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第4話 |
賭けのようなものだった。 博打のような賭けというよりも、勝算を見込んだ賭け。 最上階の社長室の窓辺に立つと、東京の欠片が眼下に沈む。 あそこでマヤが入ってくることは、もちろん想定の範囲外ではあったが、紅天女や北島マヤという大都にとって不可欠と思われる切り札を相応しいタイミングで出しさえすれば、勝負には勝つ見込みがあると思っていた。 そういう意味ではこの結果は想定内のものだった。 想定外だったのは――。 つい数分前までそこにあったぬくもりを思い出す。 触れた唇の感触を思い出す。 「すまない、どうかしてた……」 真澄のその言葉に、信じられないという表情で見上げるマヤ。確かに信じがたいことをした。してしまった。 あんな会議のあとで気が高揚していたからと言って、だからと言って物事には順序がある。何もかも中途半端なこの状態で、無抵抗と思われたマヤに対してこのような行動に出た自分自身を持て余す。 いったい何をやっているんだ。 ただあの瞬間は、何も他のことが考えられなかっただけだ。引力が引き寄せる力に導かれるように、そうしてしまったまでだ。 上手くその状況や自分の気持ちを説明できるとも思えなかったが、本当に何も言わないでいるわけにもいかなかった。 「チビちゃん――」 「いいです。何も言わなくていいです。そこまで子供じゃありません」 再び伸びかけた指を遮る、抑揚のない冷えた声。 「おかしなこと……。これはおかしなことなんでしょ?」 絶句する。それは確かに数分前に自分が口にした言葉だというのに。 「これはなんのキス?なんて聞いたりしないから、安心してください。そんな顔しないでください」 そんな顔といわれても、どんな顔だというのだ。マヤの言葉が逆に信じられず、真澄は自らの表情のコントロールさえ忘れる。 「でも、気まずいのは嫌だから……、こんなことで社長さんと気まずくなるのは嫌だから、”感謝のキス”ってことにしておきませんか?」 「感謝のキス?」 次から次へとマヤの口からは、真澄の想定外の言葉がでてくる。 「私が速水さんの窮地を救ってあげたことへの感謝のキス」 そう言ってマヤはにっこりと笑った。あの冷えた声は、その笑顔の向こうにすでに吸い込まれてしまっていた。 それと同時に真澄が言うべきはずだった言葉も、同じように異次元へと音もなく吸い込まれていった。 何もかもが想定外だった……。 社長室のドアを閉めると、最初はなんでもないふうにゆっくりと歩いた。できるだけ普通に。普通に見えるように。 段々と早足になり、終いにはもつれるように駆けだす。真澄が追ってくるなどあるわけないのだから、走る必要などどこにもないと言い聞かせてみても、走り始めた体は止まらない。 大人はきっとそういうキスをするのだ。 その場の勢いとか、 なんとなくとか、 気持ちが高揚していたからとか、 そんな理由で、そんな理由だけで。 あの真澄に対して、そこに深い意味を求める自分は愚かで、とんでもなくバカバカしい。 息が切れ始める。 キスをして欲しいと思ったのは自分だ。だから目を閉じた。何でもひき受けると思って目を閉じたけれど、何にも知らなかったからこそ自分はそんなことが出来たのだ。 本当に愛する人の唇に触れるということの痛みなど、愛してやまない人間からのキスの破壊力など、何も知らない子供だったから、 簡単に、 無防備に、 触れてしまった。 愛されることを求めるあまりに、とんでもないことをしてしまったという後悔ばかりが、内蔵を掻きまわす。 脳裏で4枚目のクローバーの葉がちぎれて飛んでいった。 その時、長い廊下の角を勢いよく曲った瞬間、何かに思いきりぶつかった。 「なにやってんだ北島っ!こんなところで100メートル走かっ?!」 マヤをよけようとして壁面に強く強打した鼻をさすりながら怒鳴る声の主は、そもそも幸せの条件を持ち出したその張本人だった。 