡単に言うと、真澄様の提案は頭の固くて古い経営陣のおじさま達には、ありえない内容だったのね。確かに革命的な内容ではあったけれど、決して間違ったものではないのよ」

それはきっとそうなのだと、それだけは自分にもわかる気がして、マヤは小さく何度か頭を上下させる。

「ただ会長は大激怒よ」

「会長って、速水さんのお義父さまのこと?」

「そうよ、速水英介氏。マヤちゃんも会ったことぐらいあるわよね」

会長として会ったというよりも、そうとは知らずに演劇好きの一老人として出会ったといったほうが正しかったが、そのことはあえて口には出さなかった。自分が大都芸能に所属してからは、体調が思わしくないという理由で滅多に人前に出てくることがない英介と顔をあわせたことは一度もなかった。

「真澄様はね、今回のCSRの提案を発端に全部をひっくり返そうとしているの。ご自身のご結婚の話さえね」

不用意に心臓をつままれたように、ドクリと音が鳴った。

「結婚……?」

分かっていてずっと避けていた話題。二年も前から真澄は紫織と婚約したままだ。一体何がそうさせているのか、自分などは知るよしもないとあえて知ろうともしなかった事実。けれども確実にいま、その事実が動こうとしているのだ。森の奥深く、動物たちが一斉に目を覚ましたその場所で、動くはずのない重い石がわずかに動き出したかのように。

「時代遅れの政略結婚など、会社の発展の足かせにしかならないまで仰ったわ。二年ももっともな理由をつけて待たされていた会長は、大激怒よ」

「それで……、今最終的にはどんな状況なんですか?」

興奮した水城が次から次へと情報を流し込むのを制するように、マヤは震える小さな声で言う。

「そうね、ごめんなさい」

小さく咳払いをし、サングラスの中心を押さえると水城は努めて落ち着いた声を出す。

「経営方針会議は決裂に終わって、真澄様は経営陣から辞任を要求されている形よ。真澄様も自分の要求が通らないのであれば、辞任も致し方ないという姿勢を示したのだけれど、ここで一つ大問題が起きたのよ」

サングラスの向こう、水城の視線が強くなる。

「マヤちゃん、あなたよ」

自分の名がそこで呼ばれることは、まったくもって想定外だった。

「わ、私?!」

「真澄様は自分の辞任の条件に、新会社設立を入れているわ。口にこそは出さなかったけれど、真澄様が独立するとなると多くの所属女優やタレントがごっそり後を追って移籍するでしょうね。速水社長の手腕一つで、大都芸能は成り立っていたようなものよ。彼が居なくなれば、大都芸能はただの時代遅れの一芸能事務所になることは誰の目にも明らかなのよ」

水城のその言葉には、真澄が窮地に立たされているはずだというのに、どこか絶対の自信があった。

「そしてマヤちゃん、あなたがどうするのか皆が今一番注目しているのはあなたの動向よ。あなたは大都芸能の一女優ではないわ。大都芸能にとって、そして速水会長にとってももっとも価値のあるものを持っているのよ。分かるわね」

「紅……天女」

「そう紅天女の上演権よ」

少し乱暴にタクシーが右折した。重力に従って、体がシートに押し付けられる。
ゆっくりと目を瞑る。

自分がやるべきことは、もう分かっていた。






「それでは異議がなければここで採決に入らせていただきます。速水真澄氏への辞任請求に――」

会議室から聞こえてきたその声をさえぎるように、水城が重い扉をためらうことなく開け放つ。一瞬のざわめき。その場にそぐわない来訪者に対する容赦ない視線。

「君、今は取締役会の最中だ!役員以外の人間の立ち入りは――」

「お言葉ですが、彼女は大都芸能の看板女優です。大都芸能があるのは全ては彼女たち役者やタレントがいてのことです。そこのところをお忘れではありませんか?
大都芸能の運命を左右するとも言われている、紅天女の上演権を保持する女優が代表してこうして意見を述べにきたのです。聞くに値するものかどうか、間違いのないご判断を」

会議室内は水を打ったように静まり返った。何も知らされていなかった真澄は微動だにせず、有能な秘書の犯した事態をただ見つめる。

「よかろう。話させたらいいじゃないか」

予想しなかった方角から声が聞こえる。車椅子がわずかに動き、不敵ともいえる笑みを浮かべた老人がこちらをまっすぐに見つめた。

「しかし、会長――」

初めて見る会長としての英介の姿に、マヤの体の一部がガチリと音を立てる。奥歯を噛んで、それに耐えた。

ゆっくりと息を吸う。
そうだ、ここは舞台だ。
舞台だと思えば、自分にできないことなど何もない。

マヤはゆっくりと一度、”観客”を見回すと用意してきた台詞を放つ。確実に揺ぎ無い強さでもって。

「女優北島マヤをここまで育ててくださったのは速水社長です。もちろん私に演技を教えてくださったのは、月影先生であり黒沼監督であり、私を支えてくださった全ての人のおかげです。それは間違いありません」

