第1話



 その日は大都に仕事で呼び出されていた。

 簡単なインタビューだった。今度の舞台についての記事だが、同じような取材を受け過ぎて、どこの媒体なのか、いつ掲載されるものなのかもマヤには全く分 からない。教えては貰ったはずだがそもそも覚えていられない。芝居の事以外はとことん無頓着な自分は、興味のない事は片っ端から忘れていく仕様になってい る。何度か怒られたが、もう仕方ないと周りも諦めたようだ。
 
 そんなふうに演じる事だけに集中させてくれるこの環境というのも、間違いなく社長である真澄の采配によるものなのだと、それとなく水城にも諭され、それ は何となくは理解している。理解しているし、感謝もしている。
 
 ゆえにこの後起こるような事態は当然と言えば当然なのかもしれない。社長権限という意味において。

 そう、真澄はとんでもなく強引なのだ。加えて言えば、唐突でもある。

 インタビュー終了後、突然部屋に入って来た真澄は挨拶もせずに

「行くぞ」

と、そう一言言い放ち、マヤのバッグをまるで人質のように奪うと、スタスタと一人で部屋を出て行ってしまった。慌てて後を転びそうになりながら追いかけ、 やれ

「バッグを返せ」
「誘拐魔」
「泥棒」

などと思いつく限りの悪態をついてはみたが、真澄は軽々と肩の上にマヤのハンドバッグを掲げると、振り返りもせずに涼しい顔で廊下を颯爽と歩いて行く。周 りの人間はあっけに取られて眺めているが、モーゼのように道を空けるばかりで誰も止める者もおらず、そうやってマヤはハンドバッグごと社外へと連れ出され た。

 そこから先はあっという間だ。会社の外に停まっていた黒塗りの社用車に押し込まれると、

「そんなに大事なものが入っているのか? 確かに大きさの割には随分重いな」

などとペットボトル二本を始めとした、やたらと余計な物がごちゃごちゃと入ったバッグに対してとぼけたような嫌味を言われ、膝の上に片手で返された。

 後部座席の隣に座り、持て余すように組んだ長い脚にさえ腹が立つのは致し方ない。この人のこの余裕ある態度に、小娘の自分は振り回されてばかりいるのだ から。

「何なんですか、いったい──」

「普通に誘っても君は付いて来ない。だから実力行使に出た。昔のように担ぎ上げられなかっただけ感謝しろ」

 はるか昔にそう言えばこの人には何度も担ぎ上げられた事がある。懐かしさと恥ずかしさで、瞬時に顔がカッと熱くなる。

「別に今だって担ぎ上げられたっていいですけど」

「ほう……」

「叫びますからっ! 人でなし! とか ろくでなし! とか。あの時よりも大声でっ!」

 堪えかねたように、真澄は左手の人差し指を鼻筋に沿わせると吹き出した。

「相変わらず威勢がいいな、チビちゃん」

「もうチビじゃないんで、その呼び方やめて下さいって何度も言ってますよね。これからチビちゃん、て呼ばれても返事しませんからっ!」

 そう言ってマヤはプイと窓の向こうに顔を向けた。そこから先は真澄が何を言っても、わざと語尾に「チビちゃん」を付けるので本当に無視を決め込んだ。

「そういえば黒沼さんの次の舞台、君も主演候補に上がってるぞ、チビちゃん」
「亜弓さんが、来月帰国するそうだ。ささやかな食事会の予定がある、君も来るか、チビちゃん」
「月影先生の容態はとっくに安定しているが、向こうの空気があっているらしくしばらくは向こうにいるそうだ、チビちゃん」

 まるで、無視出来ないような話題をわざと振ってはこちらの気を引こうとした上で、御丁寧に語尾に「チビちゃん」をつけるゲームを楽しむかのように。苦虫 を潰したような酷い顔が車窓に反射して真澄に丸見えになっている事にマヤは気付いていない。
 それでも話題につられず、必死に無視をし続けたマヤに対して真澄はついに大声で笑い出して降参する。

「悪かった、悪かった。君の気持ちはよく分かった。これからはマヤと呼ぶ、それでいいな」

 そう言って、美しい指先がまるでこちらの機嫌を伺うように、マヤの横顔の髪に触れる。

「マヤ……」

 もう一度そう呼ばれる。まるで恋人を呼ぶような、そんな優しい声を出すなんて反則だと、マヤは内心毒突く。
 真澄の指先がそっと顎に触れ、そっぽを向いていた顔を真澄のほうに向かせる。

