第2話

「ところで君の今の恋愛事情はどうなってる? 付き合っている奴はいるのか?」

 前菜のプレートが下げられたタイミングで、真澄はまるで明日の天気の話でもするような調子で話題にした。答に本当に興味がある訳でもないが、とりあえず 聞いておく、そんなふうにさえ感じられた。

「いないって知っているくせに……」

 幾分、不機嫌を滲ませた声でマヤは答える。大都芸能に所属してまだ一年弱。自分はテレビタレントではなく舞台女優とは言え、最近はテレビドラマにも出演 している。二十五歳になるまではスキャンダルは極力控えるよう、マネージャーからも言われている。交友関係についてはすでに白状させられ、そして何もない 事も確認済みで、それは真澄にも筒抜けのはずだった。

「部下の報告はあてにならない。最近の若い奴は事務所に隠して平気で付き合う。そのくせSNSなどで勝手にバラして、とんでもない事になる」

「心配しなくて大丈夫です。顔に全部出るんで、隠して付き合うとかあたしには無理ですし、SNSも使い方分からないのでやりません」

 マヤは開き直ったようにそう言うと、メインの黒毛和牛にフィレステーキを一切れ突き刺し、ガブリと頬張る。ムシャムシャと咀嚼する様子に真澄が笑う。ま るで子供にする質問ではなかったな、とでも言うように。

「あ、でも好きな人ぐらいはいますよ」

 空になったフォークを思わず天井に向けて、そう宣言する。おまえに彼氏なんか居る訳がない、と言われたようであまりに悔しく、つい負け惜しみでそんな事 を言った。
 真澄の眉間がピクリと僅かに神経質に動いた。自分の投げた小さな小石が命中したのかと思うと、少しだけ気味が良かった。

「俳優か? 今度のドラマの共演者か? それとも──」

「秘密です。言う訳ないじゃないですか。でも、誰にも言った事ないし、言うつもりもないので安心してください。バレませんから。いくらスキャンダルにうる さい社長さんだって、心の中で誰かを好きな事までは制限できませんよね?」
 
 真澄は何かを言いかけたが、不服そうに諦めた様子で両手を天井に向けるジェスチャーをしたかと思うと、言葉の代わりにため息を一つ吐いた。

「まぁ……、別に君に男の一人や二人居たとしても、俺は気にせず奪うだけだから関係ないな」

 その言葉にあっけに取られて、マヤはまじまじと真澄の顔を見る。芝居以外でこういう台詞を聞いたのは生まれて初めてで、こんなことを実際に口に出す人が この世にいるとも思わなかった。

「……凄いですね。速水さんみたいな人にそんな事言われたら、確かに女の子ならフワってなりますね。私はゾワってなりましたけど」

 そう言ってマヤは無意識に己の両の二の腕の辺りを抱き抱える。寒くもないのに鳥肌が立ったようだ。
 内心、この調子なら大丈夫だとも思った。こんなふうに真澄に口説かれても、とてもじゃないが本気に取れない。真澄ほどの男が自分ごときを相手に、本気で こんな事を言う訳がないと、即座に脳が受け止める事を拒否する。

 大丈夫、絶対に大丈夫──。

 まるであてにならない呪文のように、そんな言葉が脳裏のどこかで響いた。

「まだまだ余裕な様子だな。だがそんな態度で居られるのも今のうちだ。俺は負けるゲームはしない主義だ。君は俺には絶対に勝てない」

 今度はその眼光の鋭さに射られ、本当にゾクリと体の芯が震えた。サバンナの肉食動物の前に放り出された小動物は、こんな気持ちになるのだろうか。
 
「ということは……、君は好きな男がいるにも関わらず、俺の誘いに乗ったという訳か」

 頓珍漢なその言い草にマヤはカチンときて、瞬時に言い返す。

「勝手に連れて来ておいて何言ってるんですかっ!」

「口説いて欲しいと誘ったのは君のほうだ」

 つい今しがたの会話を脳裏でマヤは思い出すと、それはそういう事になるのかと考える。確かに自分が口説いて欲しいと言ったのは事実だが、そもそもこんな 場所に自分を連れて来て、口説き落とせるか逃げ切れるかのゲームをしようなどという提案を最初にしたのは真澄の方だ。

「提案したのは速水さんです。言い出しっぺのほうが絶対悪いです」

 そう言って、ツンとすると真澄が笑い出す。この人は何だか分からないが、やたらと自分の話に大声で笑う。何が面白いのかはマヤには勿論さっぱり分からな い。

「そうだな、その通りだ。俺が悪かった。だが覚えておくといい、いつだって男はそうやって狡猾に罠を張るものだ。赤ずきんちゃん気をつけて、というように ね」

「ご心配なく、私には速水さんにはない演技力って武器がありますからね、これで対抗しますから。そもそもこの話に乗ったのだって、好きな人に本当に口説か れた時の為の練習ですから」

 そう言ってワイングラスに残っていたワインを一気に飲み干す。飲まないとやってられない心境にすでになっているのはいささか不安だが、上がり始めたペー スを止める術すらマヤは知らない。

