第1話



 
「出演者に陽性反応? それで共演 者はどうなってるんだっ?」

 次から次へと飛び込んでくる悪夢のような知らせに真澄は声を荒げる。今年に入って、世界中を襲った新型ウィルスの感染拡大によって、興行の世界は壊滅的 なダメージを受けている。
 三月以降の舞台はことごとく公演中止。ドラマや映画の撮影も中断され、茶の間のゴールデンタイムでは十年以上前の連ドラが放映される事態だ。

 最も被害が大きいのは、多くの観客を動員するライブを前提とした公演だ。コンサートは勿論、演劇やミュージカル、バレエ公演など全ての公演がまるで息の 根を止められたかのように首を締められ、声を出す事も叶わない。
 そんな状態が半年以上続いたが、ようやく秋に入り、国内では手探りで公演が再開されてきたところだった。
 感染拡大防止の観点から、座席数は半数までに抑えられ、一つ飛ばしでの座席の販売を余儀なくされている。完売したところで赤字覚悟の公演ばかりとなる が、役者に仕事をさせない訳にはいかない。舞台に立たせない事は彼らにとって死にも等しい。
 やるも地獄、やらぬも地獄などと揶揄する声もあったが、それでも大都芸能を率いるトップとして、真澄は這いつくばってでも前進する方を選択した。
 社内にも、また業界全体にも少しずつ明るい空気が戻ってきたところだったというのに、たった一人でも関係者に感染者が出ると公演が飛ぶという事態が続 く。出演者に感染が出た場合は勿論だが、濃厚接触者となった共演者はそれだけで14日間の自宅待機となり、全く関係ないはずの次の出演舞台が中止になると いう想定外の事態まで起こる。

 次々と決まる公演中止の対応に追われ、損害だけが膨れ上がる日々。加えて、全く先が見えないという事態が一層、エンターテインメントの世界に生きる人間 を苦しめていた。

「北島マヤの来月の主演舞台も中止ですか……」

 先程決まったばかりの知らせを伝える水城の口から、深い溜息が漏れる。今年に入って、北島マヤ主演舞台の中止はすでに三つ目だ。これからそれを電話で伝 えなければならないと思うと、どれほど失望させるかすでに痛いほどに分かるゆえ、真澄はデスクに肘をついた片手で額を押さえる。文字通り頭を抱えるかのよ う に……。

 ただでさえもう長いこと会えていない。
 不要不急の外出を控える事が叫ばれた自粛期間中は、仕事がなくなった所属の俳優やタレントにもきつく在宅を命じていた。出歩いた事による感染は勿論だ が、飲み歩いた事などが発覚したタレントの素行がスキャンダルに繋がったのも一度や二度ではない。日本全体がまるで監視しあっているかのような張り詰めた 緊張を強いられる中、これ以上の不要なトラブルは何としても避けたく、真澄自身も社長として自らの行動をかなり制限していた。

 恋人とはいえ、家族ではない──。

 稽古も全て飛んでしまった今、自宅でほぼほぼ引きこもるマヤに比べ、仕事とはいえ、こうして出社して複数の人間と会っている自分のほうが感染リスクが高 い訳で、安易にマヤに会う事も憚られた。
 しかもタイミング悪く、丁度コロナ禍の少し前、大都芸能への所属をきっかけに都内のマンションでの一人暮らしを始めさせたばかりだった。長年生活を共に した青木麗との同居を解消させてまで、自分の目の届く大都所有のマンションに引っ越させたつもりが、逆にマヤを一人きりにしてしまう結果となる。
 舞台も仕事も全てなくなり、孤独に苛まれているのでは、と心配はするものの、真澄自身も相次ぐ公演中止等の対応で身動きが取れなくなっていた。

(久しぶりの電話が公演中止の知らせか……)

 手にしたスマートフォンが鉛のような重さに感じる。









「もしもし、俺だ──」

「こんばんは」

 五コール目で繋がった声に以前のような弾ける抑揚はなく、その一言だけでも不確かな不安が真澄の胸に広がっていく。

「何をしてた?」

「え? 今ですか?」

「今もだが、ここ最近含めてどうしてた?」

 問い詰めるつもりはないのに、つい自分が口にすると詰問口調になってしまうのは昔からの悪い癖だ。

「えっと……、家でずっとDVD観たり、配信観たり、本読んだり……、その繰り返しです。あと体が凄い鈍っちゃうので筋トレしたり、早朝にマラソンしたり とか。あ、遊びに出かけたりとかはしてませんよっ!」