そこで一度唾を飲み込む。心臓が乾いた音をたてた。

「ですが私を女優として……、世間にこれほどまでに認められる女優としてくださったのは速水社長です。社長はよく女優やタレントのことを『商品だ』と発言しては、一部の方に非難されていますが、売ってくださる人がいなかったら、私たちは商品になることすらできないのです。お芝居は誰にでもできます。お芝居自体はやろうと思えば、私一人でもできます。でもそこに観客がいなければ、伝えるべき人がいなければ、私の表現はどこにもいくあてのないものなのです。
いくあてのないものを、いくべき場所に届けてくる、それを速水社長はしてくれているんです。必要としている人のところへ、届けてくれるんです。」

誰もが微動だにしなかった。
”観客”の呼吸を操っている感覚がマヤの中に確かな手ごたえとして感じられてくる。

「今回のCSRの件はもちろんですが、速水社長の経営方針を、私北島マヤは全面的に支持します。
もしその方向性が認められないということであれば、私も……、そして紅天女も、速水社長とともに行くべき道を行くまでです!」

残ったのは、マヤの不規則な荒い息づかい。
誰がこの沈黙を打ち破るのかと縛り付けられた空気の中に、唐突に一人の拍手が響く。

「いや、お見事、お見事。さすがは紅天女、千草の後継者だ」

場にそぐわない拍手と笑い声が沈黙する壁に吸い込まれると、英介は拍手をやめた手を顎のしたで組んだ。じっとりとした挑むような視線がマヤに向けられる。

「北島マヤ、あんたの気持ちはよく分かった。あんたが本物の女優であることも、十分にわかった。そして真澄という人間が必要なことも」

全ては終わったともとれる深いため息が部屋に響き渡る。

「大都芸能には紅天女が必要だ。これまでも、そしてこれからも……」

全てを決定付けるには、それでもう十分であった。
そういい残して、英介は静かに退室した。

英介の後を追うように、慌しく一礼しマヤが出て行くと、真澄に対する辞任請求は満場一致で否決された。

「会長っ!速水会長っ!缶ジュースのおじさんっ!」

はるか前方の車椅子が止まる。止まったけれど、振り返りしはしないその背中にマヤはさらに大きな声で訴える。

「あのっ、紅天女観に来てください。来年も再来年も、ずっと大都で上演しますから、一番いい席用意しておきますから、ずっとずっと観に来てください!!」

わずかに右手だけをあげると、車椅子は静かに動き出す。ゆっくりと、けれども穏やかに……。






「まったく君にも水城君にも、寿命を10年は縮められたよ」

「やだ困る。速水さんただでさえオジサンなんだから、10年も縮まったら困ります」

猛烈な緊張感から解き放たれたあとは、いくらでもそんな軽口がたたけた。
取締役会の終了後、水城に言われるまま、マヤは真澄を社長室にて待っていた。戻ってきた真澄はすぐに笑顔を浮かべたが、酷く焦燥しきっていたのは紛れもない事実であった。

「君には助けられたよ。ありがとう」

穏やかな声だった。その声は抑揚はなかったけれど、まるで自分の心という静かな水面に油をこぼしたときのようにさっと広がり、やがてゆっくりともとに戻った。

「疲れた?」

敬語ではないそれは、自然とマヤの口から零れ落ちる。

「疲れた」

黒い革張りのソファー、マヤが座るすぐ隣に、緊張という名の糸が引き抜かれた真澄の体がどさりと埋もれる。人差し指で無造作にネクタイを緩めると、目を瞑ったまま上を向き、数回首の骨を鳴らした。
すぐ隣にいる疲れきったその肉体の持ち主は、その疲れゆえに今、自分に気を許してくれているような気がして、ふと抑えきれないほどの愛情がマヤの中に溢れてくる。

「マッサージしてあげます」

「マッサージ?」

「手のマッサージ。私、上手いんです。結構、疲れ取れますよ」

そういって、なんでもない振りをして真澄の手を取った。冷たいと思ったその手のひらは、予想外に温かく、触れてはいけないものに触れてしまったようで心がざわついた。

「ここ、リンパが流れてるんです。痛い?」

親指と人差し指の間のくぼみを、ゆっくりと強く押すと、真澄が眉間に皺を寄せた。

「めちゃめちゃ老廃物、溜まってますよ。
さすがおじさんです」

そう言えば何か言い返されると思ったが、真澄は何も言い返さず、黙って目を瞑ったまま黒いソファーに重心を預けた姿勢で、マヤになされるがままになっていた。
今なら、何を聞いても許される気がした。

