第一話

 カレンダーに先を越された事に気付いた秋が、慌ててあちこちにその気配をひそめはじめる。
 朝晩のひんやりした空気の中に。風に揺れるコスモスの影に。空き地のススキの向こうに。舞い落ちる枯れ葉の下に。
 
 十月も半ばを過ぎると、マヤの脳内はある一点ばかりに占拠され、すっかり落ち着かなくなってしまう。致し方ない。真澄とつきあう事になって、初めての真 澄の誕生日が近づいているのだから。
 プレゼントすら決まっていない。その日をどう過ごすのかも。だからこうして、思いがけず顔を向き合わせられる時間が訪れれば、途端にそわそわと落ち着き をなくしてしまうのは、致し方ない事なのだ。

「か、確認のためにお聞きしますけど、いくつになるんでしたっけ?」

「三十三だ。君は?」

 長い指が、そっとコーヒーカップをソーサーに戻す。カチャリと陶器がぶつかる僅かな硬質な音すら響く、世田谷の撮影所の近くにある閑静な住宅街の静か なカフェ。近くま で用事があったから、と言って真澄が撮影現場に顔を出し、しばらく出番のないマヤはこうして連れ出されたところだ。
 平日の午後5時という中途半端な時間帯は、二人以外の客はなく、黒いギャルソンエプロンを着けた店員の気配すら、時折その静けさのくぼみに沈み、柱時計 の秒針が時を刻む音だけがこの世の動を為していた。
 
「今、二十一です。あと三ヶ月で二十二になりますけど」

 年齢の印象操作をしようと無意識に思ったのか、思わず、聞かれてもいない未来の予定まで必死に口走ってしまった。

「二十一か、若いな……」

 目を細めて、複雑な表情で見つめられる。途端に胸が苦しくなる。甘い甘いミルクティーではなく、ブラックコーヒーにでもしておけば良かったと、無駄に後 悔した。

「わ、若いの嫌いですか?」

「じゃぁ、君は年上が好きなのか?」

 予想外の言葉にマヤは息を呑む。そんな事は考えたこともなかった。

「え? ち、違います。私は速水さんなら何歳でもいいかなって……」

 再びコーヒーカップを持ち上げた真澄が、クスリと笑う。

「同じだ。いくつでもいい、いくつだって構わない。もっともこんなに若くて可愛い恋人が三十過ぎの男に出来たとなれば、色々言われるのは男のほうばかり だがな」

 途端に頬がカッと熱くなる。何でもないふうにサラリと言われたが、つきあうようになって初めて「可愛い」と、今言われた。たったその一言に、全力で赤面 してしまう。

「か、可愛くはないですよ、あたしなんか……」

「可愛いよ」

 褒められれば、条件反射で否定する事しか思いつかないその幼さを、真澄はいとも簡単にその一言でなだめてしまった。

 こんな時、

 敵わない──、

 そう思ってしまう。


 始まったばかりの男女の付き合いの中で、自分は手探りで右往左往しながら必死で進むのに、いつだって真澄はその道の少し先で立ち止まっては振り向いて、 静かにこちらを見ながら待っている。どうしたチビちゃん、早くおいで──、そんなふうに。
 それは致し方ない事なのだと、勿論頭では分かっているつもりだ。だって十一も年が離れているのだから。真澄はもう充分な大人で、そして自分はまだまだ子 供なのだから、と。
 けれども不安は募る。こんな自分で、真澄はいいのだろうか。楽しいのだろうか。満足出来るのだろうか。誕生日プレゼントの一つも、なか なか決められないマヤは、どうしたってそんな不安にばかり苛まれていた。



「プレゼント、何が欲しいですか?」

「何も……。君さえ居れば、それでいい。物欲は元々ないんだ」

 真澄にしてみれば、気を使った一言だったかもしれないし、物欲がないというのも本心であったかもしれない。
 でもそれでは寂しいのだ。つきあって初めての 誕生日。お祝いする立場になれて、初めての誕生日。何もしないなんてありえない──。