「いい加減機嫌を直してくれ。君を見ているとついからかいたくなるんだ。俺の悪い癖だな」

「……あたしで遊ばないで下さいっ! だいたい何なんですかっ、ついからかいたくなるって。好きな子をいじめちゃう小学生じゃないんだから──」

「あれは男の定番だ。幾つになっても男は変わらない」

 遮るように真澄にそう言われ、マヤは怪訝そうに眉間に皺を寄せる。

「好きな子を男はからかっていじめてしまう。永遠の愛情表現だ」

「なっ、なっ、なっ、何言ってるんですかっ! 調子いいこと言わないで下さいっ! 大体いい大人が小学生のフリしたからって許されないですからね」

「俺としては君に合わせたつもりだったんだがな。そこまで言うなら、今すぐ大人扱いしてもいいんだな」

「え?」

 からかわれていたと思ったら、突然、違和感の小石を投げ込まれたような衝撃にマヤは驚いて息を呑む。

「大人だったら食事ぐらい付き合えるだろ」

「は? 食事って──」

 後はマヤが何を言っても一切相手にされなかった。

「まるであたしが暇だと決め込んでますけどね、あたしにだって用ぐらいありますっ」

「今夜無いのは知っている。君の隣にいるのは君の事務所の社長だ」

 そう一言で言い返される。悔しいが当たっているので何も言い返せない。

「だ、だいたい食事なんて聞いてないですっ」

 不意の誘いに対して抗議の声をあげても、

「いいじゃないか。さっきからそこで鳴っているのは俺の空耳でなければ君の腹だ。俺と食べなくたってどうせ君はこれから何か食べる。だったら一緒に食事す れば合理的だ」

そう言い返される。確かにお腹は空いている。というか常時空いている。食べる事には全く問題ない。胃袋は完全にウェルカム体制に入っている。
 問題は食事ではなく、

 ──真澄と食事に行く

 ということだ。今日は稽古終わりに事務所に寄ったので、本当にどうでもいい適当な格好をしている。久しぶりにラーメンでも食べて帰ろうと思っていたの で、胃袋も格好も完全にラーメン屋仕様だ。心も体も、あの真澄と食事をするなどという準備は全く出来ていない。
 大都芸能の社長ともあろう速水真澄がラーメン屋に行くとは思えなかったし、おそらく自分には敷居の高過ぎる高級なんとか料理の店に決まっている。そう思 えば、この突然の事態に対して抗議の声の一つや二つ、上げたくなるのは当然だ。

 食事だったらもっとちゃんとしたかった。
 こんなボサボサの髪の毛の状態じゃなくて、服だっていくらかマシな格好の時で、バッグにペットボトルを二本も入れているような日じゃなくて。

 それでもこんな言い訳や言い草は無駄だと自分は分かっている。恐らくどれだけ抗議したところで、自分がこの人には逆らえないのはもう決まり切っている事 なのだ。それは事務所の社長という絶対的権力に対してという意味ではなく(それだけだったら自分は断れる自信がある)、この人に誘われたら絶対に自分は断 れないからだ。

 怒ったふりをして、嫌々のふりをして、散々文句を言って、それでも自分はついて行ってしまう。隠したつもりのしっぽが、散歩を待ちわびた子犬のように揺 れているかもしれない。

 悪態をついたり、反抗したり、馬鹿な事を言う事で隠してきた恋心。
 この不毛な恋に気付いてから、もうすぐ二年になろうとしている……。













 案の定、とんでもなくハイクラスなフレンチレストランに連れ込まれた。個室だったのがせめてもの救いだ。明らかにこの店に対して自分は浮いているが、そ れを誰かに咎められる事はなさそうだ。

