第4話・最終回
 まさかこんな事態になるとは全く想定していなかった──。

 リビングのソファーに小さく座る、本来ならばこの場所にいるはずの無い存在の後ろ姿に真澄は戸惑う。
 少なくとも、今日マヤが事務所に居る事を知り、半ば強引に食事に連れ出した時点ではこんな事になるなど、全く想定していなかった。

「凄い……お部屋ですね。廊下で目が覚めたから気付かなかったけれど、ここ、タワーマンションの最上階ですよね? 私が大都に用意して頂いたマンションも 充分凄いと思ってたけど、もっと凄いお部屋が世の中にはあるんですね」

 ガラス張りの壁面の向こうに広がる眩い夜景に目を奪われたのか、マヤは無邪気にそんな声を上げる。

「水でいいな」

 マヤが座るソファーの前のガラスのローテーブルに、水の入ったグラスを真澄は置く。ガラス同士がぶつかる硬質な音が、僅かに響いた。

「あ、はい、ありがとうございます」

 マヤの手には幾分大き過ぎる、水の入ったバカラのグラスを両手で包みながら飲む姿を見ていると妙な気持ちになった。自分が毎朝水を飲むグラスで、マヤが 水を飲んでいる。それはこれまで一度だって乱される事のなかった己の日常の中に、僅かな違和感が生じ、亀裂を入れられたようなそんな感覚だった。

 本来ならばいるはずのない存在が、今この部屋にいる。その現実を真澄はどう受け止めるか考えあぐねていた。

「あの……、寝ちゃってほんとごめんなさい。なんか、変な寝言とか言ってませんでしたか?」

「言ってたな」

「えっ、嘘っ! 何言ってました?」

 真澄は静かにマヤの隣へと腰を下ろした。

「俺の事が好きだと言っていた。帰りたくないとも」

「嘘っ!!!!!」

 案の定、真澄の言葉にマヤは酷く狼狽して叫んだ。

「嘘じゃない、確かに君はそう言った。ついでに言えば、俺がどんなキスをするのか、とか、俺に触って貰える女の人は幸せだ、とか、もっと凄い事も言ってた ぞ」

 マヤはパクパクと何度か口を開けたが、何も言葉にはならなかった。

「俺だってそこまで鬼畜じゃない。ある程度の確信がなければ、さすがの俺でも君をここまで連れては来られない。俺の事をどう思っているのか、君に聞いた な。好きか嫌いかで聞いたら、好きだと言った。あの瞬間、何としても今日君をこの部屋に連れて帰りたいと思った。勿論迷いはあったが、車の中で君の本心が 聞けたおかげでそれも消えた」

「ほ、本心って……!」

「違うのか?」

 追いつめるつもりも、怯えさせるつもりも毛頭なかったが、どうしてもここだけはハッキリさせておかなければいけない。でなければ、盲目的に愛し続けたこ の存在を抱く事など出来る訳がない。

「君は俺に愛される気があるのか?」
 
 強い意志を込めて、真澄はマヤを見つめる。

「昔からずっと好きだった女がいる。初めて出会った時は、ほんのまだ子供で、心を奪われた自分に対して正気なのかと疑った。それでも舞台の上でまるで別人 のように輝くその姿から目が離せなくなり、人が惹かれるのに年齢や境遇は関係ないのだとその時思い知った。どれだけ強く抵抗してみても、まるで引力のよう に引き戻され、そんな経験は今まで一度もなく、どうしたらいいか分からず、あろうことか俺は花を贈った」

 そこでマヤがひゅっと息を吸い込んだ。黒い瞳の表面が揺れる。

「紫のバラだ……」

 その一言を告げるのに掛かった歳月の重さに胸を塞がれ、真澄は目を閉じる。意識的に大きく一度息を吐いてから、ゆっくりと目を開けた。

「女優として応援していく事で、女として手に入れる事を諦めようとした事もある。他の人を愛そうとしたことも……。だが出来なかった。どうしても、出来な かった……」

 黒いインクで塗りつぶしたような過去が、一瞬、水の色をドス黒くさせる。自分の心を偽るという事は、激しく誰かを傷つける事でもあった。あの長く続いた 陰鬱な時代と決別するように、真澄は真っ直ぐにマヤを見つめる。

「君とのゲームに勝ったら、君を好きなようにすると言った。それは、君を俺のものにするという意味だ。ゲームに興じたふりをしたが、それこそが俺が本当に 欲しかったものだ」