「速水さん……、結婚……しないの?」

沈黙。
臆病な小動物が、森の気配にじっと耳を澄ますような。

「しないよ」

やはり目を瞑ったまま、なんでもないふうに真澄は答えた。体中で思わず、大きな息をついてしまった。質問の答えが返ってくるまで、自分は息を止めていたことに気付く。
それ以上何か聞こうと思っても、それ以上言葉が出てこなかった。代わりに真澄が言葉を発する。

「君は……、君は幸せか?」

あまりにも多義的に捉えることになれてしまって、即答できない種類の問い。

――君は幸せか?

「この間久しぶりに黒沼監督にあったんです」

一瞬真澄が目をあけてこちらを見たが、気付かないふりをしてマヤはマッサージを続けた。何かを続けながらでなければ、上手く喋れない気がしたからだ。

「私監督に同じこと聞いたんです。私は幸せでしょうかって。自分の幸せを他人に聞くなんて、変でしょ。でも聞かずにはいられなかったの。
そしたら監督、人が幸せを感じるにはある条件があるって言って――」

マッサージを施していた手を右手から左手にそっと持ち替える。ゆっくりと指の間を広げて、強く優しく、緊張をほぐしていく。大きな手だと思う。美しく長い指だとも。

「一つ、必要とされること、二つ、役に立つこと、三つ、ほめられること」

真澄がその言葉を心の中で反芻しているのが、触れた手のひらから伝わってくる。

「女優の北島マヤは、速水さんのおかげで、大都芸能のおかげで、皆さんに必要としてもらうことができて、それからまぁ役に立てることも少しはあって、それからこうしてたまに速水さんにも褒めてもらえる。幸せだと思います」

できるだけ心を込めて言ったつもりだ。大事なことを一つ言い残したふうになんて、間違っても響かないように。

「そうか……、幸せか。
大都も君のおかげで幸せだ」

どこかお互いに含みのある小さな沈黙のかたまりが残る。

「速水さんは?」

意外な言葉に少し驚いて、真澄が目を開ける。

「速水さんは幸せ?」

「俺は……、自分の幸せなんて考えたこともない」

真澄らしいその答えは、どこか予想していた通りでもあり、そしてまた突き放されたようでもあり、マヤは曖昧にに笑う。

「ダメですよ。社長もちゃんと自分の幸せを考えてくださらないと、みんなが困っちゃいます。
気を使わないといけないじゃないですか」

それがいつもの悪ふざけの続きのように響けばいいと、祈るようにマヤは一定の強さで真澄の手に触れた。

「ありがとう、気持ちよかったよ」

とても優しい笑顔。この人は、こんなに優しい顔で穏やかに笑うことだってできるのだ。さっきの会議室の面々などは想像すらできないだろうけれど。
知っているのは自分だけだ、と思い込むことで満足しようとした。
けれども用が済んだとわかっていても、真澄の手を放すことができない。
いつまでも手を握ったまま、マヤは俯いてしまった。

どうした?
口角をわずかにあげて、表情だけで真澄がそう優しく問いただす。それでも声をあげることも、何かを表情で訴えることさえ出来なかった。

「参ったな……」

柔らかな声が俯くばかりのマヤの頭のあたりに落ちてくる。

「二人きりしかいないこんな場所で、いつまでもこんなふうに大人の男が手を握られていたら、おかしなことになるぞ」

オカシナコト――

その言葉に意識を持ち上げられたように、マヤはふと顔をあげる。

目が合う。
逸らしようがないほどにハッキリと、しっかりと。

「おかしなこと?」

熱に浮かされたようなふわふわとした声で、真澄がたった今放った言葉を繰り返す。
真澄の表情から笑みが消える。マヤに握られたままの左手とは逆の手が伸び、指先でそっとマヤの頬にあたる髪を耳にかける。
先ほどまで自分触れていた手のひらが柔らかく、自らの頬を包む。親指がゆっくりと頬の輪郭を確かめる。

――疲れていたから
――あんな会議の後で高揚していたから
――いつまでも自分がいたずらにに手を放さなかったから

あとでどれだけ言い訳と後悔が押し寄せてきても構わないからと、マヤはゆっくりと目を瞑る。
ただその瞬間、刹那的に触れて欲しかったからというその感情に降伏するように目を瞑る。

静かに重なる唇。
思った以上に真澄の唇は柔らかく、温かく、そして優しさに満ち溢れているようなキスだった。


必要とされること
役に立つこと
ほめられること

そして
愛されること


四つ目は言わなかった。

言えなかった。








6.06.2009





…to be continued









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