「監督、4つ目は難しいです」 大都芸能での用事を終えた黒沼に連れられ、二人は近くのオシャレさなど微塵もない喫茶店に入る。向かい合った席でマヤはポツリと呟いた。 「4つ目?なんの話だ」 怒っているわけではないが、声が大きいのはいつものことだ。逆にマヤの声は消え入らんばかりに、どんどんと沈んでいく。 「監督の言ってた幸せの条件。必要とされること、役に立つこと、ほめられること、って3つ目までは頑張ればいけたけど、やっぱり4つ目は無理……」 「愛されること、か」 目の前にいる演技の勘は天才的だが、色恋沙汰ともなれば恐ろしいほどに消極的で否定的なこの愛すべき出来の悪い娘のような存在を、黒沼はもうかれこれ数年見守ってきた。 そしてマヤが愛されることを望んでいるのが、観客ではなくある一人の特定の人物であることも、もう随分前から黒沼は知っていた。 それが大事なことを言う時のくせであるように、黒沼はタバコの吸いさしを灰皿に押し付けると、体内に残っていた最後の紫煙を吐きだした。 「北島、なんでおまえさんが女優としてここまで観客に愛されているのかわかるか?」 マヤの答えがないのを確かめると、黒沼はあっさりと言葉を繋ぐ。 「簡単だ。おまえが芝居を愛しているからだ」 あまりにストレートでシンプルな響きを持ったそれは、マヤの心にすとんと落ちてきた。正しく積み木がケースに収められたように。 「おまえがどれだけ芝居を愛しているか、それが芝居を通じて痛いほどに伝わってくるから、観客もまたおまえを愛さずにはいられないんだ」 何かを言おうとしたが、何も言葉にならなかった。 それは黒沼に対してというよりも、自分自身に対して。 「愛されることを求めるな。まずは愛すること。それこそ体中が痛くなるぐらい、痒くなるぐらい、相手を愛してみろ。 話はそれからだ」 何かが波のように押し寄せて、自分の体を音もなく洗って、そしてまた静かに去っていった。 心に残る醜い欠片の全てを持ち去り、そしてあるべきものだけをそこへ残したかのように。 あとは自然と笑みがこぼれる。 「痒くなるぐらいって、監督――」 「うるさい、物の例えだ」 クスクスと小さく笑い、終いには声をあげて笑 う。 「監督、ありがとうございます。私、ほんとに出来が悪くてすみません」 「もう慣れた」 父親という存在を持たない自分にとって、その温かみというのは想像することでしか手に入れることのできない種類の感情であったが、もしかしたらこの少しの恥ずかしさと、深い温かみが奇妙に同居したこの感情こそが、それにとても近いものなのかもしれないと、心の奥底でマヤはそっと思う。 「それからな、愛していると叫ぶことや自分の気持ちを押し付けたり、見返りを求めるだけが愛じゃない。そいつのためを思って、そいつの事を考えて、ふさわしい立場で力になったり、支えたりするのも愛の形だ。わかりやすい愛の形ばかりに惑わされるな」 心の中まですっかり覗かれてしまったようだ。 「すでに惑わされまくりでした」 降参するようにマヤは穏やかに苦笑する。 「間違った方向に暴走して、キスまで無理にしてもらったけど、ぜんぜんダメでした」 相手が誰だか、黒沼に知られているとは夢にも思わないマヤの口から飛び出した キスなどという予想外の言葉に、黒沼はコーヒーを一瞬喉に詰まらせ、慌てて咳ばらいをした。 「監督、ほんとにありがとうございます」 何度でもそう言えた。 「はい、初日の稽古はここまで。お疲れ様でしたー!」 あしながおじさんの初舞台稽古。演出家の声で、役者が散っていく。 ストレッチをしながら調整しているふりをしてマヤは一人舞台の上に残る。 一人きりで舞台にいるのは好きだった。孤独だけれども、自分の世界の端と端を手触りで確かめられるその空間は、どこか落ち着く。 台詞のいくつかを確かめる。声の響きを確かめる。 