 慌てたようにそう付け加えるので思わず苦笑が漏れる。これではまるで在宅を確認する恐い上司か教師のようだ。

「分かっている。むしろずっと部屋に閉じ込めて申し訳ないと思っている。会いにも行けていない」

 図らずもそこで真澄の口から大きな溜息が溢れる。言葉にならないもどかしさと、会えない事、今触れられない事への焦燥が、まるで体内から塊となって吐き 出されたかのように。仕事に忙殺され自覚がなかったが、会えなくなって参っているのはむしろ自分の方なのではないか──。

「大丈夫ですよ。紅天女以降、凄く忙しくてお休みもなかったのでいい機会だと思って、観たかった映画とか舞台映像を片っ端から観たり。自分の体の事も私今 まで適当にしてて、亜弓さんみたいにトレーナーさんつけてストイックに鍛えたりとかもしてなかったから、ほんとヘニャヘニャで……、いい機会だからちょっ と鍛えたりしてます。そういう事に時間使った事今までなかったから、凄く有意義な感じとかもして……」

 気を使わせてしまったのかもしれないが、マヤは明るくそう答えた。

「勿論……、速水さんには会いたいですけど……」

 最後に早口でボソリと一言、どうしようもない本音を漏らすようにそう付け加えた。

 すまない──、意味もなくそう謝りかけた瞬間、遮るようにマヤが唐突に話題を続ける。

「今日はロンドンにいる亜弓さんから勧められて、イギリスのロイヤルバレエ団の配信観てたんです。七ヶ月ぶりの劇場再開で、全世界配信されるから絶対観 てって。バレエの技術的な事とかは正直、私よく分からないんですけど、舞台人なら七ヶ月ぶりに舞台が再開されるのがどういう事かよく分かるはず、絶対観 てって亜弓さんに言われて……」

 ロイヤルバレエ団の配信については真澄もニュースで目にした。密を避ける為、一階席の座席を全て取り払いオーケストラをバンケット全体に適切な距離で 配置したそうだ。客席となるのは、サイドの個室のストール席と二階以上の座席のみで、医療従事者や学生が招待されると聞いている。一つの大掛かりなライブ 配信のモデルケースとして真澄も注目していた。 

「バレエダンサー達の舞台に立てる喜び、踊れる喜びみたいなのが凄く伝わってきて、その場所でしか生きられない人たちの思いが分かり過ぎて……、やっぱり ちょっと泣いちゃいました」
 
 そう言ってマヤは鼻をすする。

「そうだな……」

 改めて、舞台に立たせてやれないこの期間というのが、どれだけマヤの生きる気力を奪っているのか思い知らされる。

「それから一つ面白いなと思ったのが、パ・ド・ドゥって言って、男女がペアで踊る踊りがあるじゃないですか。今回、団員の中でも結婚してたり、同棲してたり で生活を共にしているパートナー同士はそれを踊ってもいいって事にしたみたいで、そういう判断基準ってコロナじゃなきゃありえなかっただろうし、正式な パートナーだったら出来る、許される事ってバレエに限らず実生活でも今は沢山ありそうだな、って考えちゃいました」

 驚いて真澄は一瞬言葉に詰まる。

 恋人とはいえ、家族ではない──。

 つい先程、自分自身、その事実が突きつける現実を直視したばかりだった。会うこともままならず、途端に存在を遠く感じさせられてしまう。結局のところ、 恋人というのはあくまで二人の人間の関係性を表すだけのものであって、何の責任も伴わない関係ということだ。
 秘密裏に付き合っているという現況では、世間的に自分の存在はマヤにとってただの所属事務所の社長であり、それ以上でもそれ以下でもない。その事がこの コロナ禍において浮き彫りにされたのだ。