 マヤの頬の輪郭を指先で辿る。どれほどこの存在が自分にとって大切なものなのか、今更ながら思い知らされる。

「ずっと君が好きだった。俺がこの世で唯一欲しいものは、マヤ……、いつだって君という存在だった」

 目の前のその存在は、小さな肩を震わせている。秘め続けたこの想いは伝わっただろうか──。

「もう一度聞く。君は俺に愛される気があるのか?」

「あるっ……!」

 そう叫んで、嗚咽の塊ごとその存在が胸に飛び込んでくる。
 力づくで奪ったり、罠を仕掛けて取り上げたり、騙した上で差し出させたり、過去に自分が幾らでもしてきたそういうやり方ではない方法で、生まれて初めて 真澄は本当に欲しかったものを手に入れたのだと、強く抱き締め返した感触でようやくそれを現実のものとして実感する。

「私も速水さんが好きです。でも……私なんかじゃ釣り合わない気がして、恥ずかしくて言えませんでした。生意気な態度ばかり取ってごめんなさい。ほんと は……大好きです」

 そんな可愛い事を言って、真澄の胸で泣きじゃくる存在を心底愛おしいと思う。

「俺こそ意地悪ばかり言って悪かった。過去に遡っても君には酷い事ばかりしてきたから、嫌われていると思い込んでいた」

 マヤが涙目で頭を横に大きく振る。

「……嫌いじゃないんです、速水さんにからかわれたり、意地悪言われたりするの、プリプリ怒ったりしてますけど、本当に嫌って訳じゃないんです。だって速 水さん、あたし以外の誰にもあんな事しないでしょ?」

「ああ、そうだな。それからこんな事も君以外の誰ともしない」

 そう言うと、真澄は顔を斜めにしてゆっくりと深く口付ける。先ほどの性急で乱暴な奪うようなキスとは違う、あらん限りの愛情を与えるようなそういうキス をする。マヤの体から抵抗という名の力が抜け、自然とお互いの体はソファーへと倒れるように沈んでいく。
 
 ゆっくりと、自分の腕の下で震える小さな存在の緊張を解きほぐす。指先が氷のように冷たかった。

「手が冷たい。俺といてこんなに緊張しないでくれ」

 そう言って指先をそっと包み、唇で触れる。

「緊張します。だって……、初めてだし、どうしたらいいか分からない。でも……、嫌とかじゃないから。大好きな人にこうされて、嫌な訳ないから、だか ら……ちゃんとついていきますから、ゆっくり……」

 そこから先は恥ずかしさのあまり、言葉にならなかったのか、顔を真っ赤にして真澄の首に両腕を回して抱きついてきた。

「ああ、勿論だ。大事に抱くから心配するな」

 そのまま抱き抱え上げ、ゆっくりと寝室へと向かう。

「速水さん……」

 首元に温かな息が掛かる。

「なんだ?」

「お誕生日おめでとうございます」

 改めてそう言われ、今日という日が自分の生まれた日であったことに真澄は思いを巡らす。
 物心ついた頃から、誕生日に特別な思い出はなく、思い入れもなかった。欲しかった物を手に入れた記憶もなければ、誰かに心から祝われた事もない。血のつ ながった家族がこの世から一人もいなくなった時点で、自分の出生について本当に身近に感じてくれる人間など誰もいなかったし、自分自身でも考えないように してきた。
 社長という立場に置かれてからは、ビジネスを円滑に進めるアイテムとして、やたらと誕生日を調べて祝う人間も存在し、必要以上に高価なプレゼントを贈ら れる事もあったが、だがそれだけだ。何の心も動かなかった。
 そうやって誰かから表面的に祝われたり、あるいは誰からも忘れられ祝われなかったり、そんな事を繰り返して、誕生日など一生やり過ごしていくのだと思っ ていた。

 腕の中のその存在は、目を閉じて真澄にすべてを委ねている。その重さと温かさが、真澄のこれまでの人生の中で、もっとも生きた価値を感じさせた。

「ありがとう……。今日は最高の誕生日だ」

 マヤは真澄の後ろに回した腕にキュッと力を込めると、照れたように目を瞑ったまま真澄の胸に顔を伏せる。

「おい、寝るなよ」

「は? 寝るわけないじゃないですかっ!」

 そうやってからかって怒らせるのも、きっと一生やめられない。
 真澄もまた、少しだけ力を込めて、腕の中のかけがえのないその存在を強く抱き締めた。










 朝が来る。
 何もかもが生まれ変わったような、まっさらな朝が。僅かに開いたカーテンの隙間から注ぐ眩い光が、生まれたままの姿で抱き合う二人を包む。
 
 目が覚めて、自分の腕の中で規則的な寝息を繰り返すその存在に、真澄は安堵する。夢ではなかったのだと。ついに自分はこの存在を手に入れたのだと。
 
 昨晩は少々無理をさせた。自制できると思っていたがとんでもなかった。大事に抱く、などと言っておきながら、何度も繰り返し激しく抱いてしまった。そん な事もするのか、と真澄の行為にマヤは何度も顔を覆って恥じらったが、ちゃんとついていくと言ったその言葉通り、真澄のすべてを受け入れてくれた。
 穢れなき花をついにこの手で散らしてしまったかと自責の念にも多少駆られたが、真澄の腕の中で眠るその姿は純真無垢そのもので、自分は何かを壊した訳で はないと安心する。誰かの寝顔を見て愛情が溢れ出るなどという事は、真澄にとって生まれて初めてだった。