「ねぇ、私のあしながおじさん、私あなたに会えるなんて夢みたい!私――」 台詞のままに、大きく腕を広げて振り向くと、思いもよらない存在にマヤは不用意な叫び声をあげる。 「は、速水さんっ!なんでこんなところにっ!!」 「近くまで来たから寄ってみた。いよいよだな、大事な舞台だ。頼んだぞ」 取り乱す自分とは対照的に、真澄のそれはとても落ち着いた声で、そしてそれは嫌でも数週間前のあの日のキスを思い出させた。 「偵察ですか?心配は無用です。ちゃんと気合いいれてやってます」 少しひねくれた声を出すのは得意だ。一番居心地がいいかもしれない距離の取り方だから。 「それは結構」 ゆっくりと歩きながら舞台へと近づくと、真澄は最前列の席へと腰かけた。その静かな動作が少し意外に思え、マヤは首をかしげる。 「速水さん、何かあったの?」 「いや、これからある」 「……大事な会議とか?」 「まぁ、そんなようなものだ」 再びの沈黙。横たわった沈黙がゆっくりと二人の体内へと戻っていくまでの間ができる。 「怖い?」 また敬語でないそれは、さらりと唇から自然にこぼれおちた。 「怖くはないが、それなりの気合がいる」 「気合?」 真澄らしくない言葉を聞いた気がして、マヤは聞き返す。 「あとはツキと運だな。だから君に会いにきた」 ――キミニアイニキタ。 不覚にもときめいてしまった。自分は間違いなく、その言葉にときめいてしまった。ときめいてしまったから、そう言わずにはいられなかった。 「じゃぁこれあげます」 取り出したのは、あの日拾ったクローバー。押し花として完成したあとは、秘密のお守りとしていつも持ち歩いていた。 「私のお守りだけど、しょうがない。あげます」 「効くのか?」 わざとからかいながらその空気のように軽い存在を、真澄は手のひらに受け止める。 「めちゃめちゃ効きます。マジで」 「ありがとう」 そう言って真澄がくしゃりと小さな頭を撫でた。 あの気まずいキスが遠くなった。 これでいい、これでいいのだ。 女優には女優なりの相応しい距離がある。 相応しい愛し方がある。 それはきっとこれぐらい。 「あしながおじさんか……」 それはなんでもない真澄のひとことのはずだった。だから自分もできるだけなんでもないふうに返す。 「いいお話ですよね。夢がある。子供に観てもらうにはほんとにぴったりのお話」 「そうだな」 大丈夫、普通の会話だ。そう確認する。 「速水さんは足が長いおじさんですね」 「なんだそれはっ!」 「足だけじゃなくて顔も長いし」 「!!!!」 いくらでもふざけたことは言えた。こんなふうに真澄が笑ったり、怒ったり、自然でいられることはきっと特別なことなんだと、それだけで愛おしさが場違いに膨れ上がっていく。 こんなに楽しいのに、こんなに近くにいるのに、自分たちには決定的な何かが足りない。 あしながおじさんのようなハッピーエンドにはなりえない、何かが……。 「どうして――」 ふざけた笑い声の合間に落ちてきたその声は、あまりに前のそれとつながりを持たない唐突さで響く。 口角を少しだけあげて、いつものように真澄がどうした?と表情だけで問いただす。 「どうして速水さんは言ってくれないの?」 急に動きを止めて、訝しげにこちらを見つめる真澄。どこかでもう一人の自分がやめろと叫ぶ。けれどもそれは脳裏の端にしか響かないほどの声で。 「なんであしながおじさんみたいに、本当のことを言ってくれないの?」 真澄が息を止めたのが分かる。それ以上は絶対に言ってはいけないと、その先へ行ってもいけないと、止める自分の声は聞こえているはずなのに、体が言うことをきかない。 「どうしてあしながおじさんみたいに、本当の姿を見せてくれないの?」 大切にしてきたはずの何かが脳裏で壊れていく。砂の城のようにあっけなく。 6.09.2009 |
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