「──っていけばいい」

「え?」

 ネガティブな思考の深い谷間に入り込むあまり、真澄の放った言葉の冒頭を聞き逃した。いや、耳には入ったはずだが、上手く処理出来なかった。

「その日は泊ってゆっくりしていけばいい」

 聞き間違いではなかった。

 泊っていけばいい──、
 確かにはっきりと真澄はそう言った。









 付き合い始めて一ヶ月。
 初めて男とまともにつきあうマヤにとって、その距離感の測り方、あるいは縮め方は全く未知の世界だった。

 初めてキスをした夜、それは決して強引なそれではなく、そっと唇を重ねるだけの丁寧で穏やかで優しいキスであったというのに、マヤは震えを止める事が出 来なかった。そっと唇に触れられ、柔らかな感触を確かめ、そしてゆっくりと離れていく真澄の唇に、心臓の一部を僅かに切り取られて持っていかれるような、 そんな苦しさすら覚えた。
 キスをしたのはそれが人生で初めてだった。芝居ですらした事がなかった。
 キスがそんなに甘く、苦しく、体が震えるほどのものだとは、全く知らなかった自分は、そんな自分の様子が真澄の目にどれだけ幼く、どれだけ頼りなく、ど れだけ滑稽に映っているのか、想像するだけでまた胸が苦しくなった。

「大丈夫だ。そんなに怖がらなくていい。君が嫌がる事はしないと約束する」

 そんな自分の様子を見かねてか、真澄にそんな事を言わせてしまった。怖い訳でもないし、嫌がってなんかもいない、むしろ──。
 けれども自分の中の欲望など、見た事も聞いた事もないマヤにとって、それを言葉にして解明する事や、あるいは真澄に委ねる術など分かるはずがなかった。


 デートの終わりには必ずキスをする。
 ある時は車からの降り際に、ある時は送ってもらった際の玄関先で、ある時は急に降り出した雨をしのぐために差した傘に隠れるように。
 何度目かのキスで、掠れる声でそっと囁かれた。

「口を開けて──」
 
 頑なに閉じたままでいた唇を、そっと舌で優しく押し広げられる。羞恥と動揺から、体が瞬時に熱くなり、思わず真澄のスーツの腕の辺りを縋るようにきつく 掴んでしまった。マヤの部屋の玄関という事もあり、人目を気にしないでも良いせいか、いつもより長く、長く、続くキス。激しくなる真澄の舌の動きに戸惑う よ うに、顎を引いてしまうと、優しく後頭部を包む真澄の大きな手のひ らが、そっと押し戻す。息継ぎが不安定になり、思ってもいない淫らな息が己の口から零れ落ち、自分でも驚く。

「や……、こ……わい、速水さん」

 決して真澄が怖い訳でも、キスが怖い訳でもなく、ただただ自分がどうなってしまうのか分からない、そういう未知のものへの恐怖から思わずそんな事を口走 るが、間違ったニュアンスで伝わったようで、真澄に苦笑された。

「二十一はもう少し大人だと思っていたんだけどな。なんだか自分がとんでもない好色じじいにでもなった気になる。まいったな」

「ご、ごめんなさい……」

 こんなふうに俯いてしまえば、もう真澄の顔色すら分からない。呆れられたか、溜め息づかれたか、それとも到頭怒らせてしまったか──。

「もう遅い、早く寝なさい」

 何事もなかったかのような、カラリと乾いた声でそう言われた。きっと気まずい空気にならないよう、真澄は声音を着替えてくれたのだ。

「ちゃんと戸締まりするように」

「はい……」

「おやすみ」

「おやすみなさい。気をつけて……」

 真澄の口が一瞬、何かを言いかけたが、けれどもそれを飲み込むかのように穏やかに笑うと、クシャリと頭を撫でられる。
 スーツの背中を見送ると、静かにドアが閉まった。言われた通りに施錠をすると、そのままコツリとスチールの扉に頭をついた。

 また、上手く出来なかった──。

 真澄はキスが上手い。
 キスだけじゃない。エスコートも、会話も、デートの場所を決めるのだって、そこへ連れていくのだって、車に自分を乗せる動作一つとっても、全てが洗練さ れている。大人の男とはこうあるべきだ、の見本のようにこんな自分をエスコートしてくれる。
 対して自分は、きっとキスも下手だ。
 キスだけじゃない。全部。何もかも、ぎこちない。
 真澄が呆れるのも無理もない。