 沈黙を気まずく思ったのか、マヤが明るい声音で促す。

「そういえば電話……、きっと何か用事あったんですよね? ごめんなさい、私ばっかりベラベラ喋っちゃって……」

「ああ……、実は来月予定されていた舞台だが、今日正式に中止が決まった。稽古の目処が立たない事と、興行的な面での総合的な判断だ」

 落胆を伝えるには十分過ぎる再びの沈黙。こういう時、顔が見えない事が何より辛い。全ては推し量るしかなく、いつだって自分はその推し量り方を間違えて いる気がしてならないからだ。

「すまない……」

「だ、大丈夫です。そんな……、速水さんのせいじゃないですし、謝ったりしないで下さい。その……、ある程度は覚悟みたいのしてたんで。無理かもしれない なって……」

 かける言葉の正解が分からず、真澄自身途方に暮れる。

「また次がある」
「今は耐えるしかない」
「来年は元通りになっている」

 そんな言葉は全て無意味だ。この先どうなっていくのか、そんな事は誰にも分からない。何も確定的な事は言えないのだから。

「明日の予定は──」

 電話の切り際のいつもの癖で、そんな事を口走り、真澄は思わず絶句する。女優としての仕事の全てが止まってしまった今、明日の予定など何もないと分かり きっているというのに。

「明日は……、雨みたいだからジョギングは無理かな。家でまたDVDとか観ます」

 そんな真澄の様子に敢えて気づかないふりをしたのか、マヤはさらりと何でもないふうにそう答えた。

「速水さんこそ、お仕事すごい大変ですよね。ちゃんと……、寝て下さいね。体大事にしないと、免疫下がったりしたら大変です」

 逆にこちらの事を気遣われ、短い通話は終わった。

 電話を切った後のほうが、話す前より部屋の闇が深くなるのはなぜだろう。より孤独が浮き彫りにされるような感覚が、無駄に研ぎ澄まされる。誰もいない社 長室にいつまでも自分の声が残り、そして鼓膜にはマヤの声が残った。そのどちらもが、本当に話したかった事を話せていないという焦燥。触れる事ができな かった実際の温もりや輪郭。そして見る事の出来なかったマヤの顔は、決して笑ってはいない。
 
 その事がこんなに堪えるとは……。

 デスクの上の鍵を無造作に取ると、真澄は社長室を飛び出す。

 電話の声に元気がなかった。
 公演中止のダメージが想像以上に大きかった。
 長い事一人にさせ過ぎた。
 痩せたり太ったり、会ってみなければ女優としての体調管理も把握出来ない。

 会いに行くもっともらしい理由はいくつも浮かんだが、どれも本当で、けれどもどれもそれだけではなかった。

 一番の理由は、

会いたい──、

ただそれだけだった。







 都会の夜を流すように走る車は、そのまま通い慣れたタワーマンションの地下駐車場へと吸い込まれる。大都が借り上げていると いう名目上、駐車場の鍵もエ ントランスの鍵も真澄は持っている。
 二十五階のマヤの部屋の前まで辿り着くと、一瞬躊躇った後、真澄はインターフォンを鳴らした。ここまで来ておいて今更だが、勢いだけで大の男が電話の十 数分後にこんな所まで駆けつけてしまった事にほんの一瞬だけ苦笑じみたものが浮かんだのだ。

「はい……?」

 案の定、物凄く警戒した声がインターフォン越しに聞こえる。俯く自分の姿はモニターを通してマヤの目にもはっきりと写っているだろう。慌てたようにガ チャガチャと鍵が開 く音がする。

「ど、どうしたんですかっ?!」

 勢いよく扉が目の前で開き、驚いた表情で固まりながら、大きな黒い瞳がこちらを見上げる。その姿を目にした瞬間、頭で考えるよりも早く、体が動いてし まった。その小さ な体を奪うように抱きしめると、後ろ手でドアを閉める。隔離され続けた彼女の世界に入る事が出来た、そんな奇妙な安心感のようなものが急速に胸の中に広が り、まるで動けなくなったかのように、真澄はその腕を緩める事が出来ない。
 マヤの心配をしているようで、結局のところ、どれほど自分にとってその存在が欠けていたのか思い知らされただけだった。

「会いたかった……」

 その言葉は、きつく縛りつけた袋の紐が切れたかのように、重力に逆らう事を諦めた石のごとく、真澄の口からこぼれ落ちた。







2020 . 11 . 03








…to be continued















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