「う……ん」

 太陽の光を感じたのか、あるいは真澄の視線を感じたのか、マヤの瞼がピクリと震える。

「おはよう、マヤ……」
 
「お、おはよう……ございます」

 目を開けてすぐの至近距離に驚いたのか、マヤは慌てて布団引っ張り上げて体を隠そうとする。昨晩、もう全て見たというのに……。

「もしかして寝顔見てました?」

「ああ、見てた」

 シレっとそう白状すると、酷い、趣味が悪い、気持ち悪い、と散々の言われようで叩かれた。

「ね、寝言とか言ってませんよね?」

 昨晩の出来事を引きずっているのか、恐る恐るそんな事を聞いてくる。途端に真澄の中で例の悪戯心がムクムクと頭をもたげる。

「『速水さん凄い、もっと、もっと……』と何度も言っていたぞ」

「はぁっ?! 嘘っ?!」

「ああ、嘘だ」

 そこから先はやれ「速水さんがそんなスケベオヤジだと思わなかった」だ、「セクハラで訴えてやる」など散々罵られた後、例のお決まりのとどめの台詞を言 われる。

「速水さんなんて大っ嫌いっ!!」
 
 本当に嫌われていた頃に言われると大層堪えたその言葉すらも、今日は余裕を持って受け止められる事に真澄は苦笑する。

「それは困る」

「困ればいい」

「誕生日なんだ、もう少し優しくしてくれないか」

「残念でした! 誕生日は昨日です。もう終わってますぅー」

 そんな軽口をベッドの中で叩き合う事自体が、そもそも夢のような話だ。
 マヤのその言葉から、ふと思い立った事を真澄は口にする。

「そう言えば、昨晩のゲームで君が勝ったら、何でも君の言う事を一つ聞いてやるという約束だったな。何をお願いするつもりだった?」

 マヤは少しだけ考えるような仕草をすると、昨夜の秘密を打ち明けるように言う。

「もしも昨日、私のほうが勝ったら……、一晩だけでいいから一緒にいて下さいって、お願いするつもりでした。でも今は違うお願いにしたい」

「なんだ、言ってみろ」

 マヤは恥ずかしそうに赤面した後、真澄の耳元に唇を寄せ、そっと囁く。

「ずっと……、ずっと一緒にいて下さい」

 その瞬間、真澄の胸の奥で、ずっと見えなかった未来への扉が真っ直ぐに開け放たれる。あれ程恐れ、絶望した未来の扉の向こうにはただ光が待っていた。
 
 そうだ、自分が求めていたのはマヤという存在にいつだって触れる事の出来る、何のためらいもなく抱き締める事が出来る、そういう世界だ。
 その世界への扉が今、開け放たれたのだ。

「ああ、ずっと一緒だ。一緒に生きていこう……」

 誕生日の夜がもたらした奇跡。
 一夜明け、魔法が解けても、この腕の中に残った確かな存在を真澄はいつまでも強く抱き締めた。










  2018.11.7







< FIN >













あとがき的な……



去年のネタ
「シャチョーの誕生日に無理矢理連れ去られて食事に付き合わされるマヤちゃん」
の、そもそもシャチョーが確信犯で策士だったら?バージョンでした。

今年もやってきた誕マスを前に、いよいよ今年はネタがないぞ、ほんとにないぞと、頭抱えたまま、去年のネタ帳をじーーっと見てたら、ネタメモの冒頭で

「俺にだって誕生日ぐらいある」

とか言ってるんですよ、この人!!
マカロンバレじゃないバージョンもあったんだー!とボツにしたとは言え、自分ですっかり忘れてました。

ピピっときたこの台詞から展開させた今回のストーリー。シャチョーにスマートにはめられるマヤちゃん、大好きだよ、もうw
背後でドアがガチャって鍵閉まる音とか、何度でも脳内でリピート出来るわぁ。あの瞬間、小動物が罠にかかった感MAX!! たまらん。

今回、WEBなのでR部分はごっそりカットしたのですが、清々しいまでの朝チュンで、読み返したら、まるで朝チュンの見本のような様式美で笑いました。



愛するシャチョーのお誕生日を、こうして今年も何とかお祝い出来て、本当に良かったです。

紫の祭壇もぜひ見てやってくださいw →



次は2ヶ月後の冬コミの新作でお会い出来たら嬉しいです。

毎日、毎日、書き続ける作業は時に発狂しそうになるほどの地味さの連続なので、感想コメント頂けましたら、それを糧に頑張れますのでぜひよろしくお願い致します!





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