 けれども、嫌な訳ではないのだ。
 今日だって、もしかしたら──、と勝手に想像し、妄想し、上下揃ったちゃんとした(それ用に買ったということだ)下着を着けていたし、部屋だって掃除 しておいた。
 先日、真澄に部屋に寄って行かないかと、翌日の予定もあわせて聞かれた際、色めき立った数秒後に自分がその日はブラトップをつけている事を思い出 した。稽古の際は便利なのでブラトップばかり愛用していたが、ついそのままデートに来てしまったのだ。
 勝負の日に、上下揃ってないとか、あまりお洒落ではないとか、そういう下着を着けていて焦る話はよく聞くけれど、そもそもブラジャーすら着けていないと いうのは、一体どれぐらい緊張感のない女として真澄の目に映るのか、想像するだけでもうこの日は終わったとマヤは確信する。
 結局、「明日、予定があったのを急に思い出した」などと、わざとらしい急ごしらえの言い訳をして、その夜も帰ってしまったのだ。

 だからこそ、今日は大丈夫なはずだった。
 今日こそは、大丈夫なはずだった。
 でも結局、自分は全然、大丈夫ではなかったのだ。

 もう少し、真澄が強引であってもいいのに──、そんな事すら思ってしまう。上手くは対応出来なくても、嫌な訳では決してないのだ。例え、恐れを為して怯 んでいるように見えたとしても、もう少し押して貰えれば……。
 そんな事を思うのは、きっととんでもなく滑稽で、図々しく、馬鹿馬鹿しい。
 
 深い溜息がマヤの胸元にこぼれ落ちる。
 もう一度、スチールの扉にコツンと頭をつく。

 つきあい始めは、まるで買い替えたばかりのエアコンの温度調節のようだ。加減が分からない。この位でいいのか、あるいはこの位ならいいのか。ほんの一度 の差で、暑かったり、寒かったり。二回位、寝冷えでもして風邪でも引けば、少しは分かるようになるのだろうか。

 いつになったら、あるいはどうやったら、真澄と恋人としての距離を縮められるのか、マヤは途方に暮れたまま、深い溜息をこぼすばかりだった。






 「その日は泊ってゆっくりしていけばいい」

 そんなマヤにとって、あるいは二人にとって、その言葉は確定された未来をもたらす。お互いを思いやるばかりに、気を使い過ぎて、まるで沼にはまった車輪 のように前にも後ろにも進まなくなってしまっていた。間が悪いとも言えたし、相手がマヤだから、とも言えた。
 いずれにしても、約束してしまえば、後はその通りに進めばいいのだ。それぐらいならいくら自分にだって、覚悟さえ決めればいけるはずだ。

「はい……」

 それだけ言うと、また気恥ずかしさから俯いてしまいそうになる。けれどもそれではきっとまた誤解させてしまう。嫌なのではなく、嬉しいのだと、その気持 ちを伝えたいとマヤは必死に思う。

「あ、あ、あのっ……、楽しみにしてます! 速水さんのお誕生日のお祝い出来るの、すっごく楽しみにしてますからっ!」

 その勢いに、真澄は少し驚いたような表情をした後、穏やかに笑う。

「俺も可愛い恋人に誕生日を祝って貰うのは初めてだ。楽しみにしてるよ」

 きっと今度こそは、大丈夫。
 美味しいご飯でも食べて、気の利いたプレゼントの一つも渡し、心からのおめでとうを伝え、そしてその夜はきっと──。
 真澄と別れて、スタジオに戻る道すがら、不埒な想像と妄想に襲われ、マヤは真っ赤になった顔をパタパタと仰ぐ。
 プレゼントは何にするのか──、その答だけは、まだ出てはいなかったけれど、すでに浮き足立ち始めたこの幸せな気持ちは、誰にも、何にも止める事はもう 出来 なかった。






2015.11.1





…to be continued








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