「練習……。そんな事を言って、本当に俺に口説き落とされたらどうするんだ」

「絶対逃げ切ってみせますからご心配なく」

 マヤはそう言って、今度はニッコリと笑ってみせた。
 そうだ、自分には演技力がある。いや、あるはずだ。舞台の上でしか使ったことがないので、こんな場所で、しかも真澄相手に通用するのか不安はあるが、真 澄の事が好きなどとおくびにも出さずに今夜はやり通さなければいけない。どんなふうに口説かれようとも、どんな甘い台詞を吐かれようとも、ウットリしては 絶対にいけない。せいぜい後で思い出しては赤面する程度の思い出として残すつもりだ。

 大丈夫だ、自分には演技力が──。

 全くあてにならない呪文を胸の中でもう一度マヤは呟くと、真澄のほうを向く。

「そういう速水さんはどうなんですか? 破談の件は……、残念でしたけど、それ以降めちゃめちゃモテてるって、もっぱらの噂ですよ。一晩だけでもいいから 相手をして欲しい美女が列を成してるって──」

「誰だ、そんないい加減な噂を流しているのは」

「大方そうやって速水さんに迫ってフラれたお相手じゃないんですか?」

 なぜそんな事まで知っているとでもいうような憮然とした表情で真澄に睨まれ、マヤは慌てて付け加える。

「……って水城さんが言ってました。はい、えっと……あの……、モテる社長さんの秘書さんは大変ですねぇ」

 白々しくそう言うと、呆れたようにため息を吐かれた。

「彼女たちの目的はハッキリしている。権力に取り入って、欲しいものを手に入れる、とても明確だ。欲しい仕事だったり、チャンスだったり、あるいはスト レートに金だったり。俺自身に興味がある訳ではないだろ」
 
「そ……そんな事ないですよ。速水さん、カッコいいし、大人だし、普通の女の子なら憧れます」

 それは本心だったが、どこか白々しく響いてしまった。演技力を必要としない本心こそ嘘っぽく響いてしまうのはどういう事だろう。

「普通の女の子なら……ね。まるで自分はそうじゃないとでも言うような口ぶりだな」

「そうじゃなくて……、あたしが速水さんを好きになるとしたら、そういうところじゃないから。権力とかお金とか……、興味ないの知ってますよね? でも普 通の女の子がそういうのに憧れるのは、何となく分かります」

 真澄が少し驚いた表情でこちらを見ている。

「な、なんか変な事言いましたか? あたし──」

「いや……、君の言う通りだと思ったのと、仮定の話でも君が俺の事を好きになる事を想定してくれたのが嬉しくてね」

「ま、まだ好きとか言ってないですよ? 好きになるとしたら、って話ですよ!」

 慌ててそう取り乱したが、真澄は嬉しそうに笑っている。その笑顔は反則だとマヤは思う。もっと狡猾に、蜘蛛の巣に絡めとられるように、じわじわと口説か れていく手管を勝手に想像していた。
 自分と居る事で、本当に楽しそうに笑う姿など想定外もいいところだ。

「どうしたら俺を好きになる?」

 そんな事をどストレートに、ずっと好きだった人に言われ、狼狽えずにいられる人間がいるのだろうか。今にもこれが真澄が仕掛けたゲームだった事を忘れて 飛び込んでしまいそうになる。

「そ、そんなの自分で考えて下さい! それを考えるのが今日の速水さんの役割でしょ?」

 そうだった、と真澄はまたそこで大きな声で笑った。

 そうして真澄はとても美味しそうに食事を口にし、そしてとても楽しそうにワインを飲んだ。
 その様子から、真澄が自分に対して気を許している気がして、今ならどんな事を聞いたとしても、この夜の魔法のせいにして許されるのではふと思う。お酒の せいかもしれないし、レストランの個室というこの密室空間のせいかもしれない。あるいはこの口説き落とすまでというふざけたゲームのせいかもしれないが、 もう少しだけ真澄の気持ちの輪郭に触れてみたいとマヤは思う。

「じゃぁ、速水さんはモテてもあんまり幸せじゃないんですね」

 グラスを口元へと運ぶ真澄の手が止まる。

「……信用出来ないんだ。人の好意には裏があると、徹底してそう教え込まれた。人の上に立つ人間の鉄則だと」

 そう言って真澄はどこか遠くへと視線を向ける。ここではないどこかに置き忘れてきた、遠い昔の残像を探すかのように。

「女だって道具に過ぎないと言われてきた。女優やタレントも商品にしか見えない。心が動く事など一度もなかった。幼い頃から徹底してそう教え込まれたから な」

 確かに昔から真澄がそう豪語していたという話は聞いた。

「外見が奇麗なだけの女ならいくらでも知っている。でもそれで満たされる事など一度もなかった。だが、君といると面白い。作り笑いをする必要もないどころ か、自然と腹の底から笑え、普段思いつきもしない冗談すら口をついて出て来る。予測不能な君の行動に振り回される事も嫌いじゃない。こう見えても楽しんで いるんだ。次はどうやって君が俺を困らせるつもりなのか、今この瞬間すら楽しんでいる」

 そう言って真澄の手が、テーブルの上のマヤの指先に触れる。溢れる何かを託すように。

「君といると自然体でいられる。嘘じゃない自分がいる。俺は俺でいいんだと。こんな気持ちになるのは君だけだ」

 ──また、口説いてます?