「堂々としていればいい。君は君だ。紅天女にまでなったんだ。もう少し自信を持って、女優然としていたらどうだ」

 おそらく落ち着かない様子のマヤの心の内側を読んだのか、真澄がそんな事を言う。

「……そんなの分かりません。女優然、とか言われても出来ません。ていうか……、速水さんは恥ずかしくないんですか? こんな私なんかが相手で」

 思っていた事をそのまま口にする。こんな場所にちんちくりんの女優を連れて来る真澄の意図が本当に分からない。

「まぁ……、君の場合はその変わらない所が君の良さでもあるからな。そのままの君で居てくれれば俺はいい」

 そう言って、真澄はグラスの端に唇を寄せた。
 少し目を伏せると、長い睫毛がその端正な顔に影を作る。見惚れる程に美しい。所属のどの俳優やタレントよりも美しい社長なんて、本当に罪だとつくづくマ ヤは思う。
 真澄が誘えばきっと誰でも喜んで相手をするだろう。女優もモデルもタレントも、選り取りみどりで、こんな自分よりもよっぽど絵になる相応しい相手がいる はずだ。現に婚約破棄後の真澄は、めちゃめちゃモテると聞いている。断るにも骨が折れると、いつもその手の誘いの後始末をしているらしい水城がひとりごちてい た。
 詳細は勿論知らないが、一体どれだけモテているのかマヤには想像もつかない。だが、地位も財力も権力もあるイケメンがモテない理由がない。それだけは、 疎い自分にもさすがに分かる。分からないのは、なぜそんな人が自分を誘うのか。本当に意味が分からない。しかもこんな嫌々、可愛くない文句ばかりを言う自 分を……。

「どんな裏があるのかな、とか正直思っちゃいます」

 美しい前菜のプレートを前に、手をつけるのをためらうようにマヤは呟く。この美しいフレンチのフルコースの裏にはどんな毒が盛られているのか疑うかのよ うに。

「裏? 何を疑っている」

「だって……、何であたしなんかわざわざ連れて、こんな高級フレンチとか……。しかも文句ばっかり言ってめんどくさい、こんなちんちくりんの女優なんかと ──」

 どこまでも後ろ向きな言葉がズルズルと延々出て来そうで、せっかくの美味しい食事を前に何を言っているのか、更に自分の言葉に打ちのめされていると予想 外の言葉がマヤを遮る。

「自分の誕生日ぐらい、美味しいものをこうしてゆっくり味わって食べてもバチはあたらないだろ」

「誕生日?」

 あまりにも想定外のその言葉に、マヤはナイフとフォークを握り締めたまま、大きく目を見開く。

「オレにも誕生日くらいあるぞ」

 驚きのあまり頭が真っ白になる。まさか今日が真澄の誕生日だなんて思いもしなかった。

「えっと……、み、水城さんとか呼びましょうか? みんなでお祝いしなくちゃ──」

 慌ててそう叫んで携帯を手に取る為、席を立とうとすると、

「いいから──」

そう言って、テーブルの上の手を上から押えられ、たしなめられる。取り乱した自分の様子に、真澄は苦笑して頭を振っていた。

「すみません、何もプレゼントとかなくて」

「いらない。この食事に付き合ってくれれば、それでいい。君が美味しそうに食べている姿を見ているだけで充分だ」

 そう言って、この上ない穏やかな表情で微笑まれる。その言葉にはどこにも嘘がないように思えた。安心して、マヤは前菜のプレートにナイフを入れる。断面 が何層もの複雑な層を成すフォアグラのテリーヌに切れ目を入れるのは、どこか罪な事にすら思える。こんなに美しく美味しいものを壊してしまうなんて──。
 そうして最初の一口を口に運ぶと、至福の味が口内に広がり、えも言われぬ味わいと多幸感に包まれ、マヤはうっとりと目を瞑る。

「君は本当に美味しそうに何でも食べるな」

 目の前の真澄が満足げに笑う。

「美味しいもの大好きですから」

 満面の笑みでマヤはそう答える。真澄が自分を食事の相手に選んだ理由が少しだけ分かった気がした。自分は確かに何でも美味しく食べる。好き嫌いもない し、食べる事も大好きだ。最近の女の子はあまり量を食べられないそうだが、自分は幾らでも食べられる。奢ったところで張り合いのない小食のモデルよりも、 何でも食べてしまう大食い女優のほうが楽しいのかもしれない。そんな事が頭をよぎる。外れてはいない気がする。

「そうだな……、でも誰にでもついて行くな」

「え?」

 想定外の言葉にマヤは驚く。真澄以外で大食い女優を食事に誘う趣味の人間がいるとはそうそう思えなかった。

「これからそういう誘いも増える。男はみんな下心だらけだ」

 真澄の言わんとする事の意味を理解するのに数秒掛かった。大食いがどうとかという自分の思考がズレている事に気付くのにも。

「速水さんも?」

 しばらく考えて、そう口にする。

「何がだ?」

「だから、下心……、あるんですか? この食事に下心があるのかって聞いているんです」

 ワインがまわり始めた口は、幾らでもそんな事を口にする。食べ慣れないフォアグラの甘美さと芳醇なワインの誘惑の効果が表れたかのように。

「俺は……、あるわけないだろうが。社長が所属の女優にそんな事を仕掛ければ、訴えられる時代だぞ」

「残念……、口説いてくれたら、全力で拒否出来るのか、自分の力を試してみたかったです。あたし、男の人に本気で口説かれた事とか、お誘い受けた事とかま だないんで」

 ワインで緩んだ唇は、そんな言葉すら滑らせる。

「面白そうだな、試してみるか?」

「え?」

 禁断の果実を口にしたのは自分だけではなかったのか、真澄までおかしな事を言い始める。

「今晩、俺は君を全力で口説く。君は全力で抵抗する。君が俺の誘いを振り切って家まで無事に辿り着いたら君の勝ちだ。逆に君を俺の家まで連れ帰ったら、俺 の勝ちだ」

 ワインの余韻では済まされない誘惑がマヤを包む。
 目の前の真澄の様子は本気だ。そもそも誘って欲しいなどと馬鹿な事を言い出したのは自分だが。まるでワインが引き起こした螺旋の波に飲み込まれるよう に、 マヤの頭の芯がぐらりと揺れる。

「どうする? 誕生日の余興だと思って付き合ってくれたら、楽しい夜になるな。どうだ、やってみるか?」

 まるで簡単なゲームの誘いでもするかのように、真澄は笑う。

「勝ったら何かいいことあるんですか?」

 緊張と驚きのあまり、語尾が掠れた。

「そうだな……、何でも君の言う事を一つ聞いてやる」

「なんでも?」

「ああ、なんでもだ」

 そんな事を言われたら、逆に何も思いつかなさそうだとマヤは内心、苦笑する。

「速水さんが勝ったら?」

 しばしの沈黙。真澄がゆっくりとワイングラスを一度傾けると、赤く染まった液体がその喉元を通過していく。

「俺が勝ったら……、今夜、君を俺の好きなようにする」

 ワイングラスをテーブルに置いた真澄の指先が、そっとマヤの手の甲をなぞる。

「……それ、もう口説いてるんですか?」

「そうだ、よく分かったな」

 そう言って真澄は、声をあげて笑った。その笑い声に乗じて、

「面白い冗談でした」

などと言って笑い飛ばして終わりにする事も出来た。現に真澄はその道を用意したふうにさえ見えた。冗談にして引き返せる道は確かにあった。この瞬間までは ──。

「や……ります……」

 けれどもマヤはそうではない道を選ぶ。今来た道をただ戻るだけの、よく知る道ではなく、この夜の暗闇の向こうへと真っ直ぐに伸びて行く道を。
 不思議と怖い思いはなかった。


 自分には好きな人がいる。
 もうずっと好きだ。
 けれどもどうにも素直になれないまま、報われないまま二年が過ぎた。

 その人が今目の前にいる。
 今夜が誕生日だと言う。
 その人が今夜、こんな自分を口説いてくれるという。


 きっとそれは今夜だけの魔法だ。あとになって、跡形もなく消えてしまう、星と月の輝きだけで見る事の出来る夜の魔法。それはきっと今宵一度きりの魔法 で、二度と手に入れることも、もう一度そんな巡り合わせを願う事も出来ないのだと、それだけは分かる。

「私の事、口説いて下さい」

 そうはっきりと口にした。

「意外だな。まさかのってくるとは思わなかった」

「速水さん、いつもあたしのこと、子供だ、子供だってバカにしますけど、経験ないから子供なんです。しょうがないじゃないですか。だから経験値積みたいで す」

 精一杯の背伸びをしてそう挑むマヤに対して、真澄は応じるようにグラスを合わせる。

「楽しい夜になりそうだ」

 甘く低い声が、一夜限りの魔法のひと時の始まりを告げた……。









2018.11.3







…to be continued















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