 そう言おうとしてやめた。茶化してはいけない気がしたからだ。図らずも真澄の本心の欠片に触れてしまったような感覚。まるでうっかり掴んでしまった鍋の 熱さに驚いて火傷を負ったかのように、ヒリヒリと皮膚の表面が痛み出す。

「人を信じられないなどと君に嘆くなど、俺も年を取ったな。特に誕生日は無駄に懐古主義になってよくないな」

 そう言って真澄は苦笑する。うっかり喋り過ぎたと後悔でもするように。

「昔はこんなんじゃなかった。君は信じてくれないかもしれないが、ごく普通の素直で正直な子供だったんだが、随分と遠くへ来てしまったな……」

 このとき初めて、真澄が失ったものと、そしてその失ったものと引き換えに負わされたものについてマヤは考える。始めから何もかも持っている人だと勝手に そう思っていた。けれどもそれは唐突に奪われる事によって出来た空洞に、無理矢理石を詰め込まれるような、そういう苦痛を伴うものであったのかもしれな い、と。それを抱えたまま、きっとこの人はずっと一人で歩いて来たのだ。

「……だったら戻ってくればいいじゃないですか。速水さんが言うように、たとえ遠くへ来てしまったのだとしても、本当の速水さんは今私の目の前にいる、こ の速水さんでしょ?」

 少し驚いたように真澄の表情が固まる。
 稚拙な言葉だが、口にしたのは確かに本心に間違いない。

 ──真澄は変っていない。

 言いたかったのはそういうことだ。伝わったのだろうか……。

「そうだな、君がいてくれれば戻れるかもしれないな。君が俺の戻る場所になれば……」

 そう言って真澄はテーブルの上のマヤの手を持ち上げると、そっと口付けた。

 何かが溢れそうになる。
 すぐにそれが自分の気持ちだとマヤは気付く。あれ程溢れ出ないよう、見えないよう、気付かれないよう隠しておこうと誓ったはずなのに、鍵を掛けた部屋の 木戸がカタカタと内側から揺れている。ここから出してくれと言っている。
 すべては真澄の仕掛けたゲームだというのに、あっという間にこんな陥落寸前の際まで追いつめられていた事にマヤは呆然とする。

「デザートは一口だけにします」

 運ばれてきた、深紅に色付けられた林檎が薔薇の形に美しく配置されたプレート。ほんの一口だけでも恋に落ちてしまうような、そんな禁断の味がするに違い ない。そういえば、アダムとイヴが口にした禁断の果実も林檎だった。

「どうしてだ? 君の大好きなデザートだろ」

「これを食べたら、速水さんの事好きになっちゃいそうだから。こんな美味しいデザート、もう一生食べられない気がして怖いんです」

 絶対に帰ると決めていたはずだ。
 ささやかな想い出を胸に、自分の家へ帰れると疑ってもいなかった。
 それなのに、まだ帰りたくない自分がいる。

 このデザートを食べたら、この魔法のような時間は終ってしまうのだ。そう思うと、端から解けていくソルベの輪郭が崩れていく様をただじっと見つめる事し かマヤには出来ない。

「食べなさい」

 真澄の声がそう穏やかに促す。

「君がそれを食べたところで、俺が君を取って食べる訳じゃない。地獄の扉が開く訳でもない。君に食べて欲しくて用意されたものだ。食べたい物を我慢する な」

 しばらくプレートをじっと見つめた後、真澄のその言葉に導かれるように、マヤはそっとスプーンを手に取る。
 赤ワインで色づけされた林檎の薔薇の形のコンポートからは、甘く芳醇な大人びた香りが広がる。
 今まで食べたどんなデザートよりも美味しかったし、これより美味しいデザートを食べる事はないとマヤは思う。

「凄く……美味しいです」

 真澄にじっと見つめられ、かろうじてそう一言だけマヤは口にした。
 咀嚼した林檎が喉を通過していく。喉に詰まって、白雪姫の気を失わせたのもそういえば林檎だった。この林檎の一欠片が、喉の奥に詰まって栓となり、自分 の真澄への想いが溢れ出なければいいなどと、そんな馬鹿な事を考える。

「本当に俺の事を好きになりそうなのか?」

「こんなに美味しかったら好きになります」

 泣きそうな声でそう告げると、真澄が苦笑する。呆れたような、それでいてとても穏やかな優しい表情で。

「君がここまで食べ物に弱いとはな。いいか、絶対に俺以外の誘いに乗るんじゃないぞ」

 念を押すようにそう言われ、喉の奥に僅かに引っかかった小さな林檎の欠片の存在を感じる。


 大丈夫、大丈夫──、まだ大丈夫──。


 例のあてにならないあの呪文がさっきよりもずっと遠くで聞こえた……。
 



2018.11.4







